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「鬼滅の刃」の斬新さ。

「ヒットコンテンツは必ず目を通す、自分が興味なかったとしても
というのは、わたしがまだコピーライターを目標にしていたパリパリのとんがりコーンのような10代だった頃、同じように広告業を目指していた友人の上野くんが、
「“こんなの売れちゃうのかよ”って自分が思うような作品も、見たり読んだりしたほうがいいと思うんだよ。だって売れてるんだから。俺はそういうの、あんたにはちゃんと見ておいてほしいと思うんだよ」
と言ってくれて以来、その時目からウロコがばりっと音を立てて落ちて以来、キモに命じてやってることであります。

で、『鬼滅の刃』です。
とは言えこちらは幸い、そのような意気込みで消化に入る前、アニメスタート時にキャッチできたのですけども。

と言うのもわたしは仕事柄、アニメの新しいシーズンがはじまる前に「話題になりそうなアニメ」「自分がスキになれそうなアニメ」を幾つかピックアップします。(鳥になる前は、マンガは読んでもアニメはほぼ見てなかったのですが、長年の積み重ねでそこそこ詳しくなってきた気がしますよ)

ちなみに放送開始当時『鬼滅の刃』をピックアップした根拠は「ジャンプだし、有力コンテンツになってくるだろうな〜」という、斜めでかわいくない見方からでしたが、初回放送を見てドギモを抜かれたことを覚えています。

出社して、同僚に「やばいのが来た。これ見ないともったいないよ!」「まどマギ3話、進撃以来のずば抜け感だよ!」と。
ここまで、完全なオタクですねw

実はわたし、『鬼滅の刃』はアニメ化以前に、マンガ1巻だけは読んでいたのです。が、それきりになっていました。
なのに、アニメは1話見ただけで「なんじゃこれすごい!」となる。次回まだか、となる。その違いと、そこから入ってきた凄さについて、ちょっと書いてみようと思います。

【以下、『鬼滅の刃』のネタバレあります。ご注意ください!】



理解度の差:映像の“時間”のおかげ。

『鬼滅の刃』の1巻を読み始めた時、まず感じたのが「既視感のある設定」という印象でした。
「人を食う鬼がいる」
「鬼は感染する」
「主人公は家族を鬼にほぼ皆殺しにされた」
「残った家族は1人だけ」
それだけ把握して、2巻に行かなかったんです。設定をそう理解しちゃった禰豆子鬼化あたりから、かなりすっ飛ばして読んだ記憶があります。

もちろんアニメも、マンガとストーリーラインはほぼ同じです。
それなのになんで、アニメで急にドギモだったのか?

これは、映像コンテンツならではの効果だと思います。
映像は「見せたいものを強制的に見せる」ことができます。マンガのコマ割りも演出の根本は同じですが、映像になるとそこに時間が入ってくる。それは「何をどれだけ見せるのか」まで、作る側が操作できるということです。そのため、作る側はそれぞれの描写の理解度や感情を、より意図する方向へ導くことができる。

わたしはマンガや本をかなり速く読む方です。「情報を得る」ことを目的としていると、咀嚼もそこそこに駆け抜けてしまいます。(なにかひっかかったら、最初に戻ってじっくり読んだりします)

けれどアニメでは基本、それが出来ない。
表現した人の意図どおりに内容を受け取り、感情を受け取ることになる。
だからアニメになったことで、そこにあった『鬼滅の刃』の凄さに触れられたのだと思います。

それにしてもほんと……“目を通す”感じになっていたんだろうなと目から再びのウロコ。上野くんごめんな。



感情のデザイン:マンガとアニメの微妙な違い。

あらためて『鬼滅の刃』のマンガ1話めを見てみると、1コマに1コマに情報がきっちり詰め込まれています。捨てゴマはほぼありません。どれもみっちり、しっかりなのです。

また逆に、感情を強めるための溜めのコマなども無い感じです。なので全体的にどこも同じ重みの印象になってくるのかな、と思います。強めの淡々、というか。
(今までこんな風にマンガを細々分析したことがないのでやや妄想ですが、『鬼滅の刃』に限らず、マンガの1話めはぎゅうぎゅう詰め多いかもしれないですね。設定を説明感出さずになんとか読者に入れたいもんね…)

マンガとアニメでは、動きの有無や尺の問題などもろもろあるので一概に演出を比べられるものではないですが、受け取る側の感情の差となってくるのが、例えば次のようなシーンの細かな違いです。

■一家惨殺を発見するシーン
マンガ:
 ①倒れている禰豆子と駆け寄った炭治郎のカット。
 ②全員殺されているところの引きのカット。
アニメ:
 ①倒れている禰豆子と駆け寄った炭治郎のカット。
 ②戸口に炭治郎が歩み寄るのを真上からとらえたカット。
 ③炭治郎を肩越しにとらえたカット。炭治郎が崩折れると全員殺されているところが見える。

アニメの②が、マンガに無いカットです。
真上アングルにより、踏み倒された障子や、土間に散った血の赤がよく見える。このカットが挿入されることで、その後に続く情景に「不穏な予感」→「凄惨な暴力のイメージ」がより強く、なまなましく重なります。
また、崩折れる炭治郎の向こうに見えてくる惨劇シーンは、炭治郎がそれを見た衝撃に同調しやすくなる効果があると思います。

■鬼になった禰豆子が襲いかかってくるシーン
マンガ:
 ①「頑張れ」と言う炭治郎のアップ。
 ②禰豆子、鬼の表情のアップ。
 ③禰豆子、ボロ泣きのアップ。
アニメ:
 ①「頑張れ」と言う炭治郎のアップ。
 ②禰豆子、鬼の表情のアップ。
 ③水滴が落ちるカットから、水滴が頬に落ちた炭治郎のアップ。
 ④禰豆子、ボロ泣きのアップ。

アニメの③が、マンガに無いカットです。
この涙が落ちる「溜めの間」と、それが炭治郎の頬に落ちる&驚く炭治郎という状況が入ることで、禰豆子の葛藤がより明確に伝わります。

どちらも、アニメになったからこそ生きる演出ではあると思います。土間の血はカラーだからより効果的ですし、涙が落ちる様もモーションや音があってこそ、なので。

ともあれ、このような考え抜かれた数々の演出のおかげで『鬼滅の刃』がもともと持っていた凄い部分が、わたしのような「せっかちマンガ読み」にも着実に届くようにデザインされていると思うわけです。
そして地上波から世間へも届いていったんだろうなと思います。



胸に響く斬新さ:象徴するふたつの場面。

「で、『鬼滅の刃』が凄いってどのあたりが?」という所ですが、個人的には「斬新さ」こそがそれだ思っています。
もちろん、アニメの出来がいいとか、もろもろ抜き出しても優れたところはいっぱいあると思います。
でもやはり一番強いエンターテインメントは「これまでに見たことのないもの」だと思うんです。そして『鬼滅の刃』が持っている新しさが、

これまでに無いタイプのキャラクターです。

特にジャンプ系のメジャー作品で、こういったキャラクターがメインで立ったものは今までになかったのではなかろうかと遠い目をしてみます(あ、全然網羅はしてないのでとりあえずメジャー作品、としてみてます)。

とにかく、やさしい。
そしてそれは単に表現としての「やさしさ」ではなく、深い思いやりから発生する、思慮深いものです。

1話では、それが明確にふたつ描かれています。
ひとつめは先程も上げた、鬼の禰豆子に炭治郎が襲われるシーン。

炭治郎「痛かっただろ? 苦しかっただろ? 助けてやれなくてごめんな…」

このセリフは想定内じゃないですか。ごくベーシック。でも次です。

炭治郎「せめて禰豆子だけはなんとかしてやりたい。だけど凄い力だ、押し返せない!」

めっちゃ鬼化してる妹に襲われながらのこのセリフ。「せめて」「なんとかしてやりたい」んです。押し返せないのに。喰われる寸前なのに。
圧倒的な包容力。こんな少年はちょっと見たこと無いような? 今までの少年マンガ主人公と何か違うような……? と、どこか感じるわけです。

炭治郎「禰豆子! 頑張れ禰豆子! こらえろ! 頑張ってくれ!」

さらに「自分で今、どうにも出来ない」とわかったところで出てくるこの呼びかけ。
何か策があっての「こらえろ」じゃないんです。
いま俺がなんとかするから、の「こらえろ」じゃないんです。
かといって「どうすればいいんだ!」とひとり混乱するわけでもなく、またこんな状況に対して無闇に怒ったりもしないんです。炭治郎というやつは。
(これまでの人気少年マンガ主人公キャラなら上記、炭治郎と逆を行くと思うんです)
状況がどうとかでない。自分が主体でない。
真に相手のことだけを考えているから、信頼しているから、出てくる言葉。共感しやすいリアクション。だからこそ、強いシーンになっていると思います。

ライン

そしてふたつめ。
みなさんご存知の「生殺与奪の権を他人に握らせるな!」のあとの展開です。

義勇「惨めったらしくうずくまるのはやめろ!(中略)笑止千万! 弱者には何の権利も選択肢もない。尽く力で強者にねじ伏せられるのみ!(中略)あんなことで守ったつもりか!?(中略)お前ごと妹を串刺しにしてもよかったんだぞ!」

この場面での圧倒的な強者、冨岡義勇。
普通だったら、このセリフのあとは炭治郎のターンです。炭治郎がなんらかの変化を経て、義勇へ飛びかかっていくところへ繋ぐのが、想定内の展開。
つまり、禰豆子が刺されるシーンへ飛ぶのが一般的な展開かなと思います。
(敵か味方かまだ判断しにくい義勇の意図は、ひとまず謎めいたままにしておくのは全然アリだし。1話だし)

ところが、ここで読者あるいは視聴者は、義勇の本心を聞きます。

義勇「泣くな。絶望するな。(中略)お前が打ちのめされてるのはわかってる。(中略)つらいだろう、叫び出したいだろう、わかるよ。(中略)怒れ。許せないという強く純粋な怒りは手足を動かすための揺るぎない原動力になる」

……そんな風に考えてたんですかーーー!!!
直前の言動行動とのすごい落差。会ったばかりの名前も知らぬ他人に対して、この真摯さ。僅かでも生きる力を引き出そうとする一途さ。
行動との落差が増幅する真実味に胸を打たれます。

他の少年マンガなら、ここでこの義勇の心情は見せないと思うんです。同じような立ち位置のキャラが、もし同じように考えていたとしても、同じ理屈を持っていたとしても、ここではこれほど明らかにしない。見せない。

でも『鬼滅の刃』は見せちゃう。1話で見せちゃう。
それは多分「これはそういう物語なんですよ」と伝える必要があるから、だと個人的には思いました。(マンガの時点で気づかない雑さで、ごめんね…)

そしてここまででも十分出てますが、これまでに無いキャラクターとして成立しているのは、その独特な台詞回しにもあります。見たことのないキャラクターの、聞いたことのない台詞回し。それは架空の物語の架空の人物たちに、独自の強いリアリティを与えていると思うのです。

1話にして、これだけのことがしっかり入っていて、伝わる。
ドギモも抜かれますでしょう。



時代と同期する:全員の途方も無いやさしさと一途さ。

今どきの若者のパーソナリティの特徴として「争わない」ということがあると聞いたことがあります。
争って抜きん出る、というかつての構図とは違い、協調して先に進む、というのが昨今の特性だそうです。令和って、そんな感じらしい。

そのようなパーソナリティを持つ人々にとって、竈門炭治郎をはじめとする『鬼滅の刃』の鬼殺隊キャラクターたちは、一番しっくりくるヒーローなんだと思います。とにかくみんな、心根が心底やさしい。思いやりの塊みたいです。そして素直。さらに一途。(「……及び、鱗滝左近次、冨岡義勇が腹を切ってお詫び致します」とか、不意打ち号泣でしょう)

逆に、鬼はとことん悪く、醜く、つまるところ…哀しい。

これまで、ジャンプをはじめとした少年マンガで「敵が味方になる」というのは、「アツい展開」として人気がある流れでした。(でした、って過去形で書いてますけど、今も全然人気あると思いますが)それこそ長編マンガにはもう絶対入ってるんじゃないか、くらいの勢いで。
でも『鬼滅の刃』には、それがない。だって人を喰った鬼は究極の悪だから(珠世さん達はもとより敵じゃないし純粋な鬼でもない)。
ただ己が生き永らえることだけを目的とする鬼舞辻無惨は、向こう側の正義さえ持ち合わせていないから。

悪者はどこまでも突き抜けて悪者。
良き者はどこまでも突き抜けて良き者。

優しい炭治郎が戦える相手として鬼はこうでならないということもありますが、コントラストがつけやすく、それぞれピュアな造形を突き詰めやすくもあります。

またこれらの善悪表現は、親と子供が共に見やすくなる要因にもなってると思います。
優しさと強さが善、エゴと弱さが悪ならば、親も安心して……というか、すすんで見せたくもなろうよ、というものです。
ちょっとグロい描写はありますが、無意味な暴力は無いし。品のないエロも無いし。というか品性や礼儀がなってないと、炭治郎が叱ってくれるし。

そんなジャンプ漫画、ちょっと無かった。空前の大ヒットしても不思議でもなんでもない気がします。強みがあって、弱点が無いようなものです。極端に言えば。



と、いろいろと私見を並べてみましたが(斬新とかいうけど、これまでにもそんなのあったぞ! とかいうご意見あるかもですが、そこは自分が不勉強ですみません、ということで…)、

最終的にしみじみ驚嘆したのは、こんなマンガを生み出した作者の吾峠呼世晴さんのココロの深さです。
『鬼滅の刃』のキャラクターたちのあの個性、彼らの思考は、作者の思想の奥から立ち上がっているはずですから。

新しい作品が出たら、最初からじっくり読みたいと思っています。じっくり読みます。
大事なことなので2回言っておきました。かしこ。

(とか言いつつ、アニメ以降をコミックスで読んでるわたしはまだ最終回を読んでおりません。楽しみです)





おかしかっていいですか。ありがとうございます。