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祖父が歩いた支那事変 〜杭州湾敵前上陸〜

8月に起こった第二次上海事変以降、上海では日本軍と国民党軍の戦闘が続いていました。

8月下旬には日本からの増援部隊が上海へ上陸しますが、敵兵力は既に30万に膨れ上がっていました。

クリーク(水路)を利用した敵陣地に日本軍は苦しみ、前進できずにいたのです。

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さらに敵軍の背後には更なる増援の気配があったため、参謀本部は主戦力を北支から中支へ変更することを決定し、祖父の部隊は北支から抽出されることになりました。

日本は支那での全面戦争など想定していなかったので、一気に増援を送ることができず、全てが後手に回っていたのです。

北支からの増援部隊は、上海を包囲する敵軍の背後をつくため、杭州湾に上陸することになりました。

十月二十四日、全部隊が石家荘に集結。

祖父達は行き先もわからぬまま列車に乗り、塘沽に到着しました。

港には船が待っており、縄梯子をブラリブラリと肝を冷やしながら乗船しました。

兵達は皆一様に「このまま内地に帰りたい」と願ったものですが、その願いは叶いそうにありません。

洋上は見渡す限りの御用船の大群で、周囲には巡洋艦、駆逐艦が警戒の任にあたっていました。

十月三十日、船上で冬服を支給されました。

出征以来、勇猛さを轟かせていたS場中尉(便衣兵の奇襲を鎮圧)は大男であるためサイズが合う軍服がなく、仕方なく裾をチョン切って着ていました。

ある日、「師団長命令、S場中尉は至急司令部へ来たれ」という信号がありました。

S場中尉は
「俺が軍服ばチョン切って着とるとば、閣下が見なさったばい。怒らるるかも知れんバイ」
と怯えていましたが、実際に行ってみると意気揚々として帰ってこられました。

「今度の敵前上陸はS場、頼むぞ」
と言われて上等のウィスキーを賜ったとの事でした。

祖父はこの話を聞いて「さあ、今度はいよいよ敵前上陸だ」と気を引き締めました。

戦友のY沢(歌が上手い同年兵)はどこからかすめてきたのか、小豆の缶詰を持っていました。

甲板の物陰で半分わけして、おいしいおいしいと食べた事は祖父にとって懐かしい思い出となりました。

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十一月五日、杭州湾上陸に先立ち、海軍による艦砲射撃が始まります。

聞きなれた陸軍の重砲は、ドーンと発射音がし、シュルシュルと弾道を描き、ドバーンと爆発するのですが、海軍の大砲はドンとドバーンが同時に聞こえるのです。

戦艦の主砲、三十センチ口径から繰り出される砲弾の威力は想像がつかぬ程でありました。

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これだけ叩いてもらえばもう安心と思ったのも束の間、意外にも敵の反撃は激しいものでした。

戦闘をする上に於ては、食糧は二の次にしても弾薬は必要です。

祖父は余分なものは全て船上に残し、弾薬を二発身体に巻き付けました。

上陸用船艇に乗り込み、敵弾がピュウンピュウンと飛び交うなか、工兵の運転で海岸めがけて進みます。

しかしまだ海岸の浅瀬にもつかぬのに、工兵が「さあ、飛び込め」と言うのです。

祖父は重い砲弾を二発も背負っているので、万一、足がつかなかったら重りをつけて投げ込まれるのと同じ事になります。

「この野郎!!まぁちっと海岸につきこめ」
と食って掛かると、工兵はビックリして前進してくれました。

船縁からそろりそろりと海中におりると、水深は臍の上までありました。

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ずぶ濡れのまま前進また前進。

クリークが張り巡らされ、クリークとクリークの間は湿田です。

一歩一歩あえぎあえぎ前進するも、一時間歩いて振り替えってもまだ何百メートルも進んでいない有り様でした。

どこを目標に進んでいるのかもわからず、ただ海と反対側に向かって歩きます。

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祖父は同じ隊のU田さんという召集兵と一緒に、部隊からはぐれてしまいましたが、民家の外れに置いてあった舟に乗ってクリークを漕ぎ進み、無事に友軍と合流する事ができました。

部隊はいつの間にか金山という町に入っていました。

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