"きょうだい児" になって
はじまり
私の姉は、姉が中学一年、私が小学校4年の時に脳内出血を起こしICU(集中治療室)に入った。
あの日のことはよく覚えている。
夜、いつものように家族でテレビを見ていると、
姉は急に頭が痛いとうずくまりひどく悶えた。
母はそんな姉とまだ小さかった私と弟を車に乗せ病院へと道を急いだ。
私は何が何だかよくわからないまま、ただ「普通ではないことが起こってる」ということだけは明確だった。
その後何週間か何ヶ月間か、姉はICUで治療を受け続けた。その頃の記憶はとても断片的で忘れてしまっている部分も多い。
ただ、ふたつだけ鮮明に覚えていることがある。
ひとつは、母に言ってしまった言葉。
私と弟はまだ幼かったのでICUの病室までは行けなかったのだが、(おそらく、相当ショッキングな光景だったのだろう)面会から戻ってくる母が涙ぐんでいるのを見て、「どうして泣いてるの?」と聞いてしまったこと。今思えば、子供ながらに不安な気持ちが大きかったのだろう。今思えばとても残酷なことを聞いてしまったなと思う。
そしてふたつめは、父から言われた言葉。
暗いリビングで私の隣に座る父が涙を流しながら「お前だけなんだ」と肩を揺らしながら何度も何度も私に言ってきた。少し離れたところで祖母も泣きながらその光景を見ていた。思えば、父の涙を見たのはそれが最初で最後だった。
数日間に及ぶ峠も越え、どうにか一命をとりとめた。
倒れてから初めて姉に会ったときのことは覚えていない。嬉しかったのか、悲しかったのか、恐かったのか何も思い出せない。
命こそは助かったものの、気管切開し人工呼吸器をつけているので声も出せず、身体も自分の意思では動かせなかった。
母は病院に毎日通い、時には泊まり込み看病した。医学書や看護雑誌を何冊も読み込んでいた。母はとても強い人だと思う。
空っぽな部屋と世界平和
同時期、我が家は姉がいつでも帰ってこれるようにバリアフリーにリフォームの真っ最中であった。仕事に行っている父と、病院に行っている母の代わりに弟の面倒を見ていた。その頃、私はリフォーム中の無機質な部屋の中になにかとても寂しい感情を覚えた。
ある日、私は絵を描いた。昔から絵を描くことが好きでよく描いていたのだが、その日は、地球の周りに色々な国の人が手を繋いでいる絵を描いた。病院から帰宅した母にそれを見せるととても喜んで褒めてくれた。私はわかっていた。こういう絵を描けば褒めてもらえるのを。
しばらくして姉が自宅に戻り、家族5人で暮らせるようになった。
その頃には私も中学生になり、とても不安定な時期があった。
夜寝る時、急に悲しくなり、人当たりも良くて頭も良かった姉ではなくて、人見知りで頭も良くない私が病気になればよかったのではないか。
みんなそう思っているのではないか。
と考えたこともあった。
とにかく、寂しくて悲しかった。わたしはとても利己的な人間なのだと思った。
しかし、その気持ちは誰にも言わなかった。
言えなかった。
わたしがそれを言える立場ではないからだ。
誰がどう見ても、可哀想なのは姉で優先されるべきなのも姉だからである。
祖母
私は祖母が苦手だった。
祖母は厳しい人で、幼い頃怒られた記憶がずっと残っており、大人になってからもネガティブな印象が残っていた。姉が倒れてから、祖母は誰よりも姉を心配しいつも姉のことを「可哀想に...」と言っていた。私は、祖母が使う可哀想という言葉も嫌いだった。
祖母が入院し、あとどのくらいもつか分からないと言われ父とお見舞いに行った。祖母の手を握りながら、祖母に言われた最後の言葉は「○○ちゃん(姉)を頼んだよ」だった。最後まで姉のことを気にしていた。私は小さな怒りと悲しみを覚えた。祖母は最後まで私自身を見てくれなかった。そう思った。
お葬式では涙は出なかった。
祖母が亡くなって、一年が過ぎた。
美術館に行くために、みなとみらい駅で降りた私は駅の光景を見て自然と涙が出た。
思い出した記憶の断片。
私が短期留学に行く前に祖母と2人、みなとみらいで買い物をして鞄を買ってもらったこと。
中学生の時、ネイリストになりたいという小さな夢を伝えたら誰よりも喜んでくれたこと。
そんなことを次々と思い出し、祖母は私のことをちゃんと見ていてくれていたのだと気づいた。
私は祖母が亡くなってから初めて泣いた。
自由になってもいい?
「助かって良かった」
「生きていてくれて良かった」
色々な人が姉に向けてそう言っていた。しかし、私にはその言葉たちは腑に落ちなかった。
「姉は本当にそう思っているのか」
「生きているのが苦しくはないのだろうか」
そう思ったこともあった。
私が好き勝手生きて、好きなものを食べて、おしゃれをして、いずれは結婚して、、そんな姿を見て悔しくならないだろうか。恨めしく思わないだろうか。
20歳になって、この感情を誰かに伝えてみたいと思うようになった。全ての状況を知っている幼なじみとお酒を飲みながら何気なく話してみた。
幼なじみは家族と一緒にいられるだけでも幸せなんじゃないかな、と言っていた。
家族で出かけた帰り道、車がパンクした。私と姉以外は外でタイヤの交換をしていた。私は姉に聞いてみた。
「自由になってもいい?」
姉は力強く大きな目でYESの意思表示をしてくれた。
姉はとても優しい人だから、そう答えてくれると知っていた。しかし、直接その答えを聞くことで、今まで重くのしかかっていた何かが軽くなった気がした。
あの頃より大人になった今、私が姉にできることは
他の人の2倍濃厚な経験をして、たくさんの場所に行って実家に帰るたびに色々な話をしてあげたり、美しい場所の写真を見せてあげることだと思っている。
さいごに
誤解のないように伝えておきたいのは、私は姉のことが大好きだし、とても大切な存在であるということ。親と喧嘩した後愚痴を聞いてくれたり、(一方的でごめん)くだらないことをすると笑ってくれる。
我が家の太陽のような存在だ。
生きていてくれてありがとう。
ここまで稚拙な文章を読んでくださり、ありがとうございました。様々なご意見あるかと思いますが、これが私の今までの人生と感情です。
今までたくさん苦しんだからこそ、同じような状況にある方へ、子供たちへ、何かできないかと考えて初めて文章におこしました。
自立した子供になるしかなかった皆さまへ。
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