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クリスチャンのテーマ曲

クリスチャンのテーマ曲(その他)
「クリスチャンのテーマ曲」

 思わず自信喪失した。母さんが、他の人の小説を僕に聞かせてくれた。まるで、父さんの運転するクルマの中から、外の祭りを見ているような気持ちだった。何故に人はこれ程差があるのか。兄弟姉妹ではなかったか、道歩く人にお姉ちゃん、などと真顔では、呼べない。人間(ひと)には理解できないものだ。自分のテーマ曲を流しながら道を歩く個人は、たいていそれらの疑問は愚問だと思わ去るを得なくなる。そうしなければ、楽しんで生きてはいけない。この世は人間が決めたことばかりだ。自然が神の産物だと思うのが、まるで対照外(対象外としてもよい)と思い込む程に、この世は人間が常識を担っている。神の国とは、きっと違うのだろう、この世は汚れているのか。クリスチャンは何故発狂しないのか。そこまで信じていて、この世の中全てを恵みだと言うのか。確かに生きていることを生かされていると気付けば、自分の思っていたことの価値は、皮肉でもわかる。何にも報われないクリスチャンがもしこの世のどこかにいたなら、僕は遠い記憶に溺れてしまいたい程、きえたいと思う。信じれば信じる程、死にたいと願うか、生きたいと願うか、どちらかだ。僕も人間にはかわりないだろう、深く思い込むのがだめなことだと思えば、もうひとりの自分を否定することになる。”死にたい”と思うことは、そんなにもわるいことになるのか。もしかしたら、神様もそれを僕に願っているんじゃないのか。錯覚はいろんなかたちで、クリスチャンである僕にふりかかってくる。何故、あの人は、たくさんの人々を殺したの?あの人々の中にクリスチャンが何人かいたかもしれないのに。

「無題」
人間が何を描こうと、何を書こうと、僕が知りたいたった一言の答はかけない。それは他人(ひと)に、”神様を見せてくれ”という疑問に対しての答に似ている。

「孤立無援」
人生とは、神でなくてはわかるものではあるまい。人間は人生ではなく、その上を生きるもの。得てして、認識と「人生」とはかけ離れた所に位置しているのかも知れない。「得てして」と言うが、基準はない。”人生を理解出来る”と言う場合には、例えば一寸先を知り得る先見を有していても良い。ただ、”こういうものだ”などと言うのは、嘘つきに過ぎない。今までの経験により、ものを言う。だからと言って、僕は他人にまで、”死ぬことにしなさい”などとは言えないのである。

なきごとを言うのはやめましょう。この夕焼けはとてもキレイじゃないですか。この人も今はとても優しいじゃないですか。なきごとを言うのはやめましょう。言ったところで、感情とは別に、その状況は何もかわりません。なきごとを言う暇があったら、生まれてきたことでも思い出しましょう。孤独というのなら、他にもそんな人は確かにいる、そんな人には死んでから会えるとでも思いましょう。そのために神様でも信じなさい。

「暴行」
弱者が数人いるところに、強者が一人、やってきた。その強者は性格からして、その輩を嫌い、持っていた武器で、次々と弱者を殺した。やがて、ひとりになった弱者は、性格から、一人でいる自分を臆病に思い、隙を見て、強者の武器を奪ってその強者を殺した。その弱者は、性格故、そのショックに震え、その場所から動けなかった。あとから来た警察にその弱者はつかまった。弱者は死刑になった。

「ふたつの才能の誇張」
彼は、筆達者だった。彼は、ミュージシャンだった。そのふたつのことを彼は、自分の生きる目印だと主張し、またプライドとした。その日作ったデモ・テープを流しながら、その善し悪しをこの先に利かそうとした。そして、その時ふと思ったことを文にしようと、彼の好奇心が彼を誘った。すると、たちまちそのデモ・テープから流れる音が大きく聞え始めた。書き方を考えている内にその大事な1曲が終ってしまいそうなのだ。彼は頭を抱え込み、デモ・テープを聞きながら黙っていた。その時、ふと何にも身動きとれない自分が在ることに気付いた。彼はテープを巻き戻し、止めた後で、そのことを文章にした。

「無題」
人の才能とは、欲を誘うものなのか。ないものねだりが根底にある人とは、さらに上を欲しがろうとする。しかし、そうなっては愚かだ。どれだけ上を欲しがったとしても、最後の審判である神の力を越えることはできないのだから。それがもし、在り得ることだとすればそれは、神が存在しない時だ。


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