身内の入院中に娯楽はどこまで許されるか――もう親孝行できない娘の備忘録・番外編

※これは「もう親孝行できない娘の備忘録」に付随する記事です。
※この記事単体だけでも分かる内容にしてあります。

兄弟の場合

2020年8月13日に父が脳挫傷で救急搬送され、植物状態になってからしばらく経った9月のある日のこと。兄弟のヒロキが週末に東京に行くと言い出した。何を言っているのだこいつは自分の父親が意識不明で入院していてまだバイタルも安定していない時に以前から予定していたとはいえ遊びに行くとはどういう了見なんだしかも行き先が毎日新型コロナの感染者数が3桁超えている東京なんだぞこれで感染して帰ってきたら母にも移る可能性が高いし母は毎日病院に見舞いに行っているのだから常在菌ですら命取りになりかねない今の父に感染したら一発アウトなんだぞそこ解って言ってるのか? あと父は個室じゃないんだ他の患者さんもいるんだハイリスクは父だけじゃないんだぞ院内感染起こしたらどう責任取るつもりなんだ?兄弟が言うには「いつ自分も父のようになるか分からないから、楽しめる時にやりたいことをやる」言いたいことは解らないでもないが人様に迷惑をかけている時点でそれはただの我が儘だというのがわからんのかお前は。それでも行くというのなら二週間ホテル暮らしだうちに帰ってくるな。と厳命したかったのだが、こんな時だからこそ家族で一緒に暮らしたいという母の願いに折れて、私は徹底消毒・除菌マンになったのだった。
具体的な内容を挙げると、

・朝晩の検温、咳をしているかのチェック、倦怠感がないかの確認・食事時に味覚障害が出てないかのチェック
・洗濯物は分けて洗濯・食器も分けて洗い、拭く布巾も別の物を使う
・入浴は当人が一番最後
・玄関、部屋、トイレ、冷蔵庫などのドアノブ、階段の手すり、トイレ、洗面所、脱衣所、ダイニングのテーブルとイスなどは濃度70%のアルコールを染みこませたキッチンペーパーでその都度拭き掃除
・当人不在時に当人の部屋へ入る際はまず除菌スプレーで空気中に吹きかける。その後エアコンをかけるか窓を開けて換気をする。
・仕方なく当人と同じ部屋に居ざるをえない時はもちろんマスク着用
・当人が居た場所はとにかく消毒か除菌をして換気。エアコンよりも換気。暑くても最低二十分は換気。
・衛生学的手洗いの徹底
・母は見舞いに行っても直接父に触れない。普段は手や足をさすったりしているそうなのだが我慢してもらう。

だいたい、上述のようなことを二週間徹底して行った。結果、誰も体調を崩さなかったし、父に異変は起こらなかった。ただこれは運が良かっただけだと思う。もし兄弟が感染してたら父は一発アウトだっただろう。
二週間生きた心地がしなかったし、手指はアルコールかぶれでボロボロになった。でも父が無事だったのだからこれくらい安いものだ。

私の場合

私も観劇やライブ鑑賞は趣味の一つなので、父がこうなる前にいくつか申し込んでいたイベントがあった。だが、ことごとくチケットが外れてしまっていた。このご時世なので倍率も高いし、何より開催される場所がほぼ東京なので、もし取れたとしても行けなかっただろう。縁がなかったのだ、行くなと言っているのだと己を納得させている。行きたかった博物館や美術館での展示会も、やはり開催地が東京なので諦めている。
未だに東京に行くのは怖い。私の友人はほぼ首都圏在住者なので、最後に会ったのは今年の一月だ。東京に行くのも躊躇するが、東京から来てもらうのもやはり躊躇してしまう。私の居住地もほぼ毎日感染者が出ているし、父や他の患者さんにもしものことがあったらと思うとゾッとする。
そして何より、行く気にならないのだ。if論だがコロナのことがなくても、行く気になれなかったかもしれない。
幸いいくつかの公演はネット配信をしてくれていたので、それを観たりはした。リアルタイムでは観られないので、ディレイ配信をしてくれた公演は本当にありがたかった。
友人に直接会えないことも、イベントに出かけられないことも、私が父のことにのめり込む要因だったのかもしれない。
毎日毎日、どこにいても何をしていても父のことを考えてしまっていて、どこか積極的治療をしてくれる病院はないのか色々探し回ったし、何かをきっかけに芋づる式に父のことを思い出して己の無力感に泣けてしまったり、自分でもだいぶ参ってるとは感じていたが、どうすることもできなかったし、どうする気にもならなかった。

悲しみと怒りと無力感と、そんな感情がない交ぜになって私を支配していたが、ある日ふと思ったのだ。

――いつまで、こんな生活が続くのだろう。

きっと母は毎日病院へ行く。病院が禁止しない限りは毎日行く。私は家で留守番をしながら家のことをする。そして兄弟は己の思うがままに振る舞うだろう。兄弟は父と折り合いが悪かったから。
私とて父と仲良し親子だったわけではない。今私を突き動かしているのは罪悪感や自己満足やエゴといったもので、決して綺麗な感情ではないのだ。

父は今も生きている。
二・三時間おきに体位交換をしてもらい、オムツを交換してもらい、食事を入れてもらい、体を洗ってもらう。植物状態だから己の意思を示さない。父が何を望んでいるのか、そもそも望むといった思考をする能力が残されているのか判らないが、それでも生きている。看護師さん、介護士さん、PTさん、OTさん、たくさんの方々のお世話になりながら父は生きている。
こんな父と、私達はこれからも生きていかなければならないのだ。
植物状態の人間の余命は人それぞれで、父があとどれくらいこの状態で生きるのか予測が付かない。
母も確実に年老いていくので、この先どうなるか判らない。
いつまでなのか、どこまでなのか。己の未来がかき消されてしまったようで、どこか呆然としたまま日々を過ごしている。

そんな折にふと、気分転換で好きなお芝居の映像を観たのだ。

「悲しみは今もこの胸に」

その作品を選んだのはほんの偶然で、確かちょっとクスッとしたかったのだと思う。
けれど、予期せず私の胸に刺さった。

「悲しみはあれ
 されど営みは続いていく。
 消えぬ悲しみを胸においたまま、(中略)俺達は日々を重ねていくんだ」

こういうことなんだな、と思った。
深い悲しみに支配されていても、変わらず日常はそこにあって、それを、生きていかなければならないのだと。
悲しい悲しいと、嘆いているだけでは駄目なのだ。
なぜならば、自分もまた生きているのだから。

そういうことか。
そういうことなんだな。
初見では普通に観ていたシーンに、思い切り泣かされてしまった。
私はフィクションでは泣くことはほとんどないのだけど、これは抉られた。
しばらく続きが観られないほど泣いていた。
つらいけど、身につまされるけど、とてもいいシーンだと思った。

私は弱い人間なので、まだ日常をちゃんと生きていくには時間がかかると思うが、そうできる日が来ると信じたい。
その時になったらきっと、自分が娯楽を楽しむことを許せるだろう。
父もきっと、それを願っていると思いたい。
泣き顔ではなく、笑顔で父に会いに行きたい。

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