見出し画像

オンリーワンよりワンオブゼムでありたい

「君は頭はいいね。でも全く個性的でなくてつまらないよ。他の人はこんなに魅力的だけど君は面白く無いよね」と「君は頭はよく無いよね。ただ君はとても個性的なかけがえの無い存在だよ。知識は無いけれど人間としての魅力は詰まってるよ」であったら、救いがあるのは後者であるだろう。

「個性は素晴らしい、偏差値教育には意味がない」一見素晴らしい。

けれど個性の追求が最上の価値である学校の行き着く先はアーティストの徹底的な神格化だ。クリエイティブでない人とは話す価値がない。平然とその学校では言われていた。アーティスト的素質を軽視している学校があるというのは事実であろう。学校はまだまだ多様な個性全てに対応できるキャパシティーはないのだろう。何かを0から作り出すことはとても素晴らしいことなんだということに異論はない。だがアーティスト以外に価値を見出さないということは進歩的な考えだと一途に信じ続けていいのだろうか。「公務員になるくらいなら死んだ方がマシなんだぞ」先生によくそう言われていた。公務員なんてのは創造的な人が生きる社会に奉仕するだけの存在で公務員をやっている個人に価値はないんだと。

テストの結果をランキング付けするという既存の教育が子供を傷つけてきたという主張のもと、テストや模擬試験は一切行われなかった。だが人は必然的に競争を求めてしまう生き物だ。テストによるナンバーワンを目指す競争が行われない結果、水面下では子供達によるオンリーワンを目指す熱烈な競争が繰り広げられていた。まず何より重要視されていたのは「顔」だ。結局は一番単純な「かっこいいかかっこ悪いか」「可愛いか可愛くないか」の競争になるのだ。「かっこ悪い」とされた僕のあだ名は「新平民」と「アイヌの土人」だった。(新平民出身の人と北海道の人に対して本当に失礼だと思う)そして次は親が有名人であるかそうでないかだ。皆が皆どうすれば個性的だと思われるかと逡巡し、妬み、憎しみ合っていた。大人は子供達の「個性」の競争に気づいていたのだろうか。「人と違うこと」の行き着く先は犯罪であった。窃盗を自慢する男子をみんながすごいともてはやすのに僕はもうついていけなくなった。

個性的でない自分はお天道様の下を歩いちゃいけないのかな。そう思っていた。

「個性的では無い」ということの改善の仕方はとても不明確でそれを欠点として捉えて対策するというのはとても辛いことだ。「勉強はできるけど面白みが無い」と説教されたら、じゃあ死のうかとなるのも納得ができる。

「個性的でない、つまらない」ということを直そうとした。いけないことだと思った。深夜にお笑い芸人のトーク番組やラヂオを聞いてそれをひたすらにノートに書き写した。話し方のテンポを真似て研究した。しかし結局それは「勉強」だった。何も解決していない。面白くなるための方法をつまらない「勉強」で克服しようとしている時点で個性の競争からは落第していたのだ。

僕の友人で同じく勉強ができる子がいた。自殺した。学校は勉強をしなきゃいけないという脅迫観念で自殺したんだ勉強が彼を殺したというけれど彼を殺したのは個性だ。

「勉強をしなさい」という呪縛がしんどいという子がいるのもわかる。きっと僕が経験したことのない辛い思いを感じているのだと思う。ただ勉強しなさいへの反対意見はメディアやネットに溢れていて励まされる言葉も多いが「個性的であれ」は比較的に手放しで賛同されているように感じる。ただ絶対にこの「個性」の呪縛に苦しんでいる子供は今もどこかにいると思う。

個性こそ尊い、勉強ができることには意味がないと唱えることは進歩的だ、リベラルだということでまとめられてしまうけど本当にそうであろうか。

「個性は尊い」というのは正しい。僕もそう思う。ただどんな人格者であれ自分の意見を主張する時はその主張を補強するために対抗するものを下げることをしてしまう。「個性こそ尊ばれるべき、なぜなら勉強できたとしてもその人格には欠点がある。東大卒の腐敗した政治家を見てみろ。」というように

「個性は尊い」わかるんだ。わかるんだけどもそれを殊更に強調するのは残酷なことだ。「勉強より個性の方が大事だ」に反論できる人なんてこの世にいるのかと思う。少なくとも僕にはその術はなかった。だってそれはすごく正論だから。でもその正論、正しいからこそ言わないという選択肢もあるのではないかと今は思う。相手を追い込む可能性がある場合はどんなにその自分の主張が正しいと思っても口にだすことを我慢できるというのも大人である要素の一つだと思う。「俺の言っていることはリベラルで正しい、お前は間違っているんだ」と13、14の子供を追い詰めて死に至らしめて、自分と考えの違う子供が減ったとしてそれで本当に世界はよくなるのだろうか。

大学生になった今はそんな大人の言うことは気にするなと言える。関わってきた大人の母数が増えて中学の時の教師などその中の一人に成り下がったからだ。しかし中学生にとっての担任は親以外の大人、社会そのものだ。その大人に「つまらない、面白くない」と言われたらどうしても自分を改善したいと思うだろう。

蛭子能収さんが著書の中で「人は皆うまれた時点で他の人とは異なったかけがいのない存在なのだから無理にオンリーワンを目指す必要はない」と記しているが本当にその通りだと思う。「ただ生きていていい、キラキラする義務などない」というお笑い芸人の山田ルイ53世さんの言葉にもとても救われた。

もしタイムマシンがあるならば歴史を変えるといった大きなことではなくて、ただ15歳の当時の自分を抱きしめてあげたいと思う。抱きしめて「他の大人たちが認めてくれなくてもあなたはただそこにいるだけで唯一の存在である」と伝えてあげたい。そして「生きることを選択してくれてありがとう」とも言いたい。あの時の自分がギリギリのところで踏ん張っていてくれたから今の自分があるのだと思う。

どうか、どうか今を生きる次の世代が人の決めた「個性」の基準で命を落としませんように。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?