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Enoの公開日誌(2) Adieu à soi-même

みなさん、GWに突入しましたがいかがお過ごしでしょうか。私は授業準備や歌のイベントへの準備、そして博論の執筆の打ち合わせなどで何かと物入りな日々を送っています。

時系列が前後しますが、4月20日に知恩院の「ミッドナイト念仏」に参加してきました。前からその存在は知っていたのですが、なぜか日にちを間違えたり、コロナ期に入って中止していたりで、参加する機会がありませんでした。今回は妻がしっかりと予定を組んでくれたおかげで、ついに参加が叶ったわけです。

当日は19時半ごろに到着したのですが、然程待つことなく会場に入ることができました。既に場内(三門の2階)にはたくさんの人が一斉に木魚を叩いており、前あたりの位置に案内されました。

念仏のやり方としては、リード役のお坊さんが「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶ)と唱えており、それに合わせて自分の前にある座布団の上の木魚を叩きながら念仏を唱える、というのが基本スタイルです。

私は声のピッチとかハモリ方が気になる性分なので、最初の数秒はお坊さんの声を聞きながら入れそうな高さを模索していました。同じ高さは少し高過ぎたので最低音でハモるところに落ち着きました。普段は低音は出にくいのですが、その時はなぜか自然に出ていました。低い声とはわかるのですが、一体どうやって出ているのかがよくわかりませんでした。自分の意思で出しているというよりは、まるでハモるために体が振動している、という現象的な認識が先んじていました。

木魚の叩くリズム(ビート)についても、全体のビートを揃えるためのリード担当の巨大な木魚があるのですが、それまで揃っていた参加者のビートが、リード木魚のビートが少し遅くなっただけでバラバラと乱れ、そしてまた元のように収束する、という現象が何度かありました。

それからもう一つ、自分では木魚をかなり強く叩いていたのですが、自分の音を完全に見失う瞬間が何度も何度もありました。最終的にはどういう音が出ているかも気にならなくなって、リードの念仏に合わせてどうハモろうか、お坊さん達の呼吸に合わせて音程を変えてみようかなとか、呼吸や声質を工夫する方に意識がいっていました。

そんなことをやっているうちに、今度は自分の念仏の声が段々と聞こえ始め、しまいにはそれが自分の聴覚を支配する(簡単に言えば自分の声しか聞こえないような感覚)、というような現象もありました。

これらの諸現象が何を意味するのか正確にはわからないが、自分の木魚の音を見失うという現象においては、「自分の所為によって木魚が鳴るのだ」という自我ありきの思考から、「木魚の音がただある」という現象の認識あるいは観察のフェーズに移行した、と言えそうです。これはまるで、自分の所作を制御する「自我」が消えるというような体験でした。

ミッドナイト念仏における上記のような「没入感」は、単に物理的に声がかき消されているとか、宗教的トランス状態に入った、という心理的な作用ではなく、仏教的文脈からすれば「自我を滅して空とする」あくまで理性(般若)的体験をさせていただいた、と思っています。他の「ハモる」ということに関しても、音響的に調和された空間がもたらされるのであり、それが自我の作用ではなく自己身体の振動が共鳴しているという現象がただ在るのだということを認識している。さらに大きな木魚によってもたらされるズレも、参加者各人の持つ自我によってもたらされるものではなく、まるで稲穂が風に戦ぐかのような現象として捉えられるだろう、などと、そんなことを考えながら約1時間半木魚をガンガン叩いていたのですが、これは結構思惟が深まるので夜通しやっても行けるかも、と思いました。

このような念仏に限らず、大学の頃からやっている合唱においても同じように、集団の中での自我と他者の境界の消失を体験をすることがありました。もちろんステージに立つと「個人」が意識され、自分の声がわからないとか、響きが伝わってるのだろうか、と最初のうちは心配するのですが、最終的には「ただ曲が鳴っている」という現象が聴衆にとって見えるはずです。本来こうした現象が在るということが求められているのであり、本当に没入できている時には、「自分(達)の声が曲になっている」、というよりは「曲がそこに在る」という現象を観察することができる、というのが理想なのかもしれません。

実はこの話はまだ続きがあるのですが、長くなりそうなのでここで終わっておきます。
それではまた次回! 合掌。

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