『ドライブイン・真夜中』書評|まなざしを、借りる(評者:荻上チキ)
そう遠くない、未来の「この国」。多くの飲食店では、店内接客が無人化されており、注文、調理、配膳などが、自動化された機械によって行われている。一方で、低価格な飲食店の中には、機械化されていない諸作業を、移民労働者が担う場合もある。「わたし」が働くドライブイン・レストランもまた、そのひとつである。
「わたし」が仕事を終え、帰宅しようとしたある日のこと。レストランの外で一匹の珍客と遭遇する。犬である。「わたし」は犬を一時保護し、その様子をSNSに投稿。そのことが、ちょっとした騒動になってしまう。
またある日、レストランに一人の刑事が訪れる。レストランに「テロ予告」があったため、対応に動いているのだという。「わたし」は戸惑いながらも、自分がおかれる境遇やこの世界について、思考をめぐらせる。
移民が「セイカツシャ」「ヒョウゲンシャ」のいずれかの生き方に区分されている「この国」で、セイカツシャである「わたし」は、冷徹かつ的確に、「この国」の人々を観察していく。移民の店員に横柄な態度をとりつつも、トレーをそのまま放置もせず、律儀にゴミを分別したうえで食器を返却する人々。「わたし」にはその姿が、滑稽にも、不思議にも映る。
本作で「わたし」は、饒舌に他人と会話を繰り広げるわけではない。生活のために淡々と働き続ける「わたし」が、本作ではなぜか妙なトラブルに巻き込まれつづけていくのだが、それでも他者と交わす言葉は最小限である。
人は、「言葉が拙い人」「言葉数が少ない人」と見ると、一種の幼さや未熟さ、あるいは能力の低さや親近感の低さなどを見出しがちだ。「この国の言葉が拙い外国人」に対しても、まさにそうである。だが、音声言語や文字言語が拙く見えても、その人の母語や心内言語が、拙かったり劣っていたり、幼かったりするということにはならない。
「わたし」の思考の内側には、言葉が豊富に溢れている。この「わたし」の視線から見える世界に触れることで、読者は「わたし」のような移民・セイカツシャの暮らす「この国」の歪さを、新たな角度から見つめなおすことになる。
レストランの客が、機械に接するようなぞんざいさで店員に接する時も、「わたし」はその人の振る舞いについて、深く観察し、描写する。作者・高山羽根子の突出した観察力と表現力が、「わたし」に憑依することで、その凄みは極限に至る。
「近未来を舞台にしたディストピア小説」である本書は、すでに移民労働者抜きでは成立し得ないこの社会の実相を前提にしたうえで、「他者から見える景色」がいかに奥深く、ユーモラスであるかを追体験させる。ページをめくり、もっと描写を追いたい——。その感覚は、他者の言葉への渇望のようでもある。
本作は、遠い未来の話でも、よその国の話でもない。あなたの立っている「その国」と、地続きの物語。読後に見た「その国」がどう映るか、その変化も含めて、ひとつの物語なのかもしれない。
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