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10年たって

あれから10年たった。本来なら3月11日に書くような記事だが、自分はあの出来事を現実のものだと10年たっても呑み込めていない。それに多くの人のように感受性が高くないので、その出来事がただの地球の歴史の1ページであって、僕の歴史の1ページとして飲み込むことが出来なかった。

10年前。僕は九歳だった。まだ何が起きたかもよく分からなかった。自分は東北地方からは離れている場所に住んでいたので、被害どころか、揺れもほとんどなかった。それでもテレビでは凄惨な光景が一日中流れていた。

すごい勢いで流れる濁流、流される家屋、床と思わしき板に捕まりながら助けを求める人、3人くらい板の上で流される人。高いところに逃げた人、巨大な木も投げれていた。

これはなんだ?ほんとに起こった出来事なのか?

学校では黙祷を捧げようと先生に言われ、黙って目を瞑っている。僕は誰に黙祷を捧げているんだ?

テレビで流れる凄惨な光景といつもと何ら変わらない通学路。

キャスターが話す、凄惨な状況。 友達が話す、くだらないような話。

コメンテーターたちが安全な場所から被災地に向かって何かを話している。
先生が震災の話をする。安全な場所から。

まるでドラマみたいだった。でもそれは実際に起こった出来事で、被害も本物だった。

でもきっとドラマと変わらない。じゃなきゃいろんなテレビやネットであんなに「被災者を労わろう」といっていたのに、実際には被災者に対してはいじめなどが起きるはずがないから。まったく放射能の問題はないのに「福島産だから無理」みたいなこと口が裂けても言えるはずがないから。

そんなこと言いながら、普段はそんなこと覚えてもない癖に3月11日になったら、急に思い出して声高に「この出来事を忘れてはいけない!」なんてなんも被害がなかった人が言えるはずないから。

そもそもあんな凄惨な出来事忘れたくても忘れられないだろう?


10年たった。僕は19歳になった。もうすぐ二十歳だ。大人になる。小学生だった男の子が20歳の大人になる。

まだまだ被災地は震災の牙が残っているらしい。実際に被災した人の中で勇気のある人たちがいろんなところで講演をしている。僕もその講演を聞いたがあまりに非現実的過ぎて焼き過ぎたステーキみたいに上手く噛み切れなかったし、飲み込めなかった。10年たった今ですら。大人になった今ですら。

それだけ震災というのはやばかったのだ。簡単に言葉に出来ないほど。

それでも、勇気をもって言葉にできる人がいるように、少しでも復興している姿が見られるように、震災の爪痕は少しづつ見えなくなっているらしい。

10年たったが、これから100年もすればこの震災も悲惨な出来事から歴史に変わる。第一次世界大戦みたいに。もっと早いかもしれない。震災の爪痕が見えなくなった時に歴史になるかもしれない。太平洋戦争みたいに。

その時に声高に「これが忘れてはいけない歴史だ!」という人が出てくれば...

出てこなければただのイベントに成り下がってしまう。


10年たって、今もまだ僕は震災について自分の歴史であるといえない。たぶんこれからも。今でも誰に黙祷をしているのかは分からない、それでも誰かは傷ついていて、それが本当だと本当の意味で理解できるようになるくらいには大人になった。これから僕らはこの記憶を歴史にするために継いでいかないといけないだろう。

少年から大人になった証として。



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