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【アップ】2023年11月12日主日公同礼拝/讃美歌とMynoteもあります

【本日の礼拝メッセージ】
https://www.youtube.com/live/-MUmCDhDxX0?app=desktop&feature=share

【アメーバブログ】
聖書や讃美歌の内容などは、こちらのブログより閲覧できます。
ぜひお気軽にお立ち寄り下さい^^
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前奏
招詞 イザヤ書63章15,16節
頌 栄 たたえよ、主の民[こ改25]
開 会 祈祷
主 の 祈り(週報裏面)
十戒・祈祷(週報裏面)
子ども説教
子どもと親のカテキズム問61
「救い出されためぐみ」
こどもさんびか
ほめうたうたえ[改43(2節)]
牧 会 祈祷
讃 美 歌 235番
聖書
使徒言行録18章12~17節(新約P250)
イザヤ書59章9~20節 (旧約P1158)
説 教
「宗教の審判者~主を支える正義」
宮武輝彦
祈 祷
讃 美 歌 376番
みことばの交読文
詩編85編10~14節
感謝のささげものと執り成しの祈祷
頌 栄 542番
祝 祷
報 告

讃美歌~♬

讃美歌235番
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=Ub4Yg1zNqJQ
1.
主のみたみよ、
ふるいたちて、
ちからのかぎりに
主につかえよ。
2.
主のみくには
ちかづけるに、
むなしくまどろむ
ものはたれぞ。
3.
悪のやみを
はらいのぞき、
正義のあしたを
きたらしめよ。
4.
主の十字架を
たかくかかげ、
なやみのみちをも
おおしくゆけ。
5.
ひとの子なる
主にならいて、
ああ主のみたみよ、
ふるいたてよ。

讃 美 歌 376番
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=VPhABWzl0Uw
1
正義の君なる 神の御子の
血にそむ御旗に 続くは誰(た)ぞ
悩みのさかずき おおしく受け
十字架を負うもの その人なり
2
み跡につづきて まず主のため
石もてうたれて たおれつつも
み空をあおぎて あだのために
祈りし御弟子に つづくは誰ぞ
3
わが主に選ばれ みたまをうけ
剣もほのおも 獅子の牙も
おそれず厭わず すすみゆきし
むかしの聖徒に つづくは誰ぞ
4
老びと 若うど おとこ おみな
新手(あらて)となりつつ 敵にあたり
み国をのぞみて いさみ進む
つづかせ給えや 主よ我をも

2023年11月12日 礼拝説教 中心聖句

「問題が教えとか名称とか諸君の律法に関するものならば、自分たちで解決するがよい。わたしは、そんなことの審判者になるつもりはない。」
使徒言行録18章15節

主は人ひとりいないのを見 執り成す人がいないのを驚かれた。主の救いは主の御腕により 主を支えるのは主の恵みの御業。
イザヤ書 59章16節

はじめに
混沌とした世の中で、諸「宗教」も乱立状態?。真の「宗教」はどこに?

「ガリオンがアカイア州の地方総督であったときのこと」とは、パウロのコリント伝道における一年六ヶ月の間の出来事(ガリオンの在任期間A.D.51.7.1-52.6.30.)。主の幻において、身の安全が約束されながら、あるユダヤ人たちの告発が起こった。ガリオン(ルキウス・ユニウス・ガッリオー・アンナエウス)は、ストア派の哲学者セネカの兄で、ローマ帝国の元老院議員の一人。その性格は、愛想がよく、親しみやすい人物であったと言われる。総督ガリオンのもとに、「ユダヤ人たちは一心にパウロに向かって立ち上がり、法廷に連れて来た」。多分、パウロに敵対していたユダヤ人たちは、有罪判決を期待し、着任次第、時を待たずに告発したと思われる。約20年前には、ナザレの人イエス(まことの、神の独り子)が、ユダヤ州の総督「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」(使徒信条)、十字架刑に引き渡されたことを思い起こす。ローマ帝国における法の裁きと宗教裁判、あるいは、国家と宗教を見る。

「この男は、律法に違反するようなしかたで神をあがめるようにと、人々を唆しております」と、パウロに敵対するユダヤ人の一団は、総督に訴えた。「パウロが話し始めようとしたとき」、総督はこれを制して、「ユダヤ人に向かって言った」。「ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とであるならば、当然諸君の訴えを受理する」と。ガリオンは、全ユダヤ人をローマから退去させる命令も承知の上で、事の判断をユダヤ人の内部問題として対処する。さらに、この「律法」について、「問題が教えとか名称とか諸君の律法に関するものならば、自分たちで解決するがよい」、別訳「しかし、これは教えや名前、あなたがたの律法に関する論争の問題ですから、あなたがた自身で考えてください」と言い、冷静に、性急な告発者を諭す。ガリオンは、これは法廷で扱う問題ではなく、宗教論争とみなしている。それは、コリント伝道が、敵対するユダヤ人によって妨害されることなく、継続されることに、ローマの権能において、一定の保障を与えることになった。多分に、敵対するユダヤ人からすれば、十字架刑は呪われた死であり、従来の割礼や慣習を求めずに、異邦人が、ユダヤ人会堂に招かれることは、許しがたい暴挙に映りながらも。

「わたしは、そんなこと(これらのこと)の審判者になるつもりはない」と、ガリオンは、訴え(同時に審理)を却下する。「すると、(ギリシャ人の)群衆は会堂長のソステネを捕まえて、法廷の前で殴りつけた。しかし、ガリオンはそれに全く心を留めなかった」。ソステネは、先の会堂長クリスポの後継者、この時、多分、パウロに敵対するユダヤ人を代表しながら、告発が却下された事で、逆恨みを負った。ソステネは、後に、キリスト者となり、パウロとともに働く(コリント一1章1節「パウロと、兄弟ソステネ」)。総督の態度は、ローマのユダヤ人排斥の態度と重なる。
おわりに
主は、まことが失われ、正義が行われていない世に、「執り成す人がいないのを驚かれた」。ただ、「主の救いは主の御腕により」「主を支えるのは主の恵みの業(義)」。主の義を知る者こそ、神の義務を行う者でなければ、だれが行うか。

(Mynote)
二〇二三年一一月一二日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。
(子供メッセージ)
『子供と親のカテキズム 問六一』
「十戒の前書きは私達に何を教えていますか。」
「神様は、ご自分の民をエジプトから救い出して下さいました。また、イエス様によって私達を罪から救い出して下さいました。それによって、ご自分が恵み深い神様である事をまずお示しになり、私達に愛と服従をお求めになっている事を教えています。」
(公同礼拝)
『使徒行伝』(第一八章一二〜一七節)
『イザヤ書』(第五九章九〜二〇節)
この『使徒行伝』の箇所は、先週から引き続き、パウロ達一行が福音宣教活動をして居るさなかの事で、その間にまた起きたトラブル(土地の総督の元へ連れられて行き捕えられた事)が記されてある。
パウロは前にも同じ様にして権力者に捕えられ、鞭打たれて投獄された事があった(奴隷であった女占い師と会った時)。
ガリオ(別称ではガリオン)がアカヤ(アカイア)地方の総督だった時、パウロはその土地に住んで居たユダヤ人達に捕えられ、その総督ガリオの元へ連れて行かれ、
「この人は、律法に背いて神を拝む様に、人々を唆して居ます」
と訴えられた挙句、ユダヤ人達はその総督ガリオに公にパウロ達を捕えて貰い、投獄して貰おうとした。これは公にする事で、パウロ達のして居る事が間違って居ると国民に示す為でもあり、自分達の教えこそが正義であるとその正当性を庇護する為でもあった?詰り、ユダヤ人にとって自分達の我欲(エゴ)が先に立って居り、自分達の地位を護る為にパウロ達を捕えその様にした…とも取れる。
しかしガリオは、
「ユダヤ人諸君、何か不法行為とか、悪質の犯罪とかの事なら、私は当然、諸君の訴えを取り上げもしようが、これは諸君の言葉や名称や律法に関する問題なのだから、諸君自ら始末するがよかろう。私はそんな事の裁判人にはなりたくない」(『使徒行伝』第一八章一四節後半〜一五節)
とはっきり断り、ユダヤ人達にとっては当てが外れた様になった。そしてガリオは更にユダヤ人達を法廷から追い払い、ユダヤ人達は感情的になり、会堂司のソステネを引き捕え、法廷の前で打ち叩いた。でもそれを見てもガリオは素知らぬ顔をして居た。
ガリオは一見、パウロ達に正義の様なものを見、自分はその審判に成らないと、はっきり誠意を見せた様に思われる。
けれどガリオはその総督と言う立場に於いて「自分は関わりたくない」と言っただけで、やはり信仰に目覚めてパウロ達を擁護し、その内に「罪を認められない」と言った訳ではないとも取れる(この可能性が当時の習慣から見て普通に大きい)。
これはイエス様が群衆に捕えられ、ピラトの元へ引き連れられて行った時の事と重なる。とても似て居り、イエス様の場合は群衆が余りにも「十字架に付けろ!」と騒いだ為、ピラトは群衆の暴動を恐れ、仕方なくイエス様を十字架に付けたのである。その時ピラトは「この人には何の罪も見出せない」
とイエス様の評価をし、はっきり自分の思う所を打ち明けて居た。にも拘らず群衆は(このパウロの時と同様に)「この人は国民を惑わし、我々の律法に背く行為をして…」(『ルカによる福音書』第二三章二節、『ヨハネによる福音書』第一九章六節から七節参照)と訴え、自分達の地位を護る為にもイエス様の十字架刑(磔刑)をと叫び続けた。(『ヨハネによる福音書』第一九章一五節参照)
このパウロの時もユダヤ人達はガリオに訴え出て、何等かの形でパウロ達を罰して貰う様に頼み込んで居た。しかしこの時は又、ガリオはパウロ達に弁明の機会すら与えず、パウロが何か言おうとしてもそれを遮り、飽くまで自分の立場からユダヤ人達に語り聞かせ、パウロ達を引き取らせて居た。これは総督と言うその立場から物を考え、そのとき言うべき事をユダヤ人達に語り聞かせたに過ぎない。従いガリオは、自分に与えられた仕事をした訳である。
パウロにとって見れば、公平が初めから無い状態での(ユダヤ人達による)連行・訴えとなる。『イザヤ書』(第五九章九〜二〇節)には罪と不義と正義・真実の在り方が記されて在り、公平が与えられない者達の嘆きを描く。
人は元々罪人として生まれて居り、正義・不義を決める際にも、その罪の土台を以て計る事になる。詰り人間だけの正義を以て物事を全て裁けば、間違った結論に導く事がある(冤罪も含め)。
それを踏まえて大事は、常に信仰に於いて公平を問い、真実と不真実との区別を見定め、正義と不義とを裁き分ける基点を持つ事にある。この基点(視点)は信仰から得られるのであり、人の世界の習慣からは生まれない。ガリオの言葉は己の立場から出た言葉であり、人は誰も自分の仕事だけを果した心算(つもり)で、間違った事をする時がある。これは日常でも人の生活に多く見られるもの。誰もが自分の真実と正義または欲望とを以て語り行動する為、その正義同士が衝突する事は普通にあり、このパウロの時もあのイエス様の時も、二つの正義が衝突した上、群衆(パウロの場合はユダヤ人達)の正義が勝った様に見える。
しかしここで、誠の信仰とそれにより生まれる正義が必要となり、それに気付いた上で物事を判断し、自分(自分達)が今何をして居るのかを知らねば成らない。クリスチャンはイエス様の存在により信仰の義を知る事が出来たのである。言えばクリスチャンはこの時のガリオ以上の立場に立って居るのであり、キリストの証を正しく行う為に、常に信仰に目を覚ます(覚まされる)上、不義に加担しては成らない。この場合、譬えそれが人々に認められる正式・公式な仕事に在っても、それにより不義を行う事もあり、その点でも常に信仰に目覚めなければ成らない事が示されて居る。ガリオは所謂る「仕事人間」でもあり、その人間性は冷たく見えるものだった。会堂司がそうしてユダヤ人達に殴られて(叩かれて)居ても顔色一つ変えず、自分の場所から出なかった。彼らを仲裁する事は、自分の仕事には無いと知って居たからであろうか。信仰に於いて、この様に成ってもいけないと言う事である。
常に信仰に目と心を向け、神様と一対一での会話(祈り)をし、常にその信仰に於いて自分(自分達)が正しい事が出来る様に祈り願う事、この事が全てのクリスチャンを始め、全ての人々にとって大事に成る。

【日本キリスト改革派 男山教会】
https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/

【最寄りの教会検索用】
https://www.rcj.gr.jp/

Table Café~

榎本保郎牧師 ミニ説教23 「心の貧しい人」
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=ov7YHt4DAzM&t=16s

ハーベスト・タイム・ミニストリーズ
https://www.youtube.com/@HarvestTimeMin?app=desktop

「嵐は凪となる」THE DAILY with Arthur Hollands 2023/11/19
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=KxIVJCHbzU4

不思議のパルプンテ
https://www.youtube.com/@user-vh3fk4nl7i/videos
(お暇な時にぜひどうぞ)

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