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冒頭30ページ分を公開中! 愛犬家の方におすすめします『犬小屋アットホーム!』

ドラマ化された「猫弁」シリーズや、「あずかりや」などのシリーズ作品などの著者、大山淳子さんの書き下ろし小説がU-NEXTに初登場。
舞台は老人ホーム、そこでは犬と同居することがルールです。
大山さん自身「とても良い物語だとわれながら思います」と、まさに渾身の感動作。
冒頭30ページ分を試し読みとして公開しています。
ワンちゃん好きに届けたい物語をどうぞ!

イラスト:嶽まいこ デザイン:長﨑綾(next door design)

■著者紹介

大山 淳子(おおやま・じゅんこ)
東京都出身。2006年、『三日月夜話』で城戸賞入選。2008年、『通夜女』で函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞グランプリ。2011年、『猫弁~死体の身代金~』にて第三回TBS・講談社ドラマ原作大賞を受賞しデビュー、TBSでドラマ化もされた。著書に『赤い靴』、『通夜女』などがあり、「猫弁」「あずかりやさん」など発行部数が数十万部を超える人気シリーズを持つ。

■あらすじ

「必ずパートナーをつくること」唯一それだけが入居の条件である、一風変わった老人ホーム・ニーシャシャン。マダムと呼ばれる女性と横須賀という名の支配人が運営するそこには、元ヤクザや余命わずかの男、詐欺を働いてきた女など曲者ばかりが集まり、それぞれとペアになる犬たちも保健所から救われた犬や盲導犬になれなかった子など経緯は様々。居場所を求める犬と人が支え合い暮らす様に、読んで幸せな気持ちになるストーリー。


■本文

プロローグ

「こちらにおいで」と彼女は言った。
 わたしは意味がわからずうろたえた。
彼女が横たわるベッドのそばにわたしはいた。言葉の意味を知ろうにも、彼女は目を閉じたままで、表情からは何も読み取れない。
 やがて彼女は「カムヒア」とつぶやいた。
 意味はわかったが、もうじゅうぶん近くにいる。どうしたらよいかわからず、ベッドの周囲をうろうろしてみた。彼女はわたしを捜すようにうっすらと目を開けたが、まぶたを開けていることすらくたびれるようで、再び目を閉じた。
 ここにいるよと伝えるため、くーんと鼻を鳴らした。
 彼女は骨が浮き出た手でぽんぽんと布団を叩き、「カム」とつぶやくと軽く咳き込んだ。
 ようやく理解したわたしは、ベッドに飛び乗った。
 人間のベッドに上がるなんて初めてのことだが、躊躇ためらいはなかった。手を伸ばしている彼女に身を寄せて伏せる。彼女の細い腕がわたしの顎の下を通り、てのひらは肩に届いた。まるでパズルのようにわたしたちはぴたりとひとつになった。
 元気だった頃、彼女は小さなピースを合わせて絵をこしらえる「パズル」という遊びが好きだった。それに夢中になると、わたしはおいてけぼりにされたようで寂しかった。ある日、完成したばかりの絵を見ようと覗き込み、前足で触れてしまい、絵はテーブルから落ちた。ちょっぴり意地悪な気持ちもあった。
 落ちただけと思った絵は床でバラバラにくだけ散った。あれには驚いたし、彼女はきゃーっと叫んで、ひどく怒った。子どもみたいに地団駄を踏んで、「バカ、バカ」と叫んだ。冷静沈着な彼女の取り乱した姿は滑稽こっけいで、ちょっとおかしかった。
 彼女が怒ったのはあの時一度きりだ。わたしは二度とへまをしなかったし、彼女はほとんど冷静だった。
 あの頃よりもずいぶんと彼女は痩せ細り、体温が低くなっていた。あたためなければいけない。
「一緒にいてくれて、ありがとう」と彼女はつぶやいた。
 命令ではないと、理解した。ただこうしていればよいのだ。
 大好きな彼女に抱かれて、心が満たされた。時折りわたしの体はぶるぶると震えた。うれしいとこうなる。彼女はそのたびにふふっと、笑うように息をした。
 彼女の息はひと晩かけて浅くなっていった。途切れ途切れに彼女はつぶやいた。
「楽しかったね」
「わたしはくけど、あなたはここにいなさい」
「ここにいて、新しい友だちと」
 わたしにはわからない言葉がまるで音楽のように流れた。
 彼女が命じる声が好きだ。それはいつもわたしの歩く道を明るく照らす。
 命令ではない声も好きだ。それは優しい世界を形作り、わたしを包む。
 彼女の匂いは最高だ。それは信頼と愛でわたしを満たす。
 朝日が差し込む頃、彼女はふーっと長く息を吐き、そのあと吸わなかった。いつまでたっても吸わなかった。そして徐々に冷たくなっていった。しばらくのあいだ彼女は柔らかかった。わたしは彼女に抱かれたままだった。
 わたしは幸せだった。彼女のそばにいられて幸せだった。

 彼女は木の箱に入って、車に乗せられた。
 丘の上でみなが見送った。なぜか泣いている人もいた。
 車はゆっくりと動き始めた。
 わたしは耳を澄ませた。彼女の「カムヒア」を待ちながら、追いかけたい衝動をなんとかこらえた。「カムヒア」が聞こえたらダッシュするつもりで身構えていた。今か今かと耳を澄ませた。車は坂を下り始めた。わたしは追うと決め、身を屈めた。その時だ。
「サクラ、ステイ」
 彼が横にきてわたしに命じた。
 ここにいろ、サクラ。ここにいるんだ。
 わたしを彼女に会わせてくれた男がしずかに命じる。
「サクラ、ステイ」
 その声はやがて彼女の愛しい声と重なった。
 あなたはここにいなさい。
 新しい道を照らすように、その声はわたしの心に響いた。
 車は見えなくなり、声だけが響き続けた。

サクラ

 
正丸しょうまる銀太ぎんたは十二年ぶりに門を出た。
 曇り空なのにまぶしく感じて眼を細める。
 広い。空も地上も広く、背が縮まったような気がした。
 目の前には太い国道が走っていて、大型トラックやワゴン車が行き交っている。
 迎えがあるかもという淡い期待は消えた。
 果てしない自由に目がくらむ。一分先の未来も見えない。
 激しく行き交う色とりどりの車両たち。妙にカラフルに見える。門のナカにはなかった赤青黄色。どれも忙しそうだ。
 みなやるべきことがあり、それに取り組んでいるのだ。
 ああ、誰かに命じられたい。何でもいい。「逆立ちしろ」と言われたら首の骨を折る覚悟でやるし、「国道に飛び込め」と言われたら、すぐさま身を投げる。それほど何をしたらよいかわからないのだ。
 門は出た。この先どうする?
 ジャンパーの内ポケットには運転免許証と茶封筒に入った七万二千円。ズボンのポケットには小銭が少々。それが持っているもののすべてだ。
 免許証の写真は二十年前のもので、頭髪はまだ黒かった。免許はその後更新したものの、十二年前に取り上げられ、手元に残ったのはこの一枚。有効期限はとうに切れている。大型、中型、準中型、普通、大特、原付等々、すべての車両を運転できるフルビット免許で、無事故無違反、ゴールド免許だ。速度違反も路上駐車も信号無視すらやったことがない律儀な性格だ。
 目がかすみ、ふらついた。呼吸するのを忘れていた。人としての基本を失いかけている。まずは呼吸。できることから始めなければ。白髪をかきむしり、たるんだ頰を両手で叩く。しっかりしろ。目を覚ませ。
 昔から金にも人にも恵まれなかった。
 運がないと嘆く人は、正丸銀太を見るといい。「自分はマシだ」と思えるだろう。
 正丸はない・・人生を静かに受け入れて生きてきた。いつからだろう、目に見えない宝箱を抱えるようになり、その中にさまざまなものをしまってきた。
 たとえば小学三年生の時。
 授業が終わって帰る時刻に雨が降り始めた。記録に残るほどのすさまじい雨だ。傘を持って迎えにくる保護者を同級生たちが待つ間、正丸も二階の教室の窓から校庭を見下ろしていた。正門からぞろぞろ入ってくる傘をさしたおとなたち。同級生たちは親の傘を見つけて、「来た!」と教室から飛び出して行く。親や祖父母、叔父や叔母、身内の迎えにみな嬉々として教室を飛び出して行く。
 正丸は教室に居続けた。そして最後のひとりになった。もちろん親を待っていた。宝箱には「傘を持って迎えにくる親」が入っていた。教室でひとり宝箱を抱えて、池と化してゆく運動場を見下ろしていた。下校のチャイムが鳴っても待ち続けた。
 そのうち教師がやってきた。
「正丸、傘がないのか」
「ある」と答えた。
 親はいないが傘はあるのだ。こういう時のために置き傘をするよう施設の先輩から教えられていた。それでもつい宝箱に入れてしまうのだ。人並みの人生を。
 蓋を開ければからっぽなのに。
 今日という日も宝箱に入っていた。「おつとめご苦労さんと言われて車に乗り込む自分」が宝箱にあり、それを支えに十二年を生きた。
 こうなることはわかっていたはず。いつものことだ。
 さて、どうする?
 やはりもといたところへ戻るしかない。腹に力を込めてつぶやく。
「進め」
 ナカでは命じられて動くのが決まりだ。もう体に染み付いてしまっている。交差点に差し掛かると「左」とつぶやきながら曲がり、赤信号では「止まれ」と自分に命じた。
 バス停が目に入ったが、通り過ぎた。
 乗り方を忘れてしまったし、金はなるべく使いたくない。
 歩きながら口実を考えた。十二年ぶりに顔を出す口実だ。思い巡らす時間はたっぷりとある。たどりつくのに六時間はかかるだろう。
 一時間も経たずに息が切れ、老いを感じた。二時間歩くとふくらはぎがこわばり、つりそうになる。壊れかけたベンチでしばし休んだ。白髪が汗でべとつく。
 ふと、「挨拶をしに寄らせていただきました」という言葉を見つけた。
 本部長は「おつとめご苦労」と言い、事務局長が「まあ座れ」と言い、組長は「おかえり」と酒を振舞ってくれる。宝箱には再び夢が詰まり始める。
 生気が戻り、立ち上がって歩き始める。
「つとめを終えたら格好をつけてやる」と本部長に言われていた。
 正丸より三十も若い青木は三年のつとめを終えてワンルームマンションを与えられた。自分は十二年だから戸建が用意されているかもしれない。
 そもそも引き受けるしか道はなかった。行動を選べる立場になかった。思えば、ナカに入る前から命じられて動く人生を送ってきた。
 七時間歩き続け、ようやく懐かしい繁華街が見えてきた。
 左右をうかがう。以前と様子が違う。十二年前は目つきの悪い人間が昼夜を問わずうろつく街だった。正丸もそのひとりだ。今はごく普通の身なりをした人間が歩いている。学生服を着た少年少女たちまでが笑いながら歩いているのだ。
 正丸は立ち止まり、周囲を見回す。迷ったのか?
 きゃんきゃん!
 びくっとする。
 きゃんきゃんきゃん!
 犬だ。こちらを見上げて吠え続けている。今にも飛びかかる勢いだ。蹴りとばせば何十メートルも飛んで行きそうな華奢きゃしゃな犬。茶色い毛はカールして、黒いボタンのような目鼻がみっつ。吠えるぬいぐるみだ。
 きゃんきゃんきゃんきゃん!
「見つけたぞ! 前科一犯!」とでも言うように、吠え続けている。
 途方に暮れていると、柔らかい声がした。
「ごめんなさいね」
 犬のリードを握っている小柄な老婦人がこちらを見て微笑んでいる。藤色のスーツ、結い上げた白髪にちょこんと同色の帽子。異国の女王様のようだ。
 堅気の女の声を耳にするのは何年振りだろう?
 硬直していると、「あなた、お名前は?」と問われた。
「正丸銀太」
 とっさに答えてしまった。命じられると即応じる。遅れると罰則。それがナカの決まりだ。けれどここはソトだし、この名前はかつて新聞をにぎわせた。言わなければよかったと悔やんでいると、女王様は微笑んだ。
「正丸銀太さん。覚えやすい名前だこと」
 彼女は白い運動靴を履いている。ファッションにうとい正丸の目にも奇妙に映った。
 いけない。小指を隠すのを忘れていた。
 あわてて彼女に背を向け、逃げるように繁華街を駆け抜けた。堅気がいて、犬がいる。ソトは油断ならない。
 犬は苦手だ。犬という犬はなぜか正丸に吠えかかる。嚙み付かれたこともある。おそらく前世で犬を殺した。その報いで犬に嚙み殺されて生涯を閉じるのだろう。
 繁華街を抜けると、心当たりの場所に着いた。しかしそれらしき建物は見つからず、コインパーキングになっている。
 組はどこへ?
 城に見立てた化粧仕上げの屋根。あの威厳ある屋敷はどこへ消えた?
 夢を見ているのだろうか。
 十二年だと思っていたら、百年経っていた。
 自分は浦島太郎で、開けたのは宝箱ではなく玉手箱で、白髪のじじいになったのか?
 ぽつりと、脳天で音がした。
 雨だ。あっという間に激しくなり、コインパーキングは池となる。小三の時の豪雨を思い出す。待っていても迎えにくる傘はない。
 あの日から何も変わっていない。

 近くの河川敷で夜を明かすことにした。
 大きな橋の下でうずくまる。雨は止んだが、橋の下にいたかった。
 背筋に悪寒おかんがくすぶる。雨に打たれたのがいけなかった。濡れたジャンパーは絞って岩の上にかけてある。ポロシャツは無事だが羽織るものがない。三月の夜は容赦なく老身を冷やしてゆく。
 昔はここに住所不定の男たちがいて、トタンを張り合わせた家を作っていた。彼らの家には屋根がなかった。橋桁が天井となり、雨をしのいでいた。住所不定になって、気づいた。橋の下を選ぶのは雨を凌ぐだけが目的ではないと。
 ハズレものたちは星が苦手だ。監視されているようで落ち着かない。「おてんとさまに顔向けできない」という言葉があるが、星にだって顔向けできない。星を遮る橋桁は身を隠したい思いを助けてくれる。
 悪寒が急速に増してきた。歯がガチガチと音を立てる。今朝飲んだあたたかい味噌汁が懐かしい。釈放前指導という制度により、三日間個室に移され、自分で湯を沸かしたり、ひとりで飯を作る訓練を受ける。正丸は毎日味噌汁を作った。刑務官に手際がよいと褒められた。自分の食うものは自分で作る。正丸にとっては若い頃から当たり前にやってきた生活スタイルだ。
 悪寒を通り越すと、ほてってきた。発熱したようだ。横になってうずくまる。激しい頭痛にみまわれる。こめかみが締め付けられる。
 草をむしって口に入れる。青臭さが口内に広がる。嚙み締めると舌がぴりぴりし、その刺激で頭痛が和らぐ。しばらくすると草を吐き出し、さらにむしって口に入れる。草についた砂が銀歯に当たり、じゃりりと音がする。そのうち意識を失った。

「もしもーし」
 肩を揺すられて目が覚めた。まぶしい。川面に太陽が反射して強烈な光を放っている。
「生きてますよねえ」
 切れ長の大きな目をした青年がひざまずいてこちらを見ている。
 頭痛は消えていた。半身を起こすと、体の節々は痛いが寒気はおさまっている。顔についた砂利を払いながら気づいた。小指を隠すのを忘れていた。
背後を見る。昨夜岩に干したジャンパーが消えている。
 七万二千円!
 正丸は跳ねるように立ち上がった。途端、めまいがしてよろける。
 手首をつかまれた。
 青年が正丸の体を支えた。長くてひんやりとした指が正丸の手首にからみつき、片方の腕で正丸の胴を抱えている。機敏だし慣れた手つきである。ひょろりとして筋肉などなさそうに見えた青年は、正丸よりはるかに体が大きく、握力も強い。抵抗しても逃げられないと観念した。青年は耳元でささやく。
「危ないですよう」
 語尾が長く、ふわりと消えるような話し方だ。
 ただの通行人ではなさそうだ。正丸の指を見てもびびらない。小指の第一関節から先がない。両手ともだ。たいていの人間は正丸の指を見ると距離を取ろうとするが、青年は平気な顔だ。
「正丸銀太さんですよねえ」
 気味が悪い。警察関係者だろうか。それとも組の対抗勢力?
 青年からは堅気の匂いがする。前日に出会った老婦人と似た匂いだ。正丸は犬のように鼻をひくつかせた。彼は何者だ?

 数分後には車に揺られていた。
 青年が運転する大型高級セダンの後部座席に座り、ジャンパーを握りしめている。盗まれたと思ったジャンパーは青年が保管しており、内ポケットの七万二千円はしめっているが無事で、名前は免許証で確認したのだとわかった。
 乗車を勧められた時に、間髪入れず「ハイ」と答えた。ナカの癖だ。こうなったら青年の言う通りにすると決めた。腕っ節の強いほうに従うのは弱者の必然である。
 青年は行き先を説明しなかった。その点は警察車両のほうが親切だ。留置場から拘置所へ移送されるとき、裁判所へ向かう時、刑務所に入る時、すべて事前に説明があった。聞かされたってノーとは言えない。無駄だとうんざりしていたが、あれは精神の安定につながっていたのだと気づかされた。
 どこへ連れていかれるのか、これから何が待っているのか、不安で吐きそうになる。
 喉が渇いている。ひと晩でものすごい汗をかいた。体内は干ばつ状態である。乗車の際に青年から渡されたペットボトルの水を飲みたいのだが、何か得体のしれないものが仕込まれているかもしれず、口をつけられずにいる。
 周囲はしだいに緑が濃くなってゆく。
 長い坂を延々と登ってゆく。ふと、死刑台という言葉が浮かんだ。死刑囚は刑の執行前に牧師に会えると聞いたことがある。
「水分はったほうがいいですよ」
 青年は気遣うように言った。牧師の言葉に思えた。キャップをはずしておそるおそる口をつけてみる。気がつくと全部を飲み干していた。うまい。急に何もかもが大丈夫な気がしてきた。
 やがてなだらかな丘の上に大きな白い建物が見え始めた。ホテルのようなたたずまいで、二階建て。敷地内には整えられた花壇があり、周囲は緑の木々で囲まれている。
「着きましたよ。降りてください」
「ハイ」
 ただもう、青年のあとに続いた。足跡をたどるように歩幅まで合わせた。正面玄関は自動ドアで、土足のまま中へ入る。入ってすぐのロビーは広くてあちらこちらにソファや椅子があり、人々がくつろいでいた。みな老けている。ナカと違って男と女が同じスペースにいる。そしてみな犬といる。足元に大型犬が座っていたり、膝の上に小型犬がいたりする。
 犬と泊まれるホテルなのだろうか?
 長い廊下を歩いてゆく。両脇にいくつものドアがあり、表札のようなものが目に付く。「ヘレン」とか、「ニーチェ」、「ノア」、「マユツバ」、わけがわからない。
 和風旅館は部屋番号ではなく名前が付いていたりするものだ。錆びついたソトの記憶を引っ張り出してみる。
 つきあたりの部屋のドアはほかと違っていて、どっしりとしている。
 青年がノックした。
「横須賀{よこすか}です。正丸さんをお連れしました」
「お入りなさい」
 どこかで聞いた覚えのある声だと思いつつ、青年とともに入室した。
 真正面に大きな出窓があり、絵のように綺麗な緑の風景が見える。両壁は本棚になっており、書物がみっしりと詰まっている。
 窓を背に老婦人がデスクに向かって分厚い書物を開いていた。窓もデスクも本も巨大に見える。老婦人が小さいのだ。彼女は白髪を結い上げており、そばの椅子には茶色い小さな犬が座っている。きゃんきゃん吠えるぬいぐるみだ。今は電池が切れたようにおとなしい。
 昨日の堅気の女だ。
 正丸はシマッタと思った。あのとき自分はルールを犯したのだ。昔と違って、あそこは堅気のシマであり、断りもせずに侵入したのでつかまったのだろう。
 おそらく罰せられる。
 老婦人は丸くて小さな老眼鏡を小鼻にずらして、優し気な目でこちらを見た。
「ごきげんいかが?」
「ハイ」
「ここにいるでしょ?」
 正丸は意味がわからず答えにきゅうした。何がいるのだろう? 
 老婦人は畳み掛けるように言う。
「屋根も壁もあるし、いいと思うの。どうかしら?」
 とりあえず「ハイ」と答えておく。ここ・・ってどこだろう?
 老婦人は「ほらね」と言って、青年を見た。
「このひとは大丈夫。ベスが選んだのですから」
「おっしゃる通りです、マダム」と青年は言った。
「あとは横須賀に任せた。正丸さん、彼がここの支配人だから、よく言うことを聞いてね」
「ハイ」と正丸は答えた。
 ひょっとして、ひょっとするとだが、雇ってもらえるのだろうか。
 いや、まさか、そんなうまい話はなかろうと、宝箱には入れなかった。

 横須賀に連れて行かれたのは彼の執務室だ。
 すべてがキャビネットの中にあるらしく、ボールペン一本すら見えるところに放置されていない。簡素なスチール製のデスクの上にはパソコンだけがある。メモ帳もない。紙きれひとつない。几帳面な性格なのかもしれない。ものが散らかっている状態が苦手な正丸は落ち着きを取り戻した。
 部屋の中央の椅子に座るように言われ、腰を下ろす。横須賀はデスクに向かいパソコンを操作しながら話しかけてきた。
「少し質問しますが、よろしいですか?」
「ハイ」
「お名前は正丸銀太さん」
「ハイ」
「生年月日は免許証で確認しました。現在七十二歳で間違いないですね?」
「ハイ」
「住所の変更はありませんか?」
「住所?」
「免許証に書かれている現住所です」
「そこはもう……」
 ないのだ。パーキングになってしまったのだ。じゃあどこにいたのですかと聞かれると身構えたが、質問は先へ進んだ。
「アレルギーはありますか?」
「イイエ」
「治療中の病気はありますか?」
「イイエ」
「常用している薬はありますか?」
「イイエ」
「歩行に問題はありますか?」
「イイエ」
「では施設の説明に入ります」
 質問終了? 正丸はとまどった。小指の先がない自分をホテルの使用人に雇ってもらえるのはありがたいが、過去がバレれば即クビだ。
「部屋は一階にあり、全室個室です。トイレは各部屋にありますが、風呂は共同浴場を使ってください。男女で分かれています。性同一性障害などの理由でひとりで入浴したい方には職員用のシャワー室をご案内しますが、あまり利用する方はいません。共同浴場は広くて気持ちがいいので、みなさん時間をずらすなどしてご利用いただいています。朝六時から夜零時まで入れます。のちほど場所をご案内しますね。食堂はロビーのすぐ隣にあります。個室に小さなキッチンが付いていますので、自炊もできます。食材は食堂の厨房で分けてもらえます。買い物は坂の下に商店街がありますが、かなり距離がありますし、お元気な方でもあの坂は辛いと思います。店の人が定期的に食材や雑貨を搬入するので、その際にお金を渡して注文しておくと、次の搬入時に届けてくれます。ここまで何か質問はありますか?」
 何が何だかわからず、手を上げかけてひっこめた。
 横須賀は「なんでも聞いてくださいねえ」と言う。時々、幼子に言ってきかせるように、語尾が伸びる。はじめは馬鹿にされたような気がしたが、今はそのおかげで「敵ではない」と思えて、「質問してみよう」という気になった。
「わたしは運転ができません」
「それは免許証で確認しました。更新していませんね」
「取るべきですか?」
「取得希望ですか? 失礼ですが、ジャケットのポケットを拝見しました。免許の再取得には足らないでしょう」
「でも無免許では運転できません」
「運転したいのですか?」
「あ、すみません、てっきり運転手かと思って」
 正丸は恥じ入った。考えてみると、運転手というのは、かなりの信頼関係がないとできない職業だ。
「清掃員ですか。だったら免許は要りませんね。すみません、変なこと聞きまして」
「清掃スタッフは足りています」
「じゃ、このホテルでわたしはどんな仕事を?」
 横須賀は微笑んだ。
「ここはホテルではないし、あなたを雇うつもりはありません」
「え?」
「ここは家で、あなたはここで暮らすのです」
「はあ?」
「わかりにくいですか? 家です。ホームです。まだわかりませんか? では、ええと、そうだ、老人ホームとでも言えば、感じがつかめるでしょうか。年齢制限はありませんが、入居者は高齢者ばかりで」
 正丸は青ざめた。
「金はない!」
「入居金はかかりませんよ」
 うそつけ、と正丸は心の中で毒づいた。
 ナカでは高齢化が進み、みな将来を案じて老人ホームの話をしていた。莫大ばくだいな入居金がかかると聞いている。家が買えるほどの金がかかるとも聞いた。ソトで堅気たちは老人ホームに入るためにせっせと貯金をしていると聞く。自分らはナカにいるあいだ生活費がかからないが、作業報酬は時給三十円程度。十二年ナカにいて七万ちょっとしか稼げなかった。老人ホームは夢のまた夢だし、そもそも、老人から金を巻き上げるなんて詐欺みたいだと、みなが憤慨ふんがいしていた。殺人や窃盗、放火や傷害などの罪でナカに閉じ込められているのに、「詐欺みたいだ」とは失笑ものだが、罪を犯すものほど被害感情が強いのだ。
 マダムと横須賀が組んで、自分を強引に入居させて金を騙し取ろうとしているのだろうか。しかしまてよ。所持金は七万二千円。詐欺師が狙う金額か? 
 横須賀は微笑んでいる。
「ご心配なく。入居にお金はいただきません。食堂のご利用もすべて無料です。後見人は不要です。ただし条件がひとつあって」
 横須賀は大きな目で正丸を見据え、もったいぶるように口を閉じた。
 正丸は戦慄せんりつした。やはり何かウラがあるのだ。真っ先に頭に浮かんだのは臓器提供だ。ウラ社会では金に困ると血を売ったり、臓器を売ったりする。金のない人間に話を持ちかけ、臓器を提供させ、仲介手数料を組の資金にする。組ではそういうことを実際してきた。暴対法でみかじめ料を取れなくなって、資金繰りに苦労し、悪質さを肥大させて生き残りを計っていたのだ。
 いや、まてよ。臓器は老人のではダメだ。売れないのだ。
 自分は狙われる資格がない人間だ。詐欺にあうにも資格がいるのだと、正丸は目がさめる思いがした。
 いまや何を恐れることがある? もう怖いものなどないはずだ。吠える犬以外、恐れることなどない。
 横須賀は口元をてのひらで隠し、ひとつ大きなあくびをすると、「すみません、一睡もしていなくて」と頭をかいた。もったいぶったわけではなく、あくびをこらえていただけのようだ。彼はようやく条件を提示した。
「一匹の犬と暮らしてもらいます」
「え?」
「犬と同居するのが条件です」
「犬?」
「食事を一日二回、糞尿の始末、散歩は一日二回。正丸さんは歩行に問題がないとおっしゃいましたね。一回につき一時間ほど歩いてください」
 犬と同居? 入居条件はそれだけ? 
 なんとも平和な条件だが、犬と聞いて不安になる。前世では犬を殺し、現世では犬に嚙まれて死ぬ予定だ。とにかく犬には嫌われている。そう思う。
「あなたと同居する犬はサクラという名前で、すでにここで暮らしています」
 サクラと聞いて、小さめのおだやかな犬を思い浮かべた。
「先日同居人が亡くなったため、後を引き継ぐ人を探していました。ちょっと難しいところがある犬で」と言ったあと、横須賀はいったん黙った。
 嚙むのか?
「でも、マダムが相性がいいと判断したので、だから、大丈夫でしょう」
 横須賀は自分に言い聞かせるような言い方をした。
 違う、と正丸は思った。マダムは「ベスが選んだ」と言ったのだ。マダムの判断ではなく、あのぬいぐるみが吠えただけだ。
 正丸は頭を整理してみた。
 ここに住む、タダで住む、犬と暮らす。
「金がかからないのか? ほんとに?」
「ここでは現金は不要です。働くのは自由ですが、犬を長時間居室に閉じ込めないでください。なるべく連れ出して、運動させたり、日光浴させてください。犬には社会性が必要なんです。それができる範囲で、働いていただいて結構です。翻訳の仕事をしている方もいますし、裏の畑で野菜作りをしている方もいます」
 ロビーにいた老人たちと犬を思い浮かべた。優雅なホテル滞在者に見えた。あの中に自分を置いてみる。どうもしっくりしない。
「腑に落ちないようでしたら、サクラの世話に雇われたと思ったらどうでしょう? サクラの世話をする代わりに、家賃や食費はただになると」
 正丸は半信半疑な思いで「ハイ」と答えた。

 連れて行かれた部屋の表札は「サクラ」となっていた。犬の名前が部屋の名前なのだ。 
 老人ホームではなく犬のホームで、老人は世話係。確かにそう考えると納得がいく。
 横須賀はドアを開け、「どうぞ中へ」と言う。入室するとぷんと獣の匂いがして、大きな瞳と目が合った。
「ジャーマンシェパードです。年齢は八歳の雌です」
 警察犬の代表選手ではないか! 
 足がすくむ。こんな犬と、同じ部屋に?
 横須賀が固い声で、「スタンド」と言うと、サクラは立ち上がった。
「パートナーの正丸さんだよ」
 横須賀はなぜだか緊張しているようだ。一方、サクラはさきほどからずっと正丸を注視し、かたときも目を離さない。正丸はというと、完全にびびっていた。サクラよりも横須賀の緊張が正丸をびびらせていた。
 しばらくして横須賀は言った。
「大丈夫のようですね」
 ほっとしたように微笑んでいる。何がどう大丈夫なのかかいもくわからないが、横須賀はもうぺらぺらと寝具やキッチンの説明を始めた。
 まるきり頭に入らない。こんなにでかい犬と、ちょっと難しいところがある・・・・・・・・・・・・・犬と、一緒に暮らす?
 横須賀は無情にも部屋から出て行き、サクラとふたりきりになってしまった。
 犬といるのに「ふたり」というのは変だが、サクラの存在感が大きいのだ。入ってきた時からずっと正丸を見つめている。視線に耐えられず目をそらすと、窓際のベッドが目に入った。純白の寝具が陽の光であたたかそうだ。急に疲れが押し寄せ、立っているのが辛くなった。汗臭い身で清潔なシーツを汚す気になれず、床に横たわり、目をつぶる。
 横須賀の説明の多くは左から右に流れてしまったが、サクラのことだけは頭に残った。
 ここへくる前は麻薬探知犬として税関で働いていた。
 律儀な性格で、人が命ずるままに動く。自分の身については危険回避本能が劣っているため、人間の配慮が必要だという。現役時代は優秀で、多くの密輸を防いだ。ある時、税関職員のミスでサクラは大量の麻薬を直接吸引してしまい、中毒症状で死にかけた。命はとりとめたが、心臓が弱り、引退となった。
 一年前にここに来て、元教員の女性とこの部屋で暮らした。彼女は職業柄命ずるのがじょうずで、よい組み合わせだったという。ひと月前に彼女は持病が悪化して亡くなったそうだ。その後、ほかの人間が引き継ごうとしたがサクラが嫌がったという。どういうふうに拒絶したのか具体的な説明はなかった。嚙み殺したわけではないと思うが、なんとなく不気味だ。
 正丸は目を開け、サクラを見た。まるで忠犬ハチ公のように律儀に座っている。殺気は感じられない。正丸を見ても吠えない。嚙まないし、襲ってこない。凶暴とはほど遠く感じられ、安堵した。
 女主人の死は理解できたのだろうか?
 命ずる時は英語でと横須賀は言っていた。ハイハイと答えておいたが、中一の英語力もない。シットとかステイとかカムとか、いくつか単語を並べられたが、全部同じに聞こえた。そもそも命ずるなど、正丸は大の苦手だ。
 上半身を起こして、おそるおそる「サクラ」と言ってみた。
 サクラはなんですかというふうにこちらを見る。小首を傾げている。なにか答えなくてはいけない気にもなる。
「俺は命じるのが苦手なんだ」
 サクラは小首を傾げたまま窺うような目をしている。
「英語も話せない。だから……まあ……勝手にやってくれ」
 サクラは理解できただろうか。表情はしょんぼりとして見えた。家族のような女性が急に消え、ムショ帰りの男がやってきたのだ。元教師と前科者。落差が大きすぎる。しょんぼりもするだろう。気の毒になり、すまないという気持ちが湧き起こった。
「おいで」と言ってみた。サクラは動かない。やはり英語じゃないとダメか。
 手まねきをしながら「おいで」と言ってみる。
 サクラはついと立ち上がり、正丸の表情を窺いながら近づいてきて、息がかかるほどの距離で座った。
 わからぬ言葉になんとか従おうとするサクラがいじらしい。
 サクラの頭部の毛に窓からの光が当たっている。大きな耳が上へとそそり立っている。瞳は茶色で、まっすぐに正丸を見つめる。まつ毛が濃い。
「一生懸命人の言うことを聞いてきたのに、俺と組まされるなんて割に合わねえよなあ」
 正丸はサクラの境遇に自分を重ねていた。
「お前のほうが頭がいいんだから、お前が言葉を覚えてくれないか」
 サクラはしょんぼりとした目で正丸を見つめ続けた。


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