コロナ禍で気づいた不謹慎なこと

正直モテのメリットなんてない。自分が好きになった人にモテる確証はないわけで、この人嫌い!無理!嫌だ!って言う人にモテたところでただの目の上のたん瘤だ。モテ=愛されるではないし、先日述べたようにモテ=幸せとは限らない。

まだコロナが他国で起きている実感のわかないおとぎ話だった頃、「私は怖いからずっとリモートで仕事してる」と知ったとたん、数人から食事やらなんやらのお誘いが来た。「濃厚接触しませんか?」なんていう不謹慎な人もいた。「そういう笑えない発言をする方とは、顔も合わせたくありません」と丁重にかつはっきりとすべてお断りした。

しかし、2ヶ月ほど経ち週末自粛や三密、ソーシャルディスタンスがあらゆるところで叫ばれ、マスクが品薄になった頃、全く何の誘いも無くなり(もちろん私も合法的ひきこもりが許される自粛生活を謳歌していたからなのだが)ふと、心の枯渇状態を感じた。私の得意分野のひきこもり、コンビニやスーパー、ウーバーイーツに頼れば欲しいものはほぼ手に入る。枯渇状態になる理由がない…

ここまで読んでほとんどの人は気が付いていると思うのだが、つまるところ「モテ」の欠如が私の心の枯渇状態を生んだのだ。というか、やっとコロナ禍で非モテ状態とはどういう状態なのかを体験し、あ、私モテていたのかも…と気づいたのだ。(不謹慎極まりない気づきだと思う。)

非モテ状態に陥った私は、自他ともに認める自己肯定感の低さを更に悪化させ、そして承認欲求は高まりを見せた。

モテ=愛されるでもない、モテ=幸せでもない。しかし私にとっては、モテ=自己肯定感を高める要素であり、承認欲求を満たす大切な要素だったのだ。モテ=私の精神安定剤(副作用あり)だった。

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