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負け犬の遠吠え 明治維新20 武士の世の終焉


「明治6年の政変」というものがあります。


その事について、日本史Bの教科書において50%のシェアを誇る山川出版の「諸説 日本史」は、次のように説明しています。

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新政府は発足とともに朝鮮に国交樹立をもとめたが、当時鎖国政策をとっていた朝鮮は、日本の交渉態度を不満として拒絶したので、1873(明治6)年、西郷隆盛・板垣退助らが征韓論をとなえた。


中略西郷隆盛・板垣退助らは征韓論を唱えたが、大久保利通らの強い反対にあって挫折した。


(注)参議 西郷隆盛を朝鮮に派遣して開国をせまり、朝鮮政府が拒否した場合には武力行使をも辞さないという強硬論をとなえた。


しかし、岩倉使節に参加して帰国した大久保利通・木戸孝允らがこれに反対したので、西郷らの下野となった。 

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お読みいただければわかるように、あたかも西郷隆盛が朝鮮に対して一方的に、強引に軍事行動を起こそうとしているかのような説明が書かれています。


しかし、私にはこの内容が正確だとは思えません。


この明治6年の政変における「征韓論」は、後に日本が体験する日清戦争、日露戦争などをすべて「侵略戦争」に仕立てあげるための布石であり、自虐史観の形成に利用されているように感じます。


廃藩置県以降、明治新政府がどのような舵取りをしたのかを見直していく必要があると思います。


天地をひっくり返したとも言われる大改革「廃藩置県」を成功させ、中央集権化に目処をつけた明治政府は、外国へ目を向けました。


岩倉具視を団長とし、政府の要人を中心に留学生など107名で構成された「岩倉使節団」を結成し、明治4年から2年間に渡り欧米諸国を視察したのです。

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新政権発足から間もないこの時期に政府の首脳が2年間も国を空けるという事は、常識では考えられません。


逆にいえば、そうしなければならないほど、当時の世界の潮流は激しかったのでしょう。

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使節団の目的は、「現状視察」と「不平等条約の改正」が目的だったと言われています。


江戸末期に結ばれた通商条約によって日本は不利を被っており、「関税自主権の回復」「治外法権の撤廃」は明治政府にとっての悲願だったのです。


しかしこの「条約改正」ですが、彼らがどこまで本気だったのかは甚だ疑わしいものです。


彼らは行く先々で盛大な歓待を受けましたが、結局、欧米諸国は条約改正に関しては取り合ってくれませんでした。


何しろ条約改正に必要な「全権委任状」を持ってきていなかったのです。


大久保利通と伊東博文は慌てて日本に取りに帰りますが、そのために四ヶ月も費やしてしまいました。


治外法権に関しての欧米諸国の言い分としては、「近代化されていない野蛮な国に自国民を裁かせてなるものか」というところでしょう。

日本が平等条約を締結するには、憲法を制定し、法制度を確立させることが必須だったのです。


不平等条約の改正に関しては大した成果は得られませんでしたが、実際に他国との国力差を目の当たりにした事は大きな収穫でした。


天皇を君主とする日本国家は、共和制であるフランスやアメリカの国家体制よりも、立憲君主国家として力をつけていたドイツ帝国に共感できました。


これによって、日本の国づくりのイメージと具体的な方向性を打ち出す事ができたのです。


使節団が外遊する一方で、やはり国内では問題が起きていました。


岩倉や大久保利通は、日本を留守にする間は、西郷隆盛に政府を託しており、「留守の間は何もしないでくれ」と念をおしていたようですが、そんな事が可能であるほど時代の流れは甘くはありません。


国内から世界を見たときに、一番の脅威はロシア帝国の南下でした。


ロシアの日本に対する領土的野心は明らかで、実際にポサドニック号事件などを起こした過去があります。

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朝鮮半島国家の近代化は、ロシアの南下を防ぐことになります。


日本にとって、朝鮮に開国させて国交を結ぶ事は、外交上のみならず、国防面でも重要課題だったのです。


そこで日本政府は、明治新政権の発足を通知し、改めて国交を結ぶために李氏朝鮮と交渉しますが、日本の国書は突き返されてしまいました。


長らく「清」の属国であった朝鮮にとって、清の皇帝しか使ってはいけない(と朝鮮が勝手に思い込んでる)「皇」「勅」などの文字が日本からの国書に使われていたことが問題とされています。


日本の「天皇」の権威を認める事は、支那王朝の「皇帝」に服属する朝鮮にとっては受け入れられない事だったのでしょう。


日本側は説明と国書の書き直しまでしましたが、「日本人と関わった者は死刑」というお触れを出すなど埒があきません。


これを無礼だと憤った国内では、板垣退助を中心に朝鮮への派兵が論じられました。


これがいわゆる「征韓論」ですが、西郷隆盛は派兵に反対し、自らが大使として赴くと主張しました。


西郷の「遣韓論」は政府の決定となり、上奏までされましたが、明治天皇は、「外遊組が帰国した後に再度上奏するように」と却下されました。

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明治6年の9月に帰国した岩倉具視や大久保利通らは西郷の朝鮮派遣に反対。結局遣韓論は認められず、遣韓論賛成派は一斉に下野する事になりました。(明治6年の政変)

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ところで、明治政府は薩摩、長州、土佐、肥前の四藩士によってサポートされていましたが、薩摩藩の大久保利通の権限が強くなると、佐賀からの反発の声が大きくなって行きました。


明治6年の政変によって下野した佐賀藩士・江藤新平は、これらの士族の反発を抑えるために佐賀へ帰郷しますが、大久保利通はこれを「江藤新平が佐賀の士族と共に反旗を翻す」と解釈し、江頭がまだ佐賀に帰っていないのに「佐賀追討令」を出してしまいました。


こうして反乱の首謀者に仕立て上げられた江藤新平はやむなく出兵し「佐賀戦争」が起きますが、政府軍の近代兵器の前に平定され、江藤新平は処刑され晒し首になりました。

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大久保利通は江藤の首の写真を全国の県庁の壁に掛けさせたと言われています。


この佐賀戦争を皮切りに、全国で士族の反乱が起こり始めます。


「武士」は明治時代になると「士族」と呼ばれ、社会的な特権は剥奪されており、生活は困窮していました。


このような状況は新しい時代を築くために受け入れられ、士族はまだ武士としての誇りを捨ててはいませんでした。


しかし1876年に出された「廃刀令」「断髪令」によって士族は髷と刀を失い、武士としての魂を奪われる事になります。


「敬神党」は、幕末の思想家・林桜園の私塾「原道館」の門下生で作られた団体です。

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彼らは天皇中心の時代になった事で、神道に基づいた政治が行われると期待していましたが、外国に迎合する政府の姿勢に失望していました。


政府から派遣された熊本の県令、安岡良亮は彼らを手なずけようと士官を勧めましたが、彼らはそれを拒み、ただひたすら国の行く末を案じました。


熊本の神社のどこに行っても、神に祈っている彼らの姿があったそうです。


街には刀も刺さない丸坊主の男たちが行き交うようになり、敬神党は義挙を決意しました。刀や槍など日本古来の武器を持って立ち上がり、県庁などを襲撃しましたが、政府の鎮台軍によって鎮圧されました。

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この敬神党の戦いの三ヶ月後、呼応するかのように萩と秋月で士族が蜂起しましたが、いずれも鎮台軍によって制圧されます。

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西国で士族が動きが活発になる中、鹿児島に下野していた西郷隆盛は微動だにしませんでした。


西郷は私学校を設立し、職を失った士族が暮らしていけるように農業を行い、いざという時は日本のために戦える人材を育成しようと軍事教育をしていたのです。

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この動きを警戒していた大久保利通は、私学校に二十三名の密偵を放ち、西郷と私学校の生徒との分断を図りました。


そして、鹿児島の弾薬庫から武器を大阪へ運び出してしまったのです。


私学校の生徒は密偵を捕らえ、西郷暗殺の指示が出ていたことを知ります。


流石に西郷も私学校の生徒たちを抑えられなくなり、挙兵を決意しました。


しかし疑問なのは、決して戦下手ではない西郷が、なぜ熊本城を突っ切ろうとしたのか、です。


熊本城は薩摩からの北上を阻止するために作られた難攻不落の城です。


旧式の装備で落とせるはずもありませんし、西郷はそのことはよくわかっていたはずです。

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私が思うに、西郷は士族たちに「武士としてふさわしい死に場所」を与えたのではないでしょうか。


それとも本当に「第二の維新」を起こせると思って挙兵したのでしょうか。


いずれにせよ、西南戦争で西郷は自害し敗北します。


そして西郷の死より以降、日本国内では内戦が起きていません。


西郷の死を知った時、大久保利通は号泣しながら家の中をグルグル歩き回り「おはんの死とともに、新しか日本が生まれる」と呟いたと言います。


西南戦争の翌年に大久保利通は士族から暗殺されますが、その時も西郷からの手紙を離さずに持っていたと言われています。


西郷隆盛は自らの命を以て、士族の時代を終わらせたのです。


「明治維新」がいつからいつまでの出来事を指すのか、はっきりとした定義はありませんが、西南戦争の終わりを「明治維新」という一つの時代の区切りとさせていただきたいと思います。

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