【試し読み】井上荒野さん 『小説みたいなことは起こらない』
■あらすじ
■本文
羽多野健太
茉莉子さんが雪の写真を撮っている。
昨日から降り続いている雪はすでに五十センチ以上積もっていて、今朝は吹雪いてもいるので、窓からの眺めは白一色だ。何を撮ったのかわからない写真になりそうだ。そもそも、茉莉子さんは写真を撮ってどうするつもりなのだろう―見せる相手は僕しかいないのに。
僕は自分のカップに、コーヒーサーバーに残っているコーヒーを注ぎ足す。カップの三分の一ほどしかない。これを飲み干し、テーブルの上のものを片付けたら、朝食は終わってしまう。一日はまだたっぷり残っている。今日のように、数年ぶりの大雪に降り込められていれば、散歩に行くことも、買い物に出かけることもできず、一日の長さは何倍にも何十倍にも感じられるだろう。
茉莉子さんがこちらに戻ってきた。コーヒーサーバーに目をやり、あら、ないのねと言った。ごめん、もう一杯淹れようかと僕は言った。茉莉子さんは首を振る。椅子に座り、空のコーヒーカップの横に置いた本を開く。ガルシア・マルケスの『迷宮の将軍』だ。マルケスを全部再読することにしたのよと、数日前に言っていた。茉莉子さんは、ドストエフスキーを全部再読し、フォークナーを全部再読し、デュラスを全部再読し、マルケスを全部再読する。この五年ほどは再読ばかりで、新しい本はほとんど読まない。「乞御高評」のしおりが挟まれた新刊本が、最近はめったに送られてこないこともあるだろう。読んだことがある本を読む気力しかもうないのよ、と茉莉子さんは言う。半分くらい本当で、半分くらい噓だろうと僕は思う。茉莉子さんは小説家だ―小説家だった。再読をはじめた頃から、書いていない。
本を読む茉莉子さんを、僕は眺める。たぶん彼女は、僕が眺めていることを知っている。だから僕が立ち上がるまでは顔を上げない。だから僕は、安心して眺めることができる。ショートボブにした頭髪は真っ白で、年齢のわりには毛量がある。タートルネックに包まれた長い首。セーターはあかるいグレイのモヘアで、その上にバフ色のダウンベストを着ている。本のページを押さえている手は枯れ枝のようだ。茉莉子さんは先月八十歳になった。八十歳にしては若々しいのか、年齢相応なのか、老けているのか、僕にはわからない。僕が出会ったときには彼女はすでに老婆で、十年間で完璧な老婆になった、ということだけがたしかだ。
バン、という音がした。ヒーターが停止した音だ。茉莉子さんが顔を上げて僕を見た。ダイニングの天井のランプも消えていた。停電だ、と僕はげんなりしながら言った。ああ、と茉莉子さんは嘆きの声を上げた。僕は薪ストーブに薪を足すために、立ち上がった。山の中腹に夏の別荘として建てられたこの古家は、壁も床もすかすかで、冬はひどく寒い。薪ストーブだけでは到底暖まらないから、電気ヒーターを併用しているのだった。それが停電で使えないとなれば、電気が復旧するまでは着込むか、布団にくるまっているしかなさそうだ。大雪が降ると、この辺りはよく停電が起きる。ここ数年はそこまでの雪が降らなかったから、油断していた。前回の停電のとき、電気がなくても稼働する灯油ヒーターを買っておこうという話になったのだが、なんとなくそのままになっていた。次に大雪が降るときには私はもうこの世にいないわよ。茉莉子さんはそんなことも言っていたが、まだ生きている。
ドアをドンドンと叩く音がした。僕と茉莉子さんは顔を見合わせた。さらに叩く音。そうか、停電で呼び鈴が鳴らないのだ、と気づく。だが、こんな天気の日に誰が訪ねてくるというのだろう。管理人だろうか。この雪で、何か危機的な状況になっているのだろうか。僕が玄関へ出ていくと、やはり不安だったのだろう、茉莉子さんもついてきた。ドアを開けると、黒ずくめの男が立っていた。
「すみません、電話を貸していただけませんか。車が動かなくなってしまって……スマホも繫がらなくて……」
男は息を切らせながら言った。雪を漕ぎながら長い距離を歩いてきたのだろうか。ここは五百区画ほどを有する古い別荘地だが、この季節にやってくる人はほとんどいない。僕らのように定住している家は数えるほどだ。とりわけこの家があるのは別荘地の西の端の、標高が高い区域で、周囲にはもう誰も来ない朽ちかけた家が二軒あるだけだ。
「どちらへ向かっていらしたのですか。別荘地内のおたくですか」
茉莉子さんが聞いた。
「この先の鉱泉の近くに友人の家があるんです。ナビだとここを抜けられるはずなんですが、途中で道がひどいことになってきて。管理事務所を探して歩いていたら、煙突から煙が出ているのが見えたので……」
僕らは男を家に入れることにした。鉱泉に行こうとしてこの別荘地の中をさまよう人はときどきいるので、男の言うことは噓ではなさそうだった。とにかくドアを閉めないことには、雪と冷気が入り込んできて室温がいよいよ下がりそうだ。男は濡れそぼった革靴を脱ぎ、黒いダウンジャケットと黒いニットキャップも脱いで、そこに積もっていた雪を三和土に払い落とした。四十がらみの、短髪で細い目の男だった。僕は彼に、もう長い間使ったことがなかった客用スリッパを出した。スリッパは濡れるだろうが、茉莉子さんはぐっしょり濡れた靴下で家の中を歩きまわられたくないだろう。
雪明かりだけの室内は薄暗い。僕と茉莉子さんがそれぞれ持っているスマートフォンと男のそれとは、通信会社が違ったが、試してみると僕らのスマートフォンも繫がらなかった。雪で電波障害が起きているのだろう。家に据え置きの電話はまだ生きていた。その電話に、男は飢えた人のように駆け寄った。
「……あ、佐々木です。……いや、車が立ち往生しちまって。……うん、たぶん別荘地、避難させてもらってる。うん、そう、そうそう。え? あ、ちょっと待って」
男は僕らのほうを向いた。少しだけでも暖まったせいなのか、さっきよりも輪郭がはっきりして見える。
「すみません、ここは何ていう別荘地ですか」
僕が教えた。男はまた電話に戻った。友人がここまで迎えにくる、という話になっているようだ。男はまたこちらを向いた。
「すみません、電話番号を教えてもらってもいいですか」
さっきよりも、教えてくれて当然だという表情になっていた。僕と茉莉子さんは顔を見合わせたが、茉莉子さんが頷いたので、僕は教えた。男はそれを相手に伝え、間もなく電話を切った。
「チェーンをつけた四駆で、迎えに来てくれるそうです。その車に乗れる人が今いないので、帰ってきたら電話をかけ直すと。申し訳ないですが、しばらく待たせてもらってもいいでしょうか」
「かまいませんよ」
茉莉子さんが言った。
「コーヒー淹れてあげて。あ、私にもね」
それで、僕は立ち上がってキッチンへ行った。コーヒーカップを三つ載せたトレイを持って戻ると、男は茉莉子さんの斜め向かいに座っていた。僕は男の隣に座った(本来なら、男が座っている場所が僕の席だ)。
「佐々木さんとおっしゃるんですって」
その苗字はさっきの電話でも聞いていたが、男はあらためて自己紹介したのだろう。
「羽多野です」
と僕は会釈した。男―佐々木は会釈を返し、続く言葉を待つふうだったが、僕はそれだけしか言わなかった。佐々木はコーヒーを啜って、ややわざとらしい大きな吐息を漏らした。二口、三口と佐々木はコーヒーを飲んだ。
茉莉子さんも名乗っただろうか。名乗ったのは名前だろうか苗字だろうか、フルネームだろうか。いずれにしても佐々木は、僕らの関係を決めかねているだろう。僕は三十三歳だ。年回りとしては祖母と孫だが、そう聞いていいものかどうか迷っているのだろう。
「おふたりは、ずっとこの家にお住まいなんですか」
結局、彼はそう聞いた。
「ええ、そう。ずっと……」
茉莉子さんが答えた。そして、何か冗談を言ったとでもいうように、フフッ、と笑った。茉莉子さんの笑顔を見るのは久しぶりだった。出会った頃、彼女のことを「昔は結構きれいだったんだよね」と言う人たちがいたことを思い出した。
据え置きの電話が鳴り出した。あ、と佐々木が腰を浮かせかけたが、それより早く茉莉子さんが立ち上がった。
「はい。……あら、どうも。お久しぶり」
佐々木の友人ではなかったようだ。だが、誰だろう? 電話もメールもLINEも、最近のこの家には無縁のものだ。
「ありがとう。大丈夫。家にこもっていますから……ええ、ずっと家にいますから。え? あら、まあ……」
茉莉子さんはしばらく話していた。途中からこちらに背中を向けて、受話器を抱え込むような姿勢になったので、受け答えの声は聞き取りにくくなった。
「真行寺さんからだったわ」
戻ってくると茉莉子さんはそう言った。彼女の古い馴染みの編集者だ。僕はここへくる前、文学賞か何かのパーティで一度だけ会ったことがあった。
「この雪を心配してかけてきてくださったの。この辺りに大雪警報が出てるんですって。命にかかわるとかどうとか……。携帯にかけても繫がらないから、家の電話にかけてみたって。よく番号を覚えていたものね」
真行寺氏はとっくに定年退職しているはずだった。メールまではわからないが、僕が知るかぎり、ここ数年間に茉莉子さんに電話をかけてきたことはない。だが、今日はそれほどの雪ということなのかもしれない。
佐々木が自分の体に巻きつけるようにして腕を組んだ。寒くなってきたのだろう。ヒーターの熱が失われ、室温は次第に下がっている。
「お腹がお空きなんじゃありません?」
茉莉子さんが言った。寒さについては口にしないことにしたようだ。佐々木は頷いた。それで、早めの昼食にすることになり、僕は再びキッチンへ立った。ガスが生きているのは幸いだ。クラムチャウダーの缶詰を開け、冷凍してあるごはんでピラフめいたものを作ることにした。かつて茉莉子さんは食通で、料理も上手だったが、三年くらい前から次第に食べることへの関心が薄くなっていった。だから僕が作る料理(ともいえないもの)に、もう文句も注文もつけない。
フライパンを煽っているとき、キッチンの窓から、茉莉子さんが庭にいるのが見えた。玄関のクローゼットに掛けてある僕のダウンを羽織って、雪の中をヨタヨタと、家の横手のほうへ歩いていく。何をしているのだろう。料理をテーブルに運んでいるときに戻ってきた。「うちの車はとうてい無理ね」と呟いたが、それが庭にいた理由ということだろうか。髪の毛についていた雪が落ちて、テーブルクロスの上で小さな水滴になった。
佐々木はガツガツと食べた。そして人心地着くと、今度はそわそわしはじめた。折り返しの電話がいまだにかかってこないせいだろう。
友人というのは男性だろうか、女性だろうか。ひとりだろうか、家族がいるのだろうか。佐々木は、こんな雪の日に―昨日から「警報級の積雪」が予報されていたのに―どうして出かけてきたのだろう。どんな大切な用事があったというのか。そもそも彼はどこからやってきたのか。それを僕らに説明しようとしないのはおかしくはないか?
いや、僕らのほうも何も説明していないのだから、そのルールに彼も従っている、ということなのかもしれない。それにしてもここにいるのは、口に出すことができるのは名前だけ、という三人というわけか。佐々木が本名であるという保証もない。
「私は小説家なんですよ」
半分も減っていないピラフを、スプーンで防波堤のような形に整えていた茉莉子さんが、不意に言った。まるで僕の心の中を読んだように、彼女がそれを明かしたこと―何を明かすより先にそれを明かしたということに、僕は驚いた。
「そしてね、この人は編集者。あ、元編集者ね。今は私の秘書といったところ。最初は愛人でもありましたけど」
(つづく)
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