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負け犬の遠吠え 大東亜戦争6 ウェーク島の戦い

ウェーク島はハワイとフィリピンの中間地点にあり、アメリカ本土〜ハワイ〜フィリピンのラインを結ぶ重要拠点です。

日本にしてみれば、日本本土と、委任統治領のマーシャル諸島を結ぶ直線上に存在し、米軍基地が駐留するウェーク島は非常に邪魔な存在であり、開戦前から日本軍はウェーク島の攻略作戦を練っていました。

ウェーク.001

大東亜戦争の開戦間際、アメリカ軍は真珠湾に配備していた空母「エンタープライズ」をウェーク島に送り込み、戦闘機を配備させて日本軍の襲来に備えていました。

アメリカは「日本に開戦の意思がある」という事に、明確に気づいていたのです。

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1941年12月8日、開戦と同時に日本軍のウェーク島攻略が開始され、九六式陸上攻撃機34機による爆撃が行われました。

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この爆撃は高度450mで行われていたため、高度3600mを飛行して警戒に当たっていた4機のF4F戦闘機には全く気づかれませんでした。

この爆撃によって、ウェーク島の飛行場は大きな損害を被り、地上の8機のF4Fは大破させ、米兵23名が戦死しました。

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しかし米軍のウェーク島守備部隊の整備兵達は、傷ついた体に鞭を打って残存機体を整備し、迎撃体制を整えます。

その後も二度にわたり日本軍による爆撃が行われましたが、熾烈な対空砲火によって日本軍にも損害が出るようになりました。

12月10日夜、ウェーク島上陸作戦を開始しようとしますが、波が高すぎて延期せざるをえませんでした。

翌日早朝、日本軍は駆逐艦による艦砲射撃を行い、上陸するために再びウェーク島に接近します。

しかし、砲撃によって敵戦力を叩き潰したと思って油断していた日本軍に、ウェーク島の砲台が攻撃を始めました。

この砲撃によって駆逐艦「疾風」が轟沈します。

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修理や整備を終えた4機のF4Fも出撃してきたため、日本の駆逐艦隊は退避しますが、F4Fの執念の攻撃によって駆逐艦「如月」が撃沈しました。

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2隻の駆逐艦を失う「惨敗」を喫した日本軍は撤退し、上陸作戦は失敗に終わりましたが、F4Fも無傷ではなく、ウェーク島の守備戦力は壊滅状態に陥りました。

日本軍は12月21日に再びウェーク島へ出撃し、攻撃機による空襲を行いました。

翌日にも戦闘機6機、艦上攻撃機33機による空襲を行いましたが、ウェーク島に残った最後のF4F戦闘機2機による待ち伏せにあい、艦上攻撃機2機が撃墜されてしまいます。

そのうちの1機に搭乗していたのは、真珠湾攻撃の際に誘導機を務めた「水平爆撃の名手」と呼ばれた「金井昇」一等飛行兵曹でした。

金井兵曹は、4000mの高さから爆撃して全て命中させる事ができる腕前の持ち主で、空母蒼龍の艦長も、「蒼龍には世界一の爆撃手がいる」と誇りにしていたほどの人物でした。

真っ赤に染まった風防の中から、笑顔で手を振りながら海に落ちていく金井兵曹の姿を、味方の機が見ていました。

この直後に日本軍はF4Fを全て撃ち落とし、ウェーク島は空の守りを失いました。

日本軍は上陸を開始し、激戦の末、23日にはウェーク島を陥落させる事に成功します。

ウェーク島攻略戦は、2隻の駆逐艦を失い、450名以上の戦死者を出すという、非常に犠牲の大きな戦いとなりました。

大東亜戦争開始当初の中では、最も苦戦した戦場だと言えるでしょう。

ウェーク島の戦いでは1200名の捕虜が出たため、輸送船「新田丸」によって捕虜たちは上海へ送られる事になりました。

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日本軍は捕虜達全員に対し、船内取締規則を強く言い聞かせ、違反者は処分する方針を伝えたのですが、航行中に4回、捕虜が警備兵の拳銃を奪おうとする事件が発生します。

「反乱の恐れが大きくならないように処刑せよ」という軍令部の指示を受けた護送隊長の「斎藤利夫」中尉は、5名の捕虜に死刑を宣告して処刑し、遺体は米国旗で覆って水葬しました。

戦後、斎藤利夫はGHQにより戦犯として逮捕されそうになりますが、7年間も逃亡生活を続けたそうです。

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