負け犬の遠吠え 日露戦争4 旅順港を封鎖せよ
三国干渉でロシアが手に入れた「旅順港」は、遼東半島の先端の大連にあり、ロシアにとって喉から手が出るほど欲しがっていた「不凍港」でした。
旅順港は周囲を高地に囲まれた狭い湾の形状となっており、外海とは細い水路(旅順口)でつながっていました。
そして湾内に停泊する船舶は、高地を隔てた外海からは見えなくなるのです。
よって、旅順港のロシア海軍は、日本軍の攻撃を受けた時は湾内に引きこもる事が予想されていました。
そしてこの旅順港こそが、日露戦争の勝敗を左右する「鍵」になるのです。
日露戦争における日本の戦争目的は明確です。
「満州に居座るロシア軍を排除する事」
しかし戦場は海を越えた大陸です。
物資や人員を輸送するためには、「制海権の確保」が至上の命題となりました。
そのため、海上輸送を脅かす存在であるロシアの太平洋艦隊を無力化すべく、旅順へ先制攻撃を仕掛ける事になりました。
1904年2月8日、日本の連合艦隊は旅順港外に停泊中だったロシア艦隊に対し、魚雷による奇襲攻撃を仕掛けます。
これによって数隻の戦艦を航行不能に陥れる事に成功、攻撃した連合艦隊の駆逐艦は反撃を受ける前に即座に戦列を離れました。
この瞬間、20世紀初の近代国家同士の総力戦、「日露戦争」の火蓋が切って落とされたのです。
旅順口奇襲と同日、日本陸軍の先遣部隊を乗せた連合艦隊の輸送部隊が朝鮮半島の仁川に到着、陸軍を上陸させます。
そして仁川港に停泊していたロシア軍艦ヴァリャーグ、コレーエツの2隻に攻撃予告を行いました。
そして2隻のロシア軍艦は連合艦隊と交戦し、撃沈しました。
これを仁川沖海戦と呼びます。
旅順口奇襲と仁川沖海戦、これらの戦いが終わった2月10日、日本政府はロシアに対し宣戦布告を行いました。
仁川へ上陸した陸軍は、北上して朝鮮半島内のロシア軍を駆逐し、満州を目指します。
そして海軍はもっぱら旅順港攻略へ当たりました。
なぜ日本海軍は旅順攻略に固執したのでしょうか?ロシア海軍は世界最強と謳われた「バルチック艦隊」を保有しています。
このバルチック艦隊がバルト海を出港し、旅順の太平洋艦隊と合流すれば日本の連合艦隊は圧倒的に不利になるのです。
日本海軍の敗北は、海上輸送を頼りにする陸軍の敗北でもあります。
そのため、日本軍は早期に旅順を攻略する必要があったのです。
連合艦隊は、安全な旅順港内にたてこもるロシア艦隊に対して攻撃を仕掛けますが、一向に成果は上がりません。
そこで、幅273mしかない旅順口に、古い艦船を沈めて封鎖し、ロシア艦隊を無力化しようという作戦が練られました。
「旅順港閉塞作戦」です。
2月18日、「東郷平八郎司令長官」によって閉塞作戦の発令が出され、5隻の老朽船と77名の志願兵が参加する事になりました。
2月24日深夜、月明かりのない暗い海を閉塞船団が出発し、旅順口を目ざします。
ロシア軍の砲台からはサーチライトが照射されていました。
閉塞船団はそれを避けるように岸に沿って進み、旅順口へ突撃しますが、サーチライト照射を浴び、砲撃が加えられました。
攻撃を受けてしまった閉塞船団は湾口の手前で自沈せざるを得ず、旅順口を閉鎖するための十分な成果をあげる事はできませんでした。
この失敗によって閉塞作戦が明るみになってしまい、ロシア側の警戒は強まります。
しかしそれでも日本軍は3月27日、4隻の船団を率いて「第二次閉塞作戦」を決行しました。
最初に発見された1番船千代丸は砲撃を受けながらも前進し、湾口から100mの地点で自沈します。
福井丸は千代丸の前に出たところで雷撃を受け自沈する事になりました。
この時、福井丸を指揮していた「広瀬武夫少佐」は船外へ撤退の際、自爆用の火薬に点火すべく船倉へ向かった部下「杉野孫七上等兵曹」が戻って来ない事に気づき、自ら一人で船内に戻って艦内を捜索しました。
「杉野はどこだ」の呼びかけも虚しく、広瀬少佐が諦めて脱出用の船に移ろうとした時、敵の砲弾が広瀬少佐を直撃し、一欠片の肉片のみを残して消え去りました。
たった一人の部下も見殺しにする事などできなかった広瀬少佐は後に「軍神」として讃えられる事になります。
そしてこの作戦の翌日、旅順港に立てこもっていたはずの軍艦が港外に出ているのが確認されたため、旅順口がいまだ通行可能な事がわかり、第二次閉塞作戦は失敗だった事が判明します。
5月2日、12隻もの閉塞船団を用いた最大の閉塞作戦が計画されていましたが、天候不順によって中止となります。
しかし中止命令が行き渡らなかった8隻の艦が突入してしまい、結局、湾の手前で沈められてしまいました。
1000トン以上の船21隻を投じたこの作戦は、失敗に終わりました。
一方ロシアはついにバルチック艦隊の出動を決定、日本海軍は窮地に立たされます。
海軍は、陸からの旅順攻略を陸軍に要請しました。
日本軍は、「乃木希典大将」を司令官とする「第三軍」を結成します。日露戦争の舞台は海から陸へと移りました。