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Rare Live

Rare Live
「Rare Live」
 俺は人間である。個人として、この世に生まれた。きっと他と同じような喜怒哀楽を持って生れてきた。だから嘘をつく気はまるでない。すべてをそのまま表すのだ。通用するかしないかは誰かが決めるべきでもない。よく聞き、よく言う自分が決めるべき道なのだ。それは、別に今に始まったことじゃない。遠い昔から繰り返されてきている。映画でも、ノンフィクションでも。そのどちらともに生きている俺は、気まずい一面などどこにもありはしない。大袈裟と言われようが、大したことはないと言われようが、構わないべきなのだ。マイクスタンドをどの位置に置いて唄っても、その歌手の熱狂ファンは何も言わない。その仕草さえも、英雄扱いになる。
 俺もその歌手も英雄ではない。生れてきたことを思えばすべての人間は平等。その違いを示唆する者はとても醜い。例え、好きな唄がかかったとしても、決してそれに溺れてはいけない。そのあとに行動ができない。人には個人差がある。その個人差は神から授かった仕事であり、その先何年もその自分と一緒に生きてゆく。深く考えなければそれで良し、夢の中で深く考えることがあったならその人は考える人だ。神の声は遅れて届く、人間にはそんなものだ。実はその前に幾度かその時期が来ていたかもしれない。だが人間には、気付かない声もある。俺は未だに牧師が聴いたという神の声を、聴いたことがない。
 クリスチャンとは、わかっていてもやはり信仰の長い短いではないのだ。薄い信仰、厚い信仰、見上げた信仰、見下げた信仰。俺にはどの信仰も同じに見え、路頭に迷う。
 簡単なことをほざいているようだが、怒りは人間(ひと)を盲目にすることがある。欲とは何か、それを考える時、怒りというものの存在が気になる。人生とは白紙に記すその時折の自分か、決して人間が生れたことは無駄ではなかったのだろう。だとすれば、俺の存在も必然な筈だ。そう考えると、神の存在と悲しみが気になる。
 いい言葉を拾っても、言っても、繰り返しを悟れば後から考え直しても同じこと。つまりはその人自身の生きる道なのだ。運命というのを信じるとか、信じないとか人間はよく言う。よく言うが、そのあるべき答は誰もが確信を持てない。どんな熱狂支持をもつ歌手でも、同じ唄ばかりを何度も唄っていてはその内、底を見られるのだ。
“俺は歌手である前に人間である、人間としてこの世に生まれた。底を見られようがどうしようが、繰り返しに溺れまいと挑戦する。認められようが、認めようが、人間にはかわりないのだから…”と、あの人なら言う。すべては生きるか死ぬかの間を、少なくとも生きている人間なのである。嘘をついて格好を気にすること程、あとになって後悔するものはないのである。

「Skiing」
 スキーing前夜、これからまたまたと来る祭日の第一日目。朝6:00から出発というせっかちな奴の言動に合わせた早朝へ向かうこの前夜、とても静寂だ。静かなこの一室(ひとへや)の中に時計の音が静かにうち、僕はその日足る程寝ていたので漫画でも読んでいる。これから5時間後、その時の音が聞こえてきそうだ。
どんな一日になるのか、僕にはわからない。送るしかない、クリスチャンの僕は祈ってその一日を守って下さるようお願いする。最近あまり祈らなくなった僕ではあるが、いつまでもクリスチャンでいたい。僕はただ、死んだ後に天国という場所へ行って、僕を創られた方に愛されたいのだ。そして死ぬ時は安楽がいいんだ。
スキーing、楽しくなることを祈る。ケガのないように、その後のあの娘との約束も果たせるように。また、その日も楽しく過ごせるように、と。

 今日、朝5時まで起きてて5時半にベッドを離れた。母さんが僕を起こしに来て、僕はその時起きてるってことを知らせようと、漫画を読んでいた。でも逆効果だったみたい。母さんは、「漫画読んでる暇があったら…」と、愚痴をこぼした。
 そして、僕は機嫌よく顔を洗いに行き、髪が前に垂れてこないようにセットした。母さんは寝付き、僕はそのまま起きて「行ってきます」をした。そして玄関で友達K氏の車が来ること20分。ようやく来てくれた。
 荷物などを乗せて、「睡眠不足だ」などと言いながらも、その朝の風が目を覚ましてくれてなかなか冴えている。そしてY氏も一緒に出発。僕ははじめからウェアーを着ていたので、暖房の効いた車の中はとても暑く眠たくなってきた。
 6;00過ぎに出発、やがて6:30、7:00、7:30、8:00、8:30になってきた。だんだんスキーingの頂点と重苦しさがわかってきたのだ。後ろからザクッザクッというあのどっちがはた迷惑かわからない音。疲れている時は常に神経を費やす。費やし過ぎて、怒ったりするのだ。眠た目をこすりながらその日の朝陽を見た。
 とてもまぶしかった。余計あたたかく眠たくなる。まだまだ初級コースが抜け切れない気分で、一からやっていた。目を閉じれば瞬間でも夢を見るくらいだ。そしてゲレンデでは、いつものように、例の如く、K氏とY氏が上手いので(当人同士の間で)仲間意識が生まれる。僕は?誰の身寄りもない。……とにかく、疲れた。出だしから後、片付けまで疲れた。僕は相変わらずのPoor Boyで、僕の言うことには耳を傾けようともしなかった。僕は心の中でとてつもないことを考えながら、でもいずれはその型になる。今、目を閉じると、ゲレンデの急な坂を思い出す。そしてデコボコ道。その苦しさが一種の境界線でもある。
 また、今、目の前には、そのスキーingへの道具がそろっている。少し思い出す。今日はぐっすり眠れそうである。
……疲れた字だ。

「Don’t know」
 俺は何を目的にして生きていけばいいのか。楽しみ、幸福感、それが生きる毎日の糧としたなら、少なくとも俺にはその産物はない。神にこれ程疑問を持った上で、どうしてこの現代の汚を愛せられるか、いや認めることができるか。友人にも、愛情は尽きあらゆる憎悪が芽生え始めた。親にさえ、寂しさを感じた日々もある。
 人間(ひと)は何を言っても、人間なのである。神でない限り、生と死の扉は開かない。その中で生き甲斐を見付けなければならない。Happy end、映画にはよくあるけれど、現実はそうじゃない。映画は観ればいいが、現実は感じなければならない。人生はレンタルできないから、突如として錯覚に狂うこともある。いくら感動してもその感動は尽きて、また次の感動を欲しがろうとする。性欲にも似ている。人間というものを、人間(ひと)は理解できない。この世の中に生きていて、何故悲しい映画を創るのか。何故にそんな類の人間が存在するのか。それは無益に近い。そこから生れるものは決まって悪魔的主義だ。夜に嘆きを紙に書いたとしても、やはり次の朝は今朝と同じように来る。それを迎えるのが嫌などと言うのは、馬鹿げている。
 人間(ひと)は素晴らしい人間(ひと)として生れてきたのだ。それを自ら拒むのは馬鹿げている。ある映画で観た。時代に流れない者が新しい時代を創る、というものを。それが英雄だとしたなら馬鹿げた幸福だ、自分は何もないまま後世に続くのだから。そしていずれ力のある者が剣を取り、その時代の支配者になりたがる。そんな男・女でも俺には『神を信じている』と言うのだ。俺は人間を殺すなんてできないし、したくもない。だが、どうしても我慢ができない。同じ人間にして、何故これ程に力に貧富があるのか。この世では貧しい人が奴隷で、富んだ人が主だ。その違いを最後まで力強く語れたのは、この先キリストのみだ。神は何故、自らの手で創った恵みある人間を、地獄などという見出しでこの世に放置しておくのか。俺にはあとしばらく、わからない。

「寂しさ、Miss A」
 Miss Aは、立ちどころに惨ってしまった。リポーターから事の詳細をきかれて、口が淀んでしまったのだ。顔がまっ青になってしまった。その表情の色を、感覚の鋭敏なリポーターが逃す筈はない。次に質問された。
「あの男(ヒト)とはどうなっているんですか?別居ですか?それとも同棲?はた又、ケンカなどして別れてしまっているんじゃ….?ねぇ、答えて下さい。本当のところはどういう心境なんですか?」
 リポーターの口火は絶えない。そうこうしている内にMiss Aは、とんでもない失敗をひけらかしてしまった。事の真相を暴露してしまったのだ。ほんの少し。
「ええ、一緒には住んでいますけど、別にこれといった深い間柄ではありません。」
 当惑するAの顔を尻目にしながら、リポーターは颯爽たる口振りを持ち、彼女(A)に尚責め入る。
「どうしてですか。どうして喧嘩をしてないと言うんです。もう、貴女のいる場所はどこにだってないんですよ。それなのにあなたは未だ尚、芸能人の振りをしていらっしゃる。いい加減、素直に告白すればどうですか。もう、あなたを支援するFANの人は底をついてるんですから。」
 ここまで大拡げに言ってはないが、リポーターの口調には平静心に際する情熱を確実に曲げるものがあった。それを察知したAは、「すみません、」と一こと言って、もう話さなくなった。少しでもその場を早く立ち去りたいという思いで、その気丈は体の外に出ていた。闇雲な質問に、頭にきていたのだ。
 あの人(男)の事だってマスコミは中途半端な取り上げをしているし、自分の事だって、もう当然かも知れないが、良く思われてはいない。しかし、この無様は何なのだ。少しも、かつての大御所の、芸能人として躍動に火をつけた“オ―ラ”の様なものを取り立ててはくれないではないか。このリポーターもリポーターだ。どの道、全面謝罪をするほか術が無くなる私に対して、何もそんな言い方しなくても良いじゃないか。少しも反省しないわけではない。一寸、休みたい、と思って、休養をとっているだけなのだ。謝るんなら、先ず、今の事に対して、そちらが謝りなさい。
 Miss Aの隠れたリポーターへの思惑というのは、こんなものではないかと、簡単に推測された。Miss Aは、その会見の後で席を立つ時、右手小指の指輪を左のポケットの中にしまい込むという動作をした。これは掴み処のない動作である。彼女は、何か困惑にふち当った時、自然に、無意識に思う動作を踏襲する事が、これまでの過去で一部の人に知られている。そう考えれば、この動作もその動きである、という事にして先ず間違いないと思われた。Miss Aにとって、この会見は今後に於いても、手痛い一幕になったことは問うまでもなく、渋い顔をしたその理由は、もう別れようとしていたその出来事の一連に、そのリポーターが口火を切って油を注いだ処にあった。Miss Aはかなしそうだった。
 詰り、弱音を吐かないように見える彼女がこんな風に、取り立てられてしまおうとは考えてもみなかったのだ。どこにいても幸運の後に不運というものはついて来るもの。しかし、こんな時にこんな形で、公にされてしまおうとは、Miss Aの不運の度合いを考えれば納得が行かないものである。
 ついに、ここまで来たんだ。何事にもめげずに生きていこうと自分を励ましたい。最低の輩は、人の不幸な運命を見てわらう者だと、……。女らしい翼を羽ばたかせて、舞い踊ればいい。この世の華の舞台といわれるその場所で踊れば、棘も蜜も咲かすことはできる。

「変える女」
 うらはらだった。どうしても変えられないこの現実に、少し、絶望していた。しかし、時間が過ぎてゆく。男も少女も、その周りを通り過ぎてゆくのだ。話し上手なその女(ヒト)でも、しばらく、言葉を失った。Styleがよく、スーツ姿がバシッと決まる女性(ヒト)だった。言葉を失うことは、もはや周りが許してはくれなかった。友達も先生も、上司も、恋人も、その変化の事については、語るを避けて行った。
 一人ぼっちだった事を、その時には、認め去るを得なかった。白紙に戻せるものなら、戻したいと心から願った。上ずった声でも、それが様になり、絵になる女性だった。一度、心を裏返されると、それを又返すまでに、多少、時間がかかってしまうのは、誰にでもあることと窘めるのだが、この落差を埋めるのは至難の業であることを知る。しかし、ここでも自分の女性を認め去るを得ない。何だって、どんなに転んでも、自分の女性は息をする。それ以上の事はない。あとは、何かを変えなければならない。
 それでもやはり、生きてゆくには何か足りないのだ。華か。そう思ったがそれも違う。そんな“茶地”なものではない。男には出来ない何かだ。男と女、境界線を越えた何かだ。それが欲しかった。白い雪が見たいと思った。しかし、見ることは出来ない。今は、雪は振っていない。ならば、何で間に合わせるか。機械もろくに動かすことの出来ないこの手で、それらを翻す程の事を望もうと思えば、何をすればいいのか。わからない。人は、自ず、よくわからないものの中で迷路に迷う、という。しかし、やはり、これもその類か。考えることに、不意に嫌気がさす。何を、どのように考えればいいのか、白紙の中では行ったり来たりを繰り返す末路を知る。一寸したことで感動することも、あるにはあるが。その感動が果して役に立つものか、とも思えば、やはり術がない。これは、悲観だ。
 暗闇には落ちたくない。それはやはり、男女共に同じらしい。行きつく先はどうしても何故か、同じになる。

「何を一生懸命に歩いているのか」

 誰かに思いの丈を問うてはみても、返事は帰って来ず。

 人はきっと、孤独が怖いのだ。それに違いない。ふと、大学の事を考える。あの箱の中には、何か、得体の知れない盛り上がった空気があって、その内に入れない者が確かに居る。「正直、私もその一人だ。」その女(ヒト)は考えていた。人がわからなくなれば内実を問い、外界に問う。神と人間を想い、人間と神を思う。その女(ヒト)は、何でも変えることが出来るつよい女(ヒト)だった。常識を覆せる程の、現実に於いてつよい人だ。男女の内実を越えて、居る。男女関係とは、彼女にとっては人と人との関係と成る。多少の障害があるが、その内でも、両親の絆が壊れる程の不幸はこの世にない、と思っていた。その思惑には一応救われている。何が救われて救われないのか。問い続ければ、きっと自ず、地獄へ落ちてしまいそうな妄想に身が翻り、その為、それ以上の思索は思い止まった。光は光の内では効果がない。その効果を引き戻すのは、天の光か、地の光か。それについて考えてみても、思う処へは行きつかない。考えないことに越したことはないのか。又、そうではないのか。泣き叫ぶことしか出来ないのか。
 他に考える方法を見付けようとした。しかしそこに答が在るかどうかは知らないのだ。不意に「人との付き合いは好きなようにやれば良い」という他人の言葉が、浮き上がってきた。けれど、どう仕様もなかった。その言葉はその言葉で、現実は現実。自分の内に、その書いた人と同じものがなければ、それは生きないと思っていた。それも又、身勝手な言い方である。未だ、自分はそこまで行きついてはいない、とその女性(ヒト)は思うことにしていた。もしも、自分の犠牲として、誰かが自分の下に落ちて行くことがあったなら、その時はその時で、その事が引き金になり、又一つの真実を見付けるかも知れない。余程、あわてて歩いていたのだろう。そこには、たった一粒程の、水の滴程の、小さい真実があっただけなのに、結局、それに気付くことができなかったのである。その滴は未だきっと、足元に落ちていて、それを拾わないままで、そこにあることは傍から見れば間違いがなかった。人との付き合いが煩わしくなるのは誰も失っていないからだ。(どうでもいいと思った。)
 今まで、何かを変えれば相応に何かが変わると思っていたのである。しかし、不意に、どこからか聞えてきた声には耳を澄ます自分がいることを知っていた。その事は相応に自分を縛りつけるものだった。それ等一連を億劫に思った事も、その人の過去にあった。どこまで歩けば納得させられる真実と出逢えるのか、それについて知りたがっていた。
 その女(ヒト)は或る日、一つの憂鬱に気付いた。自分を苛んでいたものである。他の人の中に、自分の理想を見付けようとすれば、その見付けようとした人には、自分の内から放った矢が倍の速さで自分に返ってくる。それは思いやりとか謙遜だとか、そういう類のものではない。その一つは自分の理想であり、もう一つは、相手を見下した時の己のまなざしである。その事に気付いたのは、もう随分、日が経ってからだった。今からでも遅くはないと思った。それはそれで、良いのだと。


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