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《動物介在療法の小説》 前川ほまれ『臨床のスピカ』無料公開1

第1章 2023年5月 白い生き物

 卵を割ると、器の中に小さな殻が交じった。浩は指先で白い欠片を摘み上げ、三角コーナーに放り投げた。初めて作った目玉焼きにも、殻が入っていた。奥歯がジャリッとする不快な感触が、口の中で蘇る。
 昨日見たYouTubeの料理動画では、卵焼きの隠し味に市販の白出汁を加えていた。足元の戸棚を開け、並ぶ調味料に目を凝らす。二ヶ月前までは綺麗に整頓されていたが、今は乱雑に並んでいる。溢れた塩や砂糖が戸棚の底に散らばり、醤油差しは触れなくともベト付いているのが見て取れる。美樹が帰って来る前に、戸棚の中を掃除しておかないと。今朝時間をかけて丁寧に髭を剃った口元から、深い溜息が漏れた。
 結局白出汁は見つからず、仕方なく麺つゆの容器を取り出した。正直、麺つゆと白出汁の違いはよくわからない。コンロに火を付けてフライパンにサラダ油を馴染ませていると、居間の方から幼い足音が聞こえた。
「パパ、なにつくってるの?」
 パジャマ姿の潤一郎が、まだ眠た気に目を擦っていた。
「卵焼きだよ」
「えー。きのうもたべたじゃん」
「昨日は、スクランブルエッグ」
 喋りながら、フライ返しを動かし続ける。美樹のように上手く卵焼きを作れはしないが、せめて焦げ付くのは避けたい。
「ぼく、ウインナーもたべたい」
「ハムだったら、冷蔵庫にあったな」
「えー。ウインナー」
 潤一郎はそれだけ言い残し、立ち去った。小さな背中を一瞥してから、再び手元に目を向ける。
「そろそろ、お祖母ちゃんが来るぞ。朝ごはんの前に、お着替えな」
 出来上がった卵焼きは焦げ付いてはいなかったが、形は崩れている。今日も最初から、スクランブルエッグにすれば良かった。思わず漏れた舌打ちを、換気扇の轟音が搔き消していく。
 約束の九時前に、インターフォンのチャイムが鳴った。玄関のドアを開けると、紺色のシャツを羽織った義母が立っていた。口元を覆う花柄のマスクは手作りだろうか。そんなどうでも良いことを考えながら、深く頭を下げた。
「今日は、すみません。わざわざ来て頂いて」
 愛想良く挨拶したつもりが、弱々しい声が三和土に落ちた。義母の目元には、穏やかな皺が刻まれている。そんな柔和な表情を見ただけで、目頭が熱くなった。義母には以前から子どもたちの面倒をみて貰ってはいるが、こんな簡単に涙腺を刺激されることはなかった。まだ沙奈の面会に向かう前だというのに、胸が騒めいてしまう。
「気にしないで。潤一郎ちゃんに会えるのを、楽しみにしてたもの」
「すみません。俺と交代で、美樹は帰ってきますので」
「美樹も疲れてるでしょう。ずっと病院に泊まり込んで」
 言葉が喉につかえ、曖昧に頷くことしかできない。
「でも一番辛いのは、沙奈ちゃんだもんね」
 義母は目を伏せて、履いていたスニーカーを脱ぎ始めた。孫が生まれる前は、平べったいパンプスしか履かない人だった。子どもたちの面倒をみることが多くなって、動きやすい靴を選ぶようになったのかもしれない。
「それで、沙奈ちゃんの体調は?」
「昨日は、頻繁に吐いてたみたいで……」
「辛いわね。できるなら、私が代わってやりたい」
 代わってやりたいのは、自分だって同じだ。ふとした瞬間に、毎日考えてしまう。トイレットペーパーに手を伸ばす時、シャワーの蛇口を捻る時、潤一郎のパジャマのボタンを留める時、それに卵を溶いている時も。娘の細い腕にできた悪性腫瘍が、この身体に移る様を想像してしまう。
「そうそう、沙奈ちゃんに渡してほしい物があるのよ」
 義母は持参したトートバッグから、綺麗に包装された品と一通の封筒を取り出した。
「随分、髪の毛が抜けてたでしょ。だから、オーガニックコットンの帽子を買ってきたの。肌触りが良いし、長く被っても痒くはならないと思うな」
「すみません……色々と、気を遣って下さって」
「それとね、手紙も書いたの。面会に行ったら、読んであげて」
 差し出された品には赤いリボンが装飾してあり、一緒に受け取った封筒には犬のイラストが描かれている。沙奈は赤が好きだし、入院前はチワワを飼いたいと話していた。娘の好みが反映された品々を受け取ると、また目頭に熱が帯びた。
「あと誕生日プレゼントは、何が欲しいか訊いてきてくれる?」
 耳の奥で『誕生日プレゼント』という言葉が、乾いた音を立てる。沙奈は来月で六歳を迎える。病気が発覚してからの日々は目まぐるしく、誕生日のことを完全に忘れていた。
「お祖母ちゃんが、何でも買ってあげるって伝えてね」
 沙奈は抗がん剤の投与スケジュールや採血の結果を踏まえながら、自宅外泊を繰り返している。誕生日は、できるなら家で祝ってやりたい。そんな願いとは裏腹に、誕生日当日も病室で横になる小さな身体を想像した。
 義母に潤一郎を預け、駐車場に停めているハイエースに乗り込んだ。運転席に腰を下ろすと、眩しい日差しが両目を刺した。そろそろ五月は終わり、梅雨が始まる。助手席には仕事で使っている様々な工具が、夏の気配をはらんだ光を反射していた。毎年この時期は、エアコンを買い換える家が増える。一年のうちで最も稼ぎ時だというのに、仕事に身が入る気が全くしない。
 エンジンを掛ける前に、運転席の背もたれに深く身体を預けた。それから悪癖のように、過去を反芻してしまう。沙奈が病気になった原因が、まるで自分の過去の行いにあるかのように。
 浩は地元の埼玉の大学を卒業後、東京の不動産販売会社に就職した。そこでは投資用マンションを主に扱っていて、日本人以外の顧客を相手にすることも多かった。営業成績に関するインセンティブは高かったが、そのぶんノルマは厳しかった。新規顧客開拓のテレアポを実施したり、不動産投資セミナーを積極的に開催したり、外国人を相手にするため英会話スクールにも通ったりした。そんな努力もむなしく、営業成績が振るわない日々が続いた。上司からの叱責が露骨になってきた頃、地元に残っていた親友から、エアコン取り付け会社を起業すると連絡があった。
『浩も一緒にどうだ? 年収一千万も夢じゃないぞ』
 その誘い文句は、都会で淀んでいた未来に微かな光を灯した。年収に関しては未だ夢のままだが、生活に困らない程度には稼げている。何より地元に戻ってから美樹と再会し、二人の子宝にも恵まれた。毎日慣れ親しんだ道を、ハイエースで駆けずり回る日々。凡庸かもしれないが、悪くない人生だと自負していた。つい、二ヶ月前までは。
 カシオのデジタル腕時計は、そろそろ出発しないとマズい時刻を表示していた。日差しを浴びて熱くなったハンドルを握って初めて、両手がひどく冷たいことに気付いた。
 沙奈が入院しているのは、東京にある時津風病院だ。自宅からは三十キロほど離れた場所にあり、高速道路を走っても一時間以上はかかる。地元から東京へこんな形で通うことになるなんて、想像すらしていなかった。
 目前の信号が赤に変わり、ブレーキを踏んだ。フロントガラスに映る風景を見つめながら、入院前のことを思い出してしまう。
 沙奈の左腕の異変にまず気付いたのは、美樹だった。風呂上がりに娘の身体をバスタオルで拭いていると、左腕の一部にしこりのような感触を覚えたらしい。その部分は少し腫れていたが、どこかにぶつけたようなアザは残っていなかった。何かの菌に感染しているような、嫌な熱も感じなかったという。本人も特に痛がっている様子はなかったが、翌日になって念のためにと近所の小児科クリニックを受診した。沙奈の左腕を診察した医師から、総合病院で精査することを勧められ、紹介されたのが時津風病院だった。
 翌日。クリニックから貰った紹介状を握り締め、三人で時津風病院に向かった。小児科医の問診が終わると、採血、心電図、CT撮影、MRI検査を実施した。各検査の度に、沙奈は泣き叫びながら身体を震わせた。採血の針は鋭く光り、MRI検査中は機器の特性上轟音が響く。その時はまだ沙奈を勇気付けながらも、保育園に預けている潤一郎をお迎えに行く時刻を気にする余裕が残っていた。小児科医から「悪性腫瘍の可能性があります。このまま入院して、近々生検をしましょう」と、告げられるまでは。
 それから数日間の記憶は曖昧だ。美樹は最低限の日用品を買って病院に泊まり込むことになり、浩は自宅に戻って潤一郎と不安な時間を過ごした。
『横紋筋肉腫だって』
 病理検査の結果、そう診断が下ったと美樹から電話で報告された。幸いにも他臓器への転移はなかったらしいが、現時点で全ての腫瘍を手術で取り除くのは難しいらしい。まずは抗がん剤を投与し、腫瘍が小さくなるのを期待するしかないと聞いた。全く意味がわからず、電話口では曖昧に頷くことしかできなかった。スマホから届く妻の声が遠くに感じ、見知らぬ言語で話し掛けられているようだった。美樹の湿った声より、すぐ側で潤一郎が口ずさんでいるアニメソングの方が不思議と耳に残った。電話を終えると、すぐに聞いたばかりの病名を調べた。横紋筋肉腫は筋肉などの軟らかい組織から発生する軟部肉腫で、全身の多様な臓器から発生するらしい。小児悪性軟部腫瘍の中では最も頻度が高く、代表的な小児がんの一つ。治療の基本は外科的切除や抗がん剤投与の他にも、放射線治療を組み合わせた集学的治療が必要ということだった。
 後方の車からクラクションを鳴らされ、記憶の底から這い出した。さっきまで赤だった信号が、いつの間にか青に変わっている。小さく舌打ちをしてから、アクセルペダルを乱暴に踏み込む。時津風病院までの道程は、いつも最悪な出来事を思い出す。以前は割と好きだった運転が、今は陰鬱な時間に成り下がっていた。出発してからはずっと、ラジオを流していた。名前を聞いても顔の浮かばない俳優が、リスナーの恋愛相談に応じている。何度も差し込まれる「一条星矢のマジカル相談室」というタイトルコールが耳障りで、ラジオを消した。娘の面会に行く道中、他人の惚気話を聞いている余裕なんてない。
 都心に近づくにつれ、交通量は増えていく。街中を歩く人の数も多い。今月から、新型コロナウイルス感染症が5類感染症に移行した影響もあるのだろう。ナビに従って甲州街道を進み、途中で住宅地に続く路地を曲がった。何度か左折と右折を繰り返すと、フロントガラス越しに白い建物が目に映り始める。
 到着し、院内の駐車場に車を停めた。助手席に置いていたバックパックを手に取ってから、マスクを装着していないことに気付く。グローブボックスから取り出して鼻と口を覆い、運転席のドアを開けた。
 本棟正門玄関の自動ドアを通り抜け、守衛窓口に向かった。年配の守衛に、面会に来た旨を短く告げる。すぐに〈小児科病棟・8F〉と、表記された札を渡された。つい最近まで、面会は全面禁止だった。そのため妻が病院に泊まり込み、浩はテレビ電話の画面越しでしか娘と会うことができなかった。新型コロナウイルス感染症が5類感染症に移行してからは、面会制限も緩和されている。守衛窓口に置かれているアルコール消毒液で両手を濡らしながら、不幸中の幸いを改めて嚙み締めた。 
 時津風病院は、主に四つの建物で構成されている。八階建ての身体科病棟がある本棟、認知症病棟と精神科病棟がある新棟。その二つの棟に挟まれる形で、外来と検査室と中央手術室がある診療棟、そして病院スタッフが主に出入りする事務棟。四つの棟は渡り廊下で行き来することが可能だが、浩はほとんどの時間を娘が入院している本棟で過ごしている。
 本棟を行き来するエレベーターが八階に到着すると、廊下に出て右手にある小児科病棟の出入り口を見据えた。小児科病棟は患児の安全上の観点から、二十四時間出入り口が施錠されている。五月の初めはインターフォンを押して来訪を伝えていたが、今は扉に設置されているサムターン錠を回して入室する許可が下りていた。出入り口は全面ガラス張りで、至る所にハートや動物のイラストが貼ってあった。他の病棟の出入り口を見たことはないが、この扉の賑やかさは子どもを相手にする場所ならではなんだろう。
 病棟に入ると、消毒液の臭いを強く感じた。排泄物の臭いもほのかに漂っている。患児の中には、鼻から管を入れて栄養を摂取している子も多い。時折感じる甘いミルクの香りは、苦く胸を締め付けた。
 目的の病室前で足を止めると、深く息を吐き出した。このドアの向こうでは、面白くて頼りになる父親を演じる必要がある。子育てを経験する前は、子どもの敏感さを知らなかった。父親が不安気な表情を浮かべていたら、娘にもその気持ちは絶対に伝播する。ただでさえ過酷な治療を続けているのに、今は余計な感情を小さな身体に背負わせたくない。だからできるだけ、笑顔でいないと。深呼吸を繰り返し、固い誓いを胸の底に沈めた。
 頰を張って気合いを入れてから、優しく扉をノックした。すぐに「はい」と、妻の声が聞こえる。
「入るよ」
 病室の扉を開ける音に、えずく声が重なった。美樹はベッドサイドで中腰になりながら、小さな背中を摩っている。妻は手を止めずに、疲れ切った声で言った。
「朝から吐いちゃって……もう、胃液すら出ないの」
 ベッド上では沙奈が上半身を起こし、口元にピンクの容器を近づけていた。その中に、糸のように伸びた唾が落ちていく。
「……大丈夫か」
 ベッドに駆け寄った。動揺を悟られないように、マスクの下で一瞬だけ強く奥歯を嚙み締める。それから美樹と交代して華奢な背中を摩り続けると、徐々にえずく声は小さくなっていった。ようやく横になった沙奈が、丸い瞳をこちらに向けた。
「パパ、目やにがついてるよ」
 血色の悪い唇が、先ほどよりわずかに緩んでいる。慌てて指先で目元を擦ってから、小さな頭を優しく撫でた。抗がん剤を投与する前は、指通りが滑らかな髪がつやつやと頭部を覆っていた。今は副作用で、地肌が見えるほどに脱毛している。
「朝、ちゃんと顔は洗ったんだけどな。ヒゲも綺麗に剃ったし」
 証拠を示すように、マスクを顎の下までズリ下げた。
「本当だ。おヒゲは伸びてないね」
「沙奈に会うから、綺麗に剃ったんだよ」
「なんで?」
「沙奈には、格好良いパパを見せたいからね」
「噓だー。いつも変な顔してるじゃん」
 昔から、沙奈を顔芸で笑わすことが多かった。フグのように頰を膨らませて白目を剝いたり、ひょっとこのお面のように激しく口を尖らせたり。変顔のレパートリーに関しては、密かに自信がある。沙奈が検査や採血を頑張った後は、変顔を作って出迎えることもしばしばだ。少しでも場を和ませたいという理由以外にも、まともな表情を保てない時は変顔でごまかしていた。
「パパ、今日も変な顔やって」
「えー、どうしよっかな」
 ためらった振りをしてから、唐突に前歯を突き出して顎を引いた。沙奈は「すごい二重顎」と、頰にエクボを刻んだ。
「もっと、違う顔やって」
「もう、お終い。こういうのは、不意にやるから面白いんだよ」
「不意?」
「えっと、突然って意味かな」
「……沙奈の病気みたいに?」
 エアコンを操作してもいないのに、病室に漂う空気が冷たくなっていく。浩が曖昧に頷くと、沙奈はゆっくり瞼を閉じた。そんな仕草を見て、空元気ではしゃいでいたのを察した。以前は肉付きの良かった頰はやつれ、目元は落ち窪んでいる。全く陽に焼けていない青白い顔を見つめながら、マスクを付け直す。
「明日の外泊までは、パパが一緒にいるから。沢山、遊ぼうな」
「お外は、ダメでしょ?」
「まぁ……今は我慢だな。でも、塗り絵とか絵本を持ってきたからさ」
 病衣の胸元から伸びる半透明な管は、ベッドサイドで吊るされた点滴と繫がっていた。抗がん剤や濃度の高い点滴をする場合は、細い血管だと刺激を受けやすく、痛みが出現することがあるらしい。なので、心臓付近の太い静脈に長いチューブを留置する処置が行われていた。見た目は痛々しいが、両手が自由に動かせるのは利点だ。そう無理やりにでも、納得するしかない。
 しばらくすると、小さな寝息が聞こえ始めた。ようやくベッドサイドのパイプ椅子に腰掛ける。薄い胸が上下する回数を無言で数えた。窓から差し込んだ光が、滑らかな肌に生える産毛を黄金に輝かせている。小さな唇が微かに動いて、すぐに止まる。そんな動静を飽きずに見守った。何でも良いから、沙奈が今生きているサインを目に映し続けていたい。
「私、やっぱり今日も泊まろうかな」
 隣に顔を向けると、美樹の目が赤く充血していた。疲労のせいなのか、隠れて泣いていたせいなのか。妻も、ベッドで眠る小さな身体を見つめている。
「美樹だって、疲れてるだろ?」
「この子の辛さに比べたら、どうってことないよ」
「でもさ、これから先も治療は続くわけだし。美樹自身の体調を整えることも大切だよ」
 抗がん剤を投与するスケジュールは、あらかじめ決まっている。沙奈の場合は三週間を一クールとして、十クール以上を繰り返す治療計画が立案されていた。VAC療法という名の治療で、現在は三クール目に入ったばかりだ。VAC療法は、クール初日に三種類の抗がん剤を投与する。その後は八日目と十五日目に、一種類の抗がん剤を投与するのが原則となっている。医師から説明を受けるまでは、ずっと抗がん剤が繫がったままだと思い込んでいた。入院中でも点滴をしない日は多く、そんな時の沙奈は明らかに嬉しそうだった。
「今日は帰って、休んだ方が良いって」
「でも……」
「明日は、外泊できるんだからさ。すぐ、家で会えるよ」
 抗がん剤治療に伴う副作用の一つに〝骨髄抑制〟がある。抗がん剤の影響で、血液成分を作り出す働きが低下してしまうことだ。骨髄抑制が起こると、抵抗力が落ちて感染症に罹りやすくなったり、貧血になったり、出血しやすくなってしまう。しかし抗がん剤を投与したからといって、すぐに骨髄抑制が起こるわけではない。一つの目安ではあるが一週間後あたりから出現し、二週間程度で最低値を迎え、その後は徐々に回復していくと医師からは説明を受けていた。新型コロナウイルス感染症が5類感染症に位置付けられてからは、骨髄抑制の影響が強く出現する前に短い外泊を許可されることがあった。
「こんなに吐いてたら、明日の外泊は……」
 美樹は最後まで言い切ることはせず、病衣から覗く小さな手を握った。妻は娘が入院してからほとんどの日々を、ベッドサイドで過ごしている。常に側にいながらも、出来ることは限られている。その無力感は、確実に心を磨り減らしているはずだ。美樹から視線を逸らすと、パイプ椅子の背もたれに身体を預けた。
「最近潤一郎が『ママ大好き』って、しきりに言うんだよ。俺がトイレに入っている時も、一緒に風呂入ってる時も、布団に入る時も。なんの脈絡もなくさ」
 視界の端で美樹がこちらに顔を向けたのを確認して、同じ口調で続ける。
「俺が思うに『ママ大好き』って言葉は、潤一郎なりの寂しさの裏返しだと思うんだ。美樹の気持ちを、何度も確認してるっていうか」
「……どういうこと?」
「なんていうか、僕はママが大好きだけど、そっちはどうなの? みたいな。要は、美樹が家にいないことを不安がってるんだな。もう、帰って来ないんじゃないかって」
 美樹は目を伏せると、一度洟を啜った。充血した目元が、さらに赤く潤み始める。
「潤一郎は……元々甘えん坊だもんね」
「一応、沙奈に付き添ってることは理解してるみたいなんだけどさ。でも、この前なんか『お姉ちゃんが病気になったのは、僕が悪い子だから?』って訊いてきて……そうじゃないことは、ちゃんと説明したけど」
 美樹の目尻から流れた涙が、顔半分を覆うマスクに染み込んでいく。いつから、こんな風に静かに泣く人になったのだろう。
「こっちは大丈夫。外泊に出るまで、沙奈との時間を楽しむよ」
 隣から、力なく頷く気配を感じた。それでも、妻はしばらく、小さな手を離そうとしなかった。

 沙奈がうっすら目を開けたのは、十三時を過ぎた頃だった。気怠く両目を擦りながら、小さなあくびを繰り返している。入院する前は、家族四人で布団を並べて眠っていた。沙奈はアニメキャラクターが描かれたパジャマがお気に入りで、風呂上がりの髪からはシャンプーの甘い香りが漂っていた。それが今は髪が抜け落ち、セパレートタイプの病衣を身に付けている。たった二ヶ月前の日常が、ひどく遠い。
「ママは?」
「もう帰ったよ」
「……バイバイしてないや」
「気持ち良さそうに、寝てたからさ。起こすのは、悪いと思って」
 マスクの下で苦笑いを浮かべ、ストローが刺さったミネラルウォーターを差し出す。幼い手は無言で受け取ると、少しだけ水分を口に含んだ。
「今も、気持ち悪いか?」
 首をわずかに左右に振る仕草を見て、ほっとする。沙奈の頭を撫でようとすると、丸い瞳が窓辺に向けられた。
「昨日の夜ね、窓から空を見てたの」
「へぇ。ここは、眺めが良いもんな。それで、綺麗なお星さまは沢山見つかった?」
「お星さまじゃなくて、由美ちゃんを探してたの」
 名前を聞いて、斜向かいの病室に入院している子の顔が浮かんだ。沙奈よりも四つ年上で、ショートカットの髪が似合う礼儀正しい女の子。詳しくは知らないが、確か心臓の病を患っていた。由美ちゃんには沙奈と同じ年齢の妹がいるらしく、お互い体調の良い日はよく遊んでいた。
「昨日の朝、由美ちゃんがお空に行っちゃったんだって。だからね、探してたの」
 瞬きが止まった。すぐに心臓が踏み潰されるような動悸が胸をつく。一気に口の中が乾いて、マスクの下で唇を軽く嚙んだ。
「パパ、知ってる? 死んじゃったら、お空に行くんだよ」
 その声に悲壮感はなく、むしろ無邪気だ。まだ五歳の娘には死の概念を正確に理解することができない。表面的な意味で死という言葉は知っているが、もう永遠に会えないという事実には結びついてはいないようだ。故人は一時的にどこか遠い場所に行っていて、いつかまた帰って来ると勘違いしている。
「沙奈も死んだら、お空に行くんだよね?」
 人はいつか死ぬ。生死について教えるのも大事だ。でも、入院中にその話題はどうしても避けたい。その言葉を口に出すのも、頭に浮かべるのすら嫌だ。沙奈が本当に消えてしまいそうで、背筋に冷たい汗が伝わっていく。咄嗟にマスクをずらして、頰を膨らませた。
「あー、また変な顔してる」
「どうだ、フグさんに似てるだろ」
 やつれた頰に刻まれたエクボを確認して、表情を戻した。死の話をこれ以上は続けたくなくて、必死で別の話題を探す。ベッドサイドの床頭台に、昼食のトレイが手付かずのまま置かれているのが目に留まった。
「そうそう、お昼ご飯はどうする? 無理そうなら、パパが下げてくるぞ」
「……うーん」
「少しだけでも食べてみるか? 途中で気分が悪くなったら、残せば良いし」
 沙奈が頷いたのを合図に、パイプ椅子から立ち上がる。昼食の器は五つあり、それぞれ蓋がしてある。開けて中身を確認しなくても、もう冷め切っていることが伝わった。
「デイルームでチンしてくるよ。それと、ゼリーを持ってきたんだ。オレンジとグレープとピーチが二種類ずつ。何味が良い?」
「……オレンジかな」
 床頭台の隣にある小型冷蔵庫に手を伸ばし、橙色のゼリーを取り出す。強要はできないが、少しでも食べてほしい。半透明のゼリーが、わずかでも娘の血肉に変わることを祈った。
「それじゃ、すぐ戻ってくるから」
 昼食のトレイを持ちながら、デイルームに続く長い廊下を進む。途中で、白いスクラブユニフォームを着た看護師や、エプロンを身に付けた保育士とすれ違った。小児科病棟では、職種を越えて様々なスタッフが勤務している。闘病中で学校に通えない子どもたちのために、教師が来院して院内学級も開かれている。沙奈は来年、小学校に入学予定だ。無事に好きな色のランドセルを背負うことができるんだろうか。昏い考えが脳裏を支配しそうになり、密かに頭を振った。
 デイルームに入り、室内の隅にある電子レンジに昼食をセットした。普段は数組の家族が食事をしていることも多いが、昼時を過ぎているせいか誰の姿もない。五百ワットで一分二十秒間の待機は、自宅とは違って妙に長く感じた。
「ん?」
 急に、隣のプレイルームが騒がしくなった。子どもたちのはしゃぐ声が、壁を通り越して鮮明に耳に届く。コロナの間は多くの季節行事が中止になったらしいが、今月からは楽し気な催しが再開されていた。実際に沙奈は先週、貼り絵を作成するイベントに参加していた。
 温めた昼食を持って再び廊下に出ると、引き戸の小窓からプレイルーム内を覗いた。室内にはパジャマや病衣を着た子どもたちの他にも、看護師や乳児を抱いた母親がいる。その輪の中心に、ピンクのスクラブ上着を着た女性が立っていた。彼女に見憶えはなかった。別の病棟のスタッフだろうか。胸元には『AAA/AAT』と、英語の刺繍が施されている。何かの略語のような気がするが、全く見当がつかない。
 彼女は片手に、紐のような物を握っていた。何気なくその行方を目で追っている途中で、短く息が漏れた。
「……えっ」
 目を疑った。床に敷いてあるバスタオルの上で、青いベストを着た大型犬が寝そべっている。子どもたちの小さな手が、長い尻尾や垂れた耳に遠慮なく触れていた。それでも犬は微動だにせず、大人しく身を委ねていた。
 なぜ、病棟内に犬がいるんだ。巷で耳にしたことのある、アニマルセラピーだろうか。毛並みは艶があって清潔そうだったが、院内を犬が行き来して大丈夫なのだろうか。沙奈のように抗がん剤治療をしている子どもはいるし、鼻から管が入っている乳児もいる。あの犬が嚙んだりしたら、吠えたりしたら、医療機器を壊したりしたら。小窓から目にした衝撃が、徐々に不安に変わっていく。
 必要以上に息を切らして病室に戻ると、ほっそりとした中年の女性看護師がベッドサイドに立っていた。
「こんにちは。今日は、お父さんが付き添いなんですね?」
 看護師が目尻を下げた。彼女は、何度か沙奈の担当になったことがある武智詩織さんだ。生まれ付きのアザなんだろう。左目の白目の大部分が、薄紫に染まっている。
「えぇ……本日は、よろしくお願いします」
「こちらこそ。たった今、点滴が終わりまして」
 武智さんの右手には、空になった点滴ボトルが握られていた。追加の点滴はないようで、病衣の胸元に続いていた管は消え去っている。
「沙奈ちゃん、今から昼食ですか?」
「はい……いくらか吐き気が治まったので」
「吐き気止めが効いたのかな? それとも、パパが来て安心したのかも」
 武智さんが優しく問い掛けても、沙奈は横になったまま口元を結んでいる。他に医療行為がないか身構えているようで、表情は硬い。
「沙奈ちゃんは、何の食べ物が好きなんだっけ?」
「……プリンとか、ゼリー」
「あっ、ゼリーがあるね。パパが買ってきてくれたの?」
 沙奈が無言で頷く仕草を横目に、ベッドを横切るオーバーテーブルに昼食を載せた。二人の会話は弾んでいるとは言えないが、武智さんはマスク越しでも伝わる笑みを向け続けている。
「そうだ。今日はパパもいるし、みんなで病院内を探検してみようよ」
 突然の提案を聞いて、沙奈の表情が更に強張った。
「……なんで?」
「もう少し寝たり起きたりしたらね、目に見えないビームを当てる治療が始まるの。だからさ、一度その場所を見ておいた方が良いかなって」
「……ビーム?」
「そう。ビームの名前は、放射線っていうんだ。それを腕の悪いところに当てて、小さくしたり治したりする治療なんだよね」
 患児に対して新しく検査や処置を実施する際は、事前にプレパレーションという方法が用いられる。簡単に言えば、子どもが理解しやすいように医療行為を説明することだ。時には絵本や人形を使ったり、実際に処置や検査をする場所に足を運んだりして心の準備をさせる。
「怖いから、絶対イヤ」
 思わず「頑張れ」と口にしそうになったが、なんとか堪えた。その言葉だけは、絶対に声に出したくはない。沙奈は現在の全てを捧げて、病魔と闘っている。自由を制限されながらも、回復を目指している。時には小さな身体を震わせ、辛い治療を継続している。娘が入院して初めて「頑張れ」という言葉の重さを知った。
「今日、ビームは当てないんだよ。治療する場所を、見に行くだけなんだけどな」
「……それでもイヤなの」
 沙奈は掠れた声で呟くと、これ以上の会話を拒否するように勢い良く掛け布団を頭の先まで被った。武智さんはそんな態度を見ても、落ち着いた声で続ける。
「ビームを当てる治療は、熱くも痛くもないの。五分もしないで終わるしね。途中で寝ちゃう子もいるんだよ」
 以前、担当医から説明された話を思い出す。多くの横紋筋肉腫は、放射線治療を実施しないと再発を予防することは難しいらしい。放射線の照射状況によっては、腕の成長障害や変形が認められる場合もあるという。不吉な予感は、病室に漂う沈黙を余計重苦しくさせた。
「それじゃ、探検はまた今度にしよっか? ママがいる時にでも」
 武智さんは優しい口調で告げると、次にこちらを向いた。
「お食事、冷めちゃいますよね。何かありましたら、ナースコールを押してくださいね」
 武智さんに会釈をし、見送る途中、先ほどの衝撃を思い出した。
「あのっ……プレイルームに、犬がいたのですが」
 彼女が返事をする前に、勢い良く掛け布団が捲り上がった。
「スピカが来てるの?」
 沙奈が上半身を起こしていた。丸い目を見開き、うつろだった瞳には確かな意志が宿っている。
「スピカって……あの犬の名前か?」
「そうだよ! ご飯食べたら、会いに行って良い?」
「えっと……大丈夫か? 昨日、抗がん剤を投与したばっかりだし」
 助けを求めるように、白いスクラブユニフォームに再び視線を戻す。武智さんは青紫の左目を指先で擦ってから、二度頷いた。
「吐き気が治まっているようですし、大丈夫ですよ。白血球の数値も、今は問題ないので」
 白血球は、免疫に関与している。現在は感染しやすい状態ではなさそうだが、動物に触れさせるのは正直ためらう。眉根を寄せて無言の反対を示すと、看護師が続けた。
「お母様から、スピカのことって何か聞いてます? 同意書を記入して頂いた時に、お父様にも伝えるとおっしゃっていましたが」
「同意書……ですか?」
「はい。スピカと触れ合う場合は、事前に同意書を記入して頂くことになってるんです。それがないとスピカも近づかないですし、患者さんも関わってはいけない規則になってまして。中には、犬アレルギーの方もいますからね」
 妻の充血した両目を思い出す。今週は、ずっとベッドサイドで付き添っていた。疲弊してそんな同意書のことを伝え忘れたのは、容易に想像がつく。とにかく今は、頭に浮かんだ疑問を言葉に変えた。
「あの犬って……病院で飼ってるんでしょうか?」
「飼ってるというか、スピカは正式な職員の一人ですので」
 冗談かと思ったが、数秒待っても訂正する言葉は聞こえない。「一人じゃなくて、一頭か」と、付け加えられただけだ。
「正式な職員とは……?」
「言葉通りの意味ですよ。今月から当院専属になったDI犬です。DIっていうのは、Dog Interventionの頭文字から来てまして」
 直訳すると〝犬の介入〟という意味だ。こんなところで、以前英会話スクールに通っていた経験が活きた。
「あの犬は……アニマルセラピーをしているんでしょうか?」
「正確には違いますね。アニマルセラピーという表現は、日本特有の造語ですので。英語圏で使用すると、動物に対する治療と勘違いされる可能性がありますし。正確な用語で言うと、スピカは『動物介在活動』や『動物介在療法』を実施しています」
 彼女曰く、動物介在活動は、通称〝AAA(Animal Assisted Activity)〟と呼ばれているようだ。動物との一時的な触れ合いを通して対象者に癒しを提供したり、生活の質の向上を目的としている。老人ホームや学校、病院への訪問がAAAに相当すると説明された。
 一方、動物介在療法は〝AAT(Animal Assisted Therapy) 〟と呼ばれているようだ。AATは、医療従事者の主導で実践される。患者の治療計画の中に動物を介在させ、治療目標達成のために具体的な介在方法が立案されると説明された。AATを実施する動物は、その施設や場所に常駐するケースが多いらしい。あの犬のことを職員と呼んでいたのも、定時に週三回ほど出勤しているからだと聞いた。
「AAAは主に、癒しや心のケアがメインですね。逆にAATの場合は、治療計画に沿って動物が介在します。あくまで、治療を補完する役目にはなりますが」
 補完という言葉を、脳裏で転がす。常識的に考えて、あの犬が抗がん剤を処方したり、採血をしたりするのは無理だ。治療目標を達成するための、補助的役割ということだろうか。
「犬の責任者のことを『ハンドラー』と呼ぶんですが、誰でも良いわけではないんです。特にAATを実施する場合は、臨床経験を積んだ医療従事者であることが多いです。ちなみにスピカのハンドラーは、当院の看護師なんですよ」
 派手な色のスクラブユニフォームを着た女性の姿を思い出す。リードを握っていたし、彼女があの犬のハンドラーなのだろう。
「そのっ……感染面に関しては、大丈夫なんでしょうか? 毛並みは綺麗でしたが、動物ですし……」
「問題ありません。感染面や清潔面に関しては、万全を期していますので」
 武智さんは少しだけ胸を張り、得意げに続ける。
「DI犬を導入するまでに、病院全体で沢山の会議を重ねてきましたので。感染委員会、医療安全委員会、それに外部の獣医師も参加してくれています」
 その口調には、揺るぎない自信が滲んでいる。
「様々な検査の結果、面白いことがわかったんです。スピカって、当直明けの研修医が着ている白衣より清潔なんですって」
 会話を遮るように「いただきまーす」と、間延びした声が聞こえた。ベッドの方を向くと、幼い手が茶碗の蓋を開けている。
「あらー。さっきまでが噓みたい。ゆっくり、よく嚙んで食べるんだよ」
 武智さんは穏やかな声を出すと、一礼して病室から出ていった。

 廊下を急ぐ細い足は、弾んでいる。つられて早足になりながら、小さな背中を追った。
「ゆっくりね。転んで血が出たら、止まりにくいんだよ」
「わかったー」
 無理やり握った幼い手は、ひやりと冷たかった。内心落ち着かない気分で、プレイルームを目指す。未だ不安は拭い切れていないが、娘の笑顔の前では引き止める言葉が枯れてしまった。
 沙奈と並んでプレイルームの引き戸を開けると、大勢の子どもたちや母親の姿は消えていた。室内には、白い犬とピンクのスクラブユニフォームを着た女性しかいない。さっきは寝そべっていた大型犬は、今はお座りの姿勢を保っている。側に立つ女性の片手には、変わらずリードが握られていた。
「凪川さん、こんにちはー」
 病室にいる時とは違う明るい沙奈の声が、プレイルーム内に響いた。凪川さんと呼ばれた女性は犬から目を離すと、こちらに向けて手を振った。
「こんにちは。今から、控室に戻ろうとしてたの」
 ハンドラーの返事を聞き、沙奈が絶句するのが伝わった。凪川さんはズレたマスクの位置を直しながら、穏やかに目尻を下げた。
「でも、スピカが遊び足りなそうだし。少しだけ、延長しようかな」
「やった!」
 早速沙奈が駆け出そうとすると、凪川さんがなぜか大袈裟に首を捻った。
「スピカに触れる前は、何をしなきゃいけないんだっけ?」
「手をきれいにするー。さっき、洗ったよ」
「偉い。ちゃんと、覚えてたね」
 凪川さんはマスク越しに笑みをこぼすと、今度は浩に向けて軽く頭を下げた。
「初めまして。沙奈ちゃんのお父さんですか?」
「えぇ……娘が、いつもお世話になっているようで」
「こちらこそ。改めまして、スピカのハンドラーをしている凪川遥と申します」
 ハンドラーはスクラブ上着の胸ポケットから、名刺を取り出した。恐る恐る受け取り、目を落とす。名刺には〈DI犬・スピカ〉と表記されていて、証明写真風に写る白い犬と紙面上で目が合った。
「この名刺には、スピカに届くメールアドレスも掲載してあります。気が向いた時で良いので、メッセージを頂けると励みになりますので」
 名刺から凪川さんに目を向けた。マスクで覆われていない目元はよく陽に焼けていて、後頭部で一つに束ねたヘアスタイルからは活発そうな雰囲気が漂っている。武智さんの話によると、新人看護師ではないんだろう。多分年齢は、二十代後半か三十代前半ぐらいであることを察した。
「ねぇ、早くスピカに触りたい」
 浩たちが入室してからも、白い犬はその場を動かず、お座りの姿勢を崩してはいない。時折、長い尻尾を左右に振るだけに留めていた。大人しそうな犬ではあるが、だからと言って不安の塊が消えたわけではない。何かのきっかけで、犬歯を剝き出しにするかもしれない。
「Down」
 ハンドラーが短い英単語を発した瞬間、垂れた耳がわずかに動いた。白い犬はゆったりとした動作で、床に敷かれたバスタオルの上に伏せた。間近で見る大きな身体は迫力があり、エジプトのスフィンクスのようだ。沙奈は犬の側でしゃがみ込むと、ためらいもなく白い頭を撫で始めた。柔らかそうな被毛に、幼い手がなぞった跡が付く。もしも嚙みつかれそうになった場合に備え、娘の真横で息を潜めた。犬は撫でられても全く体勢を変えず、穏やかな眼差しを浮かべ続けている。
「スピカは、人間が大好きですから。心配しなくても、大丈夫ですよ」
 胸の内を見透かすような呟きを聞いて、顔を上げた。
「実は今日、スピカを紹介するポスターを貼ったんです。良かったら、目を通してみて下さい」
 凪川さんが、背後の壁を指差した。壁の一部に手作り風のポスターが三枚並んで貼ってある。その中の一枚には〈当院のDI犬について〉という見出しが、カラフルな文字で書かれていた。
 一枚目のポスターを読むと、DI犬の概要やAATとAAAの違いに関する内容が記述されていた。どうやらこの犬は、宮城県に本部がある「陸奥介助犬協会」という団体から貸与されているらしい。五歳のゴールデン・レトリバーで、性別は雄。この犬は元々、手足に不自由のある障害者の日常生活をサポートする介助犬だったようだ。子犬の頃から社会化の教育を施され、同じく宮城県にある陸奥シーサイドセンターと呼ばれる施設で専用の訓練を積んでいたらしい。そしてDI犬の認定を受け、今月から時津風病院で活動し始めたという。
 二枚目のポスターでは、患者が抱きそうな疑問に答えていた。病院内では点滴を留置していたり、胃管から栄養を摂取したりしている患者が多く入院している。犬の鼻先に薬剤や食べ物の匂いが漂ったとしても、勤務中は反応しないように訓練されていると記述してある。
 衛生管理に関しても、かなり厳しい対策が取られていた。この犬が病棟間を移動する前後には、アルコール消毒と同等の効果がある除菌シートで全身を拭いているようだ。その他にも犬の身体が汚染していないかを、抜き打ちで調べているらしい。患者が触れる頻度の高い顔や頭以外にも、被毛や肉球、肛門周囲から採取した検体を定期的に提出していた。結果は毎回基準値をクリアしており、病院内での細菌定点観察を踏まえても、問題となる菌の増殖は認められていないと明記されていた。ポスターの内容を補足するように、背後からハンドラーが告げた。
「人獣共通感染症に関しては、ワクチンを打って予防しています。その他にも定期的に、獣医からの健康診断や検査を受けているんです。スピカが体調の悪そうな場合は、迷わず訪問の中止を決断していますし」
 犬が触った物品は、毎回除菌シートで拭いているようだ。アレルギーの原因となりやすい被毛は、粘着ローラーで頻回に除去しているとも記述があった。
 三枚目の中央には犬の写真があり、その周囲には子どもたちが犬に宛てたメッセージカードが数多く貼り付けられていた。自然と沙奈の名前を探すと、左端にあった。ハート型のメッセージカードに、赤の色鉛筆で短い文章と娘のフルネームが記載されている。
〈びょういんでともだちができたよ♡〉
 白い犬が身に纏っている青いベストには、〈I'm friendly〉と刺繍された丸いワッペンが貼り付けられていた。凪川さんが着ているスクラブ上着の右肩にも、〈DI犬ハンドラー〉とワッペンが縫い付けられている。
「他のスタッフからお聞きしたんですが、凪川さんは元々看護師なんですか?」
「はい。今月から、ハンドラーとして活動を始めました。それまでは十年近く、病棟看護師として勤務していまして」
 看護師としては臨床経験がありそうだが、ハンドラーとしての経験は一ヶ月未満。沈黙を返すと、新人ハンドラーが続けた。
「ハンドラーとして活動するためには、様々な知識を得て犬とペアで認定試験に合格する必要があります。スピカに与えるコマンドは、六十種類以上もあるので」
 先ほど「Down」と、告げた声を思い出す。何の気なしに「ダウン」と口にするのとは、明らかに違っていた。はっきりと歯切れの良い声の中にも、穏やかさが存在する口調。犬とは言語で明確な会話ができないからこそ、様々なニュアンスを含ませる必要があるのかもしれない。
「……凪川さんが、この犬を飼ってるんですか?」
「はい。共に暮らしています。スピカの健康管理は、ハンドラーの重要な役目ですから。それに動物福祉の観点から、スピカを守ることがハンドラーの一番の役目ですし」
 伏せたままの犬に目を落とした。沙奈が首元に抱きついても、吠えたり鼻を鳴らしたりすることはない。その悠然とした態度は、娘の全てを受け入れているようだった。
「勤務中のスピカは、私のコマンドに従って活動します。逆に家だと、自由奔放な子なんですけどね」
 凪川さんは白い毛で覆われた頭を撫でながら「Good boy」や「Nice」という言葉を繰り返した。ハンドラーがDI犬に向けて放つ肯定的な言葉は、病院という場所では少しだけむなしく響いた。
「沙奈ちゃん、今度はお腹も触る?」
「うん。触りたい!」
「じゃ、一歩だけ下がってくれるかな?」
 沙奈が後ずさったのを確認すると、ハンドラーはDI犬と目を合わせた。
「Roll」
 ずっと伏せていた犬が、ゆったりとした動作で横になった。腹を向ける体勢になってから、一度だけ舌舐めずりをする仕草が見える。誰かに触れてもらうのを、今か今かと待ちわびているみたいだ。
「スピカのお腹って、すごく温かいんだよねー」
 沙奈が得意げに、白い毛で覆われた腹を撫で始めた。小さな手が動く度に、まばらに残っている黒い髪の毛が揺れている。装着している子ども用マスクからは笑みがはみ出し、落ち窪んだ両目は糸のように細くなっていた。こんな風に笑う娘を、久しぶりに見た。健全な笑顔、子どもらしい無邪気な表情。同時に、病室にいる時は息が詰まっていることを実感してしまう。
「病棟に犬がいて、びっくりしました?」
 凪川さんの質問を聞いて、素直に頷いた。
「まぁ……初めての体験なので」
「海外の病院では、割と多いんですよ」
「日本では、あまり聞きませんが」
「DI犬を導入するには、お金が掛かりますからね」
 彼女曰く、DI犬導入時は高額の活動費が必要らしい。導入してからも毎年、犬の健康管理費用や獣医にかかる医療費等は続く。そして、ハンドラーの人件費も。現状は寄付金を活用したり、病院が費用を負担したりして、なんとか遣り繰りをしているようだ。
「そもそも犬が病棟にいること自体、嫌がる人もいますから」
 ハンドラーがマスク越しに硬い笑みを浮かべた瞬間、背後で引き戸が開く音が聞こえた。振り返ると、車椅子に座った男児が俯いている。母親らしき女性が車椅子のハンドルを握っていた。母親の隣に立つ武智さんが、大げさに目を見開いて言った。
「やった。まだいたよ。剛くん、スピカに『こんにちは』したら?」
 武智さんが促しても、剛くんと呼ばれる子は目を伏せたままだった。彼は、沙奈より少し年上に見えた。マスクで口元を覆い、頭にニット帽を被っている。もみ上げや襟足は確認できず、薬の副作用で脱毛しているのを察した。無言の男児に代わって、母親が口を開いた。
「もうスピカの休憩時間ですか?」
「そろそろ、控室に戻ろうかなとは思っています」
「……次にスピカが来るのって、一時間後ですもんね?」
「そうですね。一応四十五分働いて、一時間休む勤務体制になっていますので」
 リードの先では、まだ沙奈が犬の腹を撫でることに夢中になっている。凪川さんが、深く息を吸い込む音が微かに聞こえた。
「剛くんのことで何かあれば、協力しますよ」
「本当ですか! ありがとうございます」
 母親はハンドルを握ったまま頭を下げると、伏し目がちに話し出した。
「実は……剛がST合剤を飲むのを嫌がっていまして。一時間近く説得したんですけど、ダメで……」
 母親の言い淀む内容が、鮮明に理解できた。ST合剤は抗菌剤だ。沙奈も同じ薬を、週に何度か内服している。抗がん剤投与中は、ニューモシスチス肺炎という致死性の高い肺炎に罹るリスクが上がる。その予防策の一環として、ST合剤を定期的に内服する必要があった。
「さっき、ようやく……スピカの前でなら飲むと話しまして。なので武智さんにも声を掛けて、ここまで……」
 ST合剤は苦いらしく、沙奈も内服する時は毎回渋っている。内服を続けないと、死に至る可能性があることは理解している。とても大切な薬だということも、医師から説明を受けた。それでも嫌々ながらST合剤を内服する幼い口元を見てしまうと、いつも胸が締め付けられる。
 横紋筋肉腫を患わなければ、必要のなかった薬。
 ザラついた罪悪感は、気付くと鋭さを増し、いつも自分自身を責める刃に変わっていた。
「それじゃ、スピカの出番ですね」
 ハンドラーが明るい口調で言い放った後、浩はまだ犬を触っている沙奈を手招いた。素直に立ち上がった娘の手を握る。
「沙奈ちゃん。またスピカに、会いに来てね」
 ハンドラーは娘に穏やかな声を掛けた後、腹を出したままの犬に優しげな視線を送った。
「Stand」
 ところが白い犬は、今回は立ち上がろうとする気配がない。沙奈の手を求めるように、まだ腹を向けている。
「スピカ、Stand」
 ハンドラーが再度指示を与えても、白い犬は素知らぬ表情で口元から赤い舌を覗かせている。凪川さんの目元に、焦りが見て取れた。それからハンドラーは、同じ指示を二度繰り返した。しかしDI犬は動き出すことはなく、垂れた両耳をわずかに動かすだけだ。
「ねぇ、スピカ」
 ハンドラーが嘆くように呟くと、車椅子の隣で静観していた看護師が一人と一頭に近寄った。武智さんは、白い犬の目の前でなぜか人差し指を立てた。すると、横になっていた白い犬がのっそりと立ち上がった。
「凪川さん、後はよろしく」
「あっ、はい……すみません」
 武智さんは犬の顎あたりを撫でてから、車椅子の側に戻った。さっきまでの無視が噓のように、白い四本脚が動き出す。
「Sit」 
 車椅子の前で、指示通りに白いお尻が床に付く。DI犬は瞬時に前脚と後脚を揃え、見本のようなお座りの姿勢を作った。
「スピカと一緒なら、お薬飲むの頑張れそうなんだ?」
 ハンドラーが質問しても、剛くんは何も反応しなかった。
「とにかくまずは、スピカに触って気分を変えよっか?」
 剛くんが、ようやく頷いた。凪川さんも同調するように頷くと、お座りの姿勢を保つ犬の方に目を向けた。
「Visit」
 訪問や見舞うの意味を含む英単語が聞こえた後、白い犬がのっそりと移動し、車椅子に座ったままの剛くんの膝の上に顎を乗せた。
「剛くん、スピカが撫でてほしいって」
 男児の両目は赤く腫れあがっていた。ST合剤を飲みたくなくて、かなり抵抗したのだろう。幼い手が、恐る恐る垂れた耳に触れる。白い犬は何度か瞬きを繰り返しただけで、静かに身を任せていた。
「スピカの鼻って……いつも濡れてるよね」
 初めて耳にした声は掠れていたが、声色は沈んではいない。それから慎重に、丁寧に、大切な宝物に触れるように、剛くんは白い犬の額を撫で始めた。そんな様子を眺め、沙奈の手を引く。浩は会釈を繰り返しながら、足早に廊下へと踏み出した。
「パパ、もうお部屋に帰るの?」
「そうだね。あの犬も、休憩するみたいだし」
 これ以上、プレイルームにいたら邪魔だ。頑張った後の剛くんに、思いっきり白い犬を独り占めさせてあげたかった。まだ遊び足りないと口を尖らせる沙奈を、優しくなだめ続ける。犬に触れていた小さな掌は、汗ばむほどに熱くなっている。こんなに手先まで血が巡っているのだ。抗がん剤も、きっと効果があるはず。
「退院したら、ドッグランがある公園に行ってみようか」
 退院後の楽しみが増えれば、この日々を乗り越えられる糧にもなるはずだ。沙奈は無言で頷いたが、マスクで覆われた横顔に笑みはない。歩調はプレイルームに向かう時と比べると、明らかに遅い。無言で、父親の強引さを非難していることが伝わった。
「ドッグランに行けば、退院後もあの犬に会えるんじゃないかな」
 あり得そうもない偶然を口にしながら、小さな手を握る力を少し強めた。

 病室に戻ってからは、スマホで動画を観たり、義母からの手紙を読んだり、塗り絵やお絵描きをしたりして遊んだ。長引く入院生活のせいで、沙奈の体力は落ちている。慢性的に怠さがあって、休み休み時間を過ごした。
 ベッドに横になっている沙奈は、祖母から貰ったニット帽を被っていた。紅茶色をしていて、サイズもぴったりだ。ニット帽が似合えば似合うほど、胸の中が冷たくなっていく。来年には、こんな帽子は必要なくなってほしい。近い未来への不安から目を逸らすように、無理やり弾んだ声を出す。
「沙奈はさ、退院したらどこに行きたい?」
「……わかんない」
「遊園地とか、動物園とか、水族館とか。沙奈の行きたい場所に、どこだって連れてくよ」
 時刻はいつの間にか、十五時を過ぎていた。まだ陽は高く、窓から差し込んだ日差しがシーツに線のような陰影を描いている。何気なく外の風景に目を向けた。敷地内に植えられている高木には、どれも青々とした葉が茂っている。葉の形からして、イチョウだろうか。外では緩い風が吹いているようで、扇型の若葉が揺れていた。常に室温が二十四度に設定されている病室から外を眺めると、たまに現実感が欠落する瞬間があった。まるで、精巧なミニチュアを窓越しに見ているような錯覚。妻にそんな話をしたことはないが、共感はしてくれなくとも、理解はしてくれるような予感がした。お互い、この生活に疲れ切っている。一番疲れている娘の前で、そんな弱音は決して吐けないが。
「どこにも行かなくて良いから、お家に帰りたい」
 抑揚のない声を聞いて、窓から目を離した。
「明日は、外泊だよ」
「でも……また、病院に戻るんでしょ?」
 沙奈は横になったまま、無表情で天井を見つめている。短い沈黙を挟んでから、頰を精一杯膨らませて寄り目を向けた。マスクの下でおどけた表情を作っても、娘は気付いてくれない。空調の風が冷たさを増していくだけで、すぐに表情を元に戻した。
「退院したらさ、旅行に行こうな。そこでいっぱい遊んで、美味しい料理を食べてさ」
「……ママが作るご飯も、美味しいよ」
「もちろん。そうだ、明日は沙奈が大好きなグラタンを作ってもらおうよ。チーズ多めで、エビさんやイカさんが沢山入ってるヤツをさ」
 早速、ポケットからスマホを取り出した。沙奈が口にした願いを、今はどうしても叶えてやることができない。ここが正念場なのだ。まだ五年しか生きていない命を、途絶えさせるわけにはいかない。正論だけを胸の中で繰り返しながら、自己嫌悪や不甲斐なさをどうにかやり過ごす。
 スマホの画面に目を落とすと、充電マークが赤色を発していた。美樹にメッセージを送る途中で、唐突に電源が落ちた。
「やばっ、充電切れちゃったよ」
 取り繕うような笑みをこぼし、足元に置いていたバックパックに手を伸ばした。いくら中を探しても、充電器は見つからない。
「早く、お家に帰りたい」
 今はどうしたって、叶えてあげられないことがある。聞こえなかった振りをしながら、バックパックの中を探り続けた。既に充電器を自宅に忘れたことに気付いてはいたが、手を止めることができない。
「パパ……お絵描きの続き、やって良い?」
 ようやく顔を上げると、沙奈がオーバーテーブルに転がる画用紙と短くなったクレヨンに手を伸ばしていた。
「良いよ。今日、遊んだ犬でも描いてみたら?」
「犬じゃなくて、スピカだよ」
「そうだったな。悪い、悪い」
 ニット帽越しに、小さな頭を撫でた。義母が話していた通り、肌触りは滑らかだ。上質な綿を使用しているのか、生地自体にしっとりとした柔らかさを感じる。でも本当はオーガニックコットンじゃなくても、被り心地が良くなくても、沙奈が自ら選んだ帽子をプレゼントしたい。
「売店で、充電器買ってくる。家に忘れちゃってさ」
「すぐ、戻ってきてね」
 笑顔の仮面を装着し、親指を突き出した。四六時中病衣を着ている娘と、作り笑いばかりが上手くなる父親。二ヶ月前と同じように、家族四人で家で暮らす。そんな当たり前だった生活が、今は煙に触れているかのように手応えがない。
 ナースステーションの看護師に一声掛け、病棟出入り口を通り抜けた。エレベーターに乗り込み、売店がある一階のボタンを押す。下っていく階数表示を漫然と見上げていると、四階で扉が開いた。
「今から、犬が乗っても良いですか?」
 瞬きを繰り返すと、開いたドアの向こうに立つ凪川さんと目が合った。
「あれっ、沙奈ちゃんのお父さんじゃないですか。さっきは、どうも」
「いえ……こちらこそ」
「スピカ、乗っても大丈夫ですか?」
 頷くと、ドア前に白い犬が現れた。エレベーターには乗り慣れているようで、落ち着いた様子で乗り込んで来る。
「エレベーターに乗る時は、一声掛けているんです。犬が苦手な人もいますから」
 凪川さんは白い犬を端に寄せてから、二階のボタンを押した。片手には、しっかりとリードが握られている。
「さっきは……娘の相手をして下さり、ありがとうございました」
「こちらこそ。沙奈ちゃんが遊んでくれて、スピカも喜んでますよ」
 端で、大人しく待機する犬に目を向ける。こんな狭い空間にいても、獣臭は一切感じない。多分、自分の脇や首筋の方が臭う。二階の階数表示が光り、エレベーターのドアが開いた。
「沙奈ちゃんは、スピカの大切な友だちですから」
 ハンドラーはドアの向こうに人がいないことを確認しているのか、顔を左右に振った。人影はなかったようで、すぐに「Go」と告げる声が無機質な空間に響く。そのコマンドを合図に、長い尻尾がエレベーターの外に消えていく。無意識のうちに、閉じる寸前のドアに手を伸ばしていた。
「あのっ」
 閉まり掛けたドアに身体を挟まれながら、必死で廊下に這い出す。振り返った一人と一頭に、どうしても伝えたい言葉があった。
「ありがとうございます……娘の友だちになってくれて」
 絞り出した声は、情けないほど震えていた。
「最初は戸惑いましたが……入院中、娘があんな風に笑うことはなかったので」
 履いているスニーカーが、廊下に出来た日溜まりを踏んでいる。光に照らされた靴は、妙に薄汚れて見えた。
「病室にいる時は、表情を失ってることも多くて。退院後の楽しみに目を向けるようにはしてるんですが、なかなか……」
 言い淀みながらも、溢れ出した想いは止まらない。沙奈と毎日関わるような、医師や看護師とは違う。看護師兼ハンドラーという絶妙な距離感が、今は不思議と心地が良かった。
「今日も放射線治療に関するプレパレーションを拒否したんです……それにさっきも、家に帰りたいって」
「そりゃ、ほとんどの子は家に帰りたいですよ。何も不自然なことじゃありません」
 思わず、顔を上げた。凪川さんは、隣でジッとしている犬の額を撫でている。
「多くの子はベッドで寝転ぶよりも、沢山遊びたいと思ってますし」
「まぁ……そうでしょうけど」
「特に小児の『遊び』は、発達に関係する大切な活動です。入院したからと言って、成長が止まることはありませんので」
 凪川さんは一度言葉を区切り、額の次は顎の下を撫で始めた。
「どんな大病を患っていても、身体が動かなくても、たとえ余命を宣告されていたとしても、子どもたちは成長し続けますから」
 言い切る声が、胸の砂地に染み込んでいく。白い犬も何かを察したのか、浩の方をジッと見つめていた。
「娘が退院したら……思いっきり遊ばせます」
「確かに、退院後の生活に目を向けることは間違ってはいません。でも子どもたちにとっては、入院中も大切な日々なんですよ」
 白い犬の尻尾が楽し気に揺れている。たとえ今、鋭い犬歯が覗いたとしても、もう誰かを傷付けるような刃には見えないだろう。
「沙奈ちゃんも、毎日小さな変化を繰り返しているはずです。大人になるために」
 凪川さんは、白い犬の視線に合わせるように腰を屈めた。
「私たちのやってることって、あくまで補助療法なんです。治療を補完する役割っていうか。患者さんや医療スタッフの理解や協力は、必須ですし」
「……武智さんからも、そう伺いました」
「スピカは、手術も、治療薬の処方も、採血もできませんから。できることは、誰かに寄り添うことだけです」
 名前を呼ばれたせいか、高くて黒い鼻が飼い主の方を向く。
「それでも、多くの患者さんは楽しそうにしてくれるんです。スピカに触れると」
 白い毛を撫でる幼い手を思い出した。はしゃいでいた横顔は、入院中であることを忘れているかのようだった。徐々に身体の奥底から、ある欲求が気泡のように湧き上がってきた。その泡は弾けて、声に変わった。
「俺も……撫でても良いですか?」
 凪川さんは深く頷くと、肩に掛けているショルダーバッグに手を入れた。
「それでは、手指消毒をお願いします」
 手を綺麗にしてから、白い額を撫でた。すぐに柔らかな毛と心地よい温もりが伝わる。潤んだ両目には、浩のシルエットが反射していた。その眼差しにはこちらを見透かすような聡明さもあるが、ただ遊んで欲しいと訴えるような無邪気さも混在している。
 とても美しい瞳だ。
 言葉を交わさなくても、穏やかな意思が伝わってくる。スピカを撫でていると、頰が自然とほころんだ。
「さっきの話ですけど、放射線治療のプレパレーションを嫌がってるんですか?」
「えぇ……娘はMRI検査等でも、怖がってかなり抵抗するんです。毎回鎮静剤を使って、眠ってから撮影しています」
 沙奈は注射針や大きな医療機器を見ると、毎回怖がる。CT撮影やMRI検査をする際は、機器の中で数分間動かずにジッとする必要があった。不安が強い娘には難しい課題で、毎回鎮静剤を投与して安静体位を保っていた。
「多分、放射線治療をする時も……」
 溜息交じりに漏らすと、ハンドラーが頷いた。
「確かに治療上の安全が担保できない場合は、鎮静剤の使用も選択肢に上がるでしょう。ただ……」
 言い淀む返事を聞いて、スピカの頭からやっと手を離した。まだ掌には、柔らかな温もりが残っている。
「自分自身の意志で臨んだ治療は、いずれ沙奈ちゃんの宝物になるような気もします」
「……宝物ですか?」
「病気を患ったからと言って、失うばかりではないんで」
 下唇を強く嚙む。入院生活は辛く、どう考えても、健康な身体で家の中や公園を走り回れた方が良いに決まっている。凪川さんの言葉は綺麗事のように聞こえなくはないが、簡単に聞き流したくない。耳に心地良いだけの言葉だとしても、今はすがりたい。過酷な治療を続けているんだから、そうあってほしい。清潔なベッドの上で、失うだけの日々を過ごしてほしくはなかった。
「スピカの出番ですね」
 凪川さんはピンクのスクラブ上着のポケットから、PHSを取り出した。アンテナ付近には〈医療用〉と書かれた赤いストラップが装着されている。
「お疲れ様です。凪川です。近くに詩織さん……武智さんっています?」
 彼女が何かを伝える声を耳にしながら、スピカを見つめた。白い後脚で耳の裏を搔きながら、口元を緩めている。そんな呑気な表情を向けられるだけで、曇っていた胸の中が徐々に晴れていくような気がした。

 売店から戻ると、沙奈は上半身を起こしていた。特に不安がっている様子もなく、ベッド上でお絵描きを続けていた。
「パパ、遅かったね」
「まぁ……ちょっとな。それより、これからスピカが来てくれるって」
「えっ? なんで?」
 返答に困ってしまう。悪癖のように変顔を作りそうになってしまうと、病室のドアをノックする音が届いた。
「沙奈ちゃん。調子はどうかな?」
 振り返ると、武智さんが顔を覗かせていた。今日の担当看護師はベッドサイドに近寄り、画用紙に目を落としながら優しい口調で告げた。
「お絵描きしてたんだね。まだ途中かな?」
 沙奈が硬い表情で頷く。武智さんは画用紙に描かれた絵を褒めてから、本題を切り出した。
「今からスピカが来るよ。沙奈ちゃんだけに会いに」
「なんで? 他の子とは遊ばないの?」
「今回は沙奈ちゃんだけ。スピカも一緒に探検しようって、誘ったんだ」
 探検という言葉を聞いて、沙奈の表情が一気に曇った。
「ビームのお部屋に行くの?」
「沙奈ちゃんが良ければね。スピカが一緒にいれば、楽しく探検できそうじゃない?」
 返事はなかったが、前回のように掛け布団を被る仕草はない。丸い瞳はオーバーテーブルに転がったクレヨンに、うつろな眼差しを落としている。
「スピカが一緒でも、イヤ……」
 やっと絞り出した声に重なるように、再びノックの音が響いた。視界の端で、ピンクと白が過る。スピカの姿を見て、またサッと沙奈の表情が変わった。リードを握った凪川さんはベッドサイドに近寄ると、人差し指を立てた。瞬時にお座りの姿勢を作ったスピカの尻尾が、楽し気に左右に揺れている。ハンドラーが、穏やかに言った。
「沙奈ちゃん、スピカも冒険の仲間に入れてくれるんでしょ?」
「冒険じゃなくて、探検だよ……」
「そっか。ごめん、ごめん。武智さんから聞いたよ。是非、スピカに道案内させてほしいな」
 丸い瞳が、スピカと凪川さんを行き来する。
「……イヤ」
 沙奈は短く返答してから、俯いた。既に放射線治療が開始されるスケジュールは決まっている。どんなに嫌がっても、治療は実施されるはずだ。健康な身体を取り戻すために。これからも、生きていくために。思わず「頑張れ」と、喉が震えそうになる。手を固く握りながら、必死にその言葉を呑み込んだ。
「だったら今日は探検を止めて、病棟内をお散歩してみる?」
 凪川さんの呑気な声が聞こえて、強張っていた身体から力が抜けた。沙奈も再び顔を上げ、首を傾げている。
「……お散歩?」
「うん。スピカと、病棟内を歩こうよ」
 凪川さんはショルダーバッグから、何かを取り出した。
「沙奈ちゃん、これは何か知ってる?」
「スピカのお散歩に使う紐?」
「大正解! リードって言うんだけど、今日は沙奈ちゃんが持ってお散歩して良いよ」
 差し出されたリードを、小さな手が恐る恐る受け取った。沙奈はジッと手元を見つめてから、オーバーテーブルの上にリードを伸ばした。ナイロン製の表面には、色とりどりのハートが描かれている。気付くと、幼い頰が緩んでいた。
「……可愛い」
「でしょ。散歩中は私も他のリードを握ってるけど、散歩のリーダーは沙奈ちゃんね」
 数秒の沈黙の後、沙奈がゆっくりとベッドから降りた。

 四人と一頭で病室から出ると、廊下に人気はなかった。静かな空間に、スピカの息遣いや足音が漂っている。改めて、病棟内に犬がいることが不思議に思えた。
「沙奈ちゃんは、スピカの左側に立ってね」
 ハンドラーの指示を聞いて、沙奈がスピカの左側に移動した。小さな手は既に、しっかりとリードを握っている。
「Heel」
 踵という意味のコマンドが発せられると、スピカの耳が微かに動いた。長い尻尾を激しく振り、凪川さんの左側にピタリと身を寄せた。スピカを中心として、左側には沙奈が、右側には凪川さんが立っている。ハンドラーが持つリードは、三十センチにも満たないモノに付け替えられていた。
「好きなとこに行って良いの?」
 沙奈の質問を聞いて、ハンドラーが深く頷いた。
「どうぞ。でも、走ったりしちゃダメだよ」
「はーい」
 沙奈が、ゆっくりと一歩を踏み出した。ハンドラーはスピカにアイコンタクトを送りながら、娘の歩幅を意識しているようだった。スピカは全くリードを引っ張らず、ゆったりとした動作で四本脚を前に進めている。
「ちゃんとついて来てる!」
「スピカも、沙奈ちゃんとお散歩したかったんだね」
 歩き始めても、ハート柄のリードはUの字にたるんだままだ。端から見れば、ハンドラーがDI犬を操っているのは明らかだ。それでも、沙奈のはしゃぐ声が廊下に響く。
「ねぇ、スピカ。プレイルームに行ってみよう」
 背後から散歩する二人と一頭に目を細めた。前方にはアスファルトの舗道ではなく、リノリウムの廊下が続いている。あたりに若葉が繁る木々は存在せず、風や花の香りだって感じない。周囲に漂っているのは、ほのかな消毒液の臭いだけ。それでも、小さな足は一歩一歩前に進んで行く。白い友だちと一緒に、弾むような足取りで。
 プレイルームに入っても、沙奈はリードを離さなかった。室内の端から端を行き来し、置いてある人形を黒い鼻先に近づけ遊んでいる。
「今日は、楽しいね」
 久しぶりに、沙奈の口からその言葉を聞いた。入院中に「楽しい」と言える瞬間はどんなに貴いか、今なら知っている。スクラブ上着に刺繍されている〈AAA/AAT〉という文字が滲み始め、思わず乱暴に目元を拭った。
「沙奈ちゃん、このままビームの部屋まで行ってみようよ」
 ハンドラーの提案に、沙奈は顔を顰めた。
「えー、どうしよっかな……」
「一緒に頑張ろう。頑張れるところまで」
 浩がずっと禁句にしていた言葉だ。それなのに、不思議と嫌な気はしない。強要はせず、ただ寄り添うだけのような響きを感じたからだろうか。
「うーん……ちょっと、見に行くだけだよ」
 妙に大人びた声が、はっきりと聞こえた。凪川さんと武智さんが同時に拍手をすると、沙奈は照れ臭そうに俯いた。浩も、少し遅れて力強く手を叩く。今は、ゆっくりと一歩を踏み出して行けば良い。その勇気が、いつか宝物に変わることを強く願う。
「それじゃ、出発ー」
 ハンドラーの声を合図に、小さな背中が再び廊下に踏み出していく。その後に続こうとすると、壁に貼られたポスターが視界の隅を過った。
 何気なく三枚目のポスターに視線を向ける。沙奈が書いたメッセージが目に留まった瞬間、息を呑んだ。数時間前は気付けなかった。 
「字、上手くなったんだな」
 入院前より形の整った文字。自然とポスターに近寄り、愛おしい文字を間近で眺める。廊下から届く幼い声が、徐々に遠くなっていく。確かな娘の成長を両目に焼き付け、リードを握る小さな背中を追った。

(第1章 終わり)

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前川 ほまれ(まえかわ・ほまれ)
1986年生まれ、宮城県出身。看護師として働くかたわら、小説を書き始め、2017年『跡を消す 特殊清掃専門会社デッドモーニング』で、第7回ポプラ社小説新人賞を受賞しデビュー。2019年刊行『シークレット・ペイン 夜去医療刑務所・南病舎』は第22回大藪春彦賞の候補となる。2023年刊行『藍色時刻の君たちは』で第14回山田風太郎賞を受賞。その他の著書に『セゾン・サンカンシオン』がある。

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