「親ガチャ」論に欠けている決定的な視点

最近「親ガチャ」という言葉をよく耳にします。ネットのまとめ記事などで目にしていた方もいたと思いますが、9月7日の週刊現代で用いられたことで一気に浸透していきました。

改めて説明するまでもありませんが、子は親を選べない、すなわち生まれた環境で自身の人生がイージーなのかハードなのか決まってしまうということを、おもちゃのガチャガチャ(ガチャポン?)やソシャゲのガチャと掛けて使っている訳です。

ご先祖様が一人でも欠ければ自分は存在していない

これこそ「親ガチャ」論に欠けている決定的な視点です。「親ガチャ」は自身の両親を指していますが、その両親にも親がいるわけで、10代遡れば1000人以上のご先祖様がいて、今の自分に繋がっています。

日本には昔から神社で行われる人生儀礼がありますよね。初宮、七五三、成人式、結婚式と様々な儀礼が神前で行われておりますが、これは氏神様と自身のご先祖様に報告をするというのが真意です。

「無事に子どもが産まれました」

「お陰様ですくすくと育ち三歳になりました」

「〇〇家と婚姻を結ぶこととなりました」

こうした儀礼・儀式が連綿と続いてきたことが日本の歴史であり、日本人の宗教観なのです。

それだけのご先祖様がいれば、様々な人がいたでしょう。もしかすれば戦国時代に出世した方もいれば、敗軍の将になった方もいるかもしれません。先祖代々の田畑を守った方もいれば、一代で名を挙げた商人や創業者がいるかもしれません。そうした方々がいて、今の自分に繋がっているのです。中には辛い憂き目にあった方もいたでしょうが、その方々も家庭を持ち、しっかりと子を育てたからこそ今があるわけです。

「親ガチャ」という言葉は非常に狭い視点でしか物事が語られていないのです。個人主義の時代になって、自分が幸か不幸かという価値観で自分の人生を決めつけることはとても寂しいことではないでしょうか。

葬式にも見える個人主義

少し逸れますが、最近では「直葬」の割合が増えてきました。

お通夜や告別式を省くことで費用を抑えることが最大のメリットとされています。もちろん、高齢化によって孤独な方が増えたことや宗教観の薄れなど多くの現代的な理由があることは承知していますが、これも非常に寂しいことです。

本来、お葬式は最後の儀礼として、家族とのお別れの時間を過ごし、宗教者によるサポートを受けるものですが、それがないままに現世を離れるとどのようなことになってしまうのでしょうか。

無論、そんなことを知っている人は一人もいませんので、知る由もありませんし、ひょっとすると何もないかもしれません。しかしながら、人生儀礼の意義を考えれば、何か良くない心象を抱くのは間違いないのではありませんか。

社会システムによる救済が必要

「親ガチャ」の話に戻ると、とはいえ現に目の前に辛い現実がある方にとっては、環境を恨んでしまう気持ちも理解できます。世帯の経済格差が教育格差を生み、次世代の経済格差に繋がっていることは紛れもない事実です。そこで必要になるのは、どうしても社会の仕組みによる救済しかありません。

日本は欧米ほどの「ノブレスオブリージュ」の発想はあまりない(社会の仕組み的にも)ので、社会保障や社会福祉の仕組みでセーフティネットを敷くしかないと考えています。

じゃあ昔は良かったかと言えば、個人主義など村八分になってしまう時代ですから、地域の人による救済がある裏返しで多くの制限があったことでしょう。ともすると、現代においては憲法に謳われている「基本的人権」や「健康で文化的な最低限度の生活」を守る体制が公正に運用されるようにすべきではないでしょうか。

そして、「親ガチャ」というミクロの視点で環境を批判し、自ら人生を寂しいものにしてしまう人が減ることを望みます。

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