見出し画像

負け犬の遠吠え 大東亜戦争29 ソロモン諸島の戦い③ ニュージョージア島攻防戦

7月25日、米軍は猛烈な砲撃、爆撃を加えた上でM3軽戦車6両によるムンダへの攻撃を開始しました。

対戦車装備の少ない日本軍は爆雷を用いて抵抗しますが、多大な損害を出してしまい撤退を余儀なくされ、ムンダ飛行場を放棄、8月6日には米軍司令部はムンダの占領を発表しました。

画像1

こうして、日本軍航空基地のある「ラバウル」を孤立させるための「カートホイール作戦」は着実に進んでいきます。

スクリーンショット 2020-12-18 8.42.19

増援部隊と物資40トンを駆逐艦4隻に積み込んだ日本軍は8月6日、ラバウルを出港しコロンバンガラ島へと向かいますが、アメリカ海軍はこれをレーダーで補足しており、駆逐艦6隻で待ち伏せしました。(ベラ湾夜戦)

米軍艦隊は日本軍輸送隊に対して24本の魚雷を発射し、早々に戦線離脱します。

日本軍が敵艦を確認した時には時すでに遅し、3隻の駆逐艦に魚雷が命中、撃沈しました。

増援部隊のほとんどが死亡し(1210名が戦死)、輸送作戦は完全に失敗、ニュージョージア島での敗北は決定的なものになってしまいます。

しかし日本軍第八方面司令部はニュージョージア島からの撤退を指示するどころか、党内の残存兵力でムンダ飛行場への砲撃を優先させるという無謀な命令を下すのでした。

画像3

8月15日、コロンバンガラ島を重視する日本軍の思惑を出し抜くかのように、米軍はベララベラ島へと上陸し、陣地の構築と飛行場の建設を開始します。

ベララベラ島を米軍に抑えられてしまうと、コロンバンガラ島とニュージョージア島の後方を遮断されて孤立してしまうため、8月17日、日本海軍は駆逐艦4隻を護衛につけた増援部隊を送り込みました。

この輸送船団は米軍の駆逐艦4隻と遭遇し、「第一次ベララベラ海戦」が起こりますが、日本軍は駆逐艦2隻を小破させながらも一応、輸送作戦に成功します。

画像4

しかしこのような努力もむなしくソロモン諸島の日本軍が苦戦を強いられる状況は変わらず、むしろ戦況は悪化して行く一方となっていきました。

日本軍の上層部は中部ソロモンからの撤退を決意することになります。

スクリーンショット 2021-01-04 17.37.22

9月15日、日本軍はコロンバンガラ島の放棄を決定します。

この撤退作戦「セ号作戦」と名付けられ、その内容は、コロンバンガラ島12000名の日本軍守備隊を、チョイセル島経由でブーゲンビル島へと撤退させるというものでした。

9月26日、「大発動艇」などを用いてチョイセル島までの48キロの輸送に成功した日本軍は、続く10月2日、警戒を強めていた米軍艦隊と交戦をしながらもなんとか作戦に成功し、12000名の守備隊はコロンバンガラ島から脱出する事ができたのです。

画像6

さて、すでに米軍が上陸しているベララベラ島でしたが、この島の日本軍守備隊はわずか600名、島の北西部に追い詰められていました。

そもそもベララベラ島守備隊はコロンバンガラ島のバックアップ的な存在であったため、コロンバンガラ島から日本軍が撤退した今、その役目を終えていました。

ベララベラ守備隊に対して、南東方面艦隊司令官からは玉砕とも思える作戦継続の指示が出されていましたが、第八艦隊参謀長の懇願により、救出作戦が実行される事になります。

10月6日、駆逐艦6隻の夜襲部隊、駆逐艦3隻を伴う収容・輸送部隊による救出作戦が開始されました。

しかしベララベラ島は米軍艦隊に包囲されており、当然ながら日本艦隊の動きは探知され攻撃を加えられてしまいます。(第二次ベララベラ海戦)

両艦隊、真正面からの撃ち合いになり、日本海軍は駆逐艦一隻、米軍も駆逐艦一隻を失いました。

さらに米軍は2隻の駆逐艦が大破したため撤退、ベララベラ島の守備隊600名は無事収容され、ブーゲンビル島のブインへと帰投する事ができました。

画像7

コロンバンガラ島とベララベラ島、米軍と交戦しながらも成功を収めた二つの撤退作戦は「ソロモンの奇跡」と呼ばれるようになります。

前回と今回にかけて、ニュージョージア島をめぐる攻防戦を書かせていただきました。

米軍は「7月4日までにニュージョージア島の日本軍を駆逐する」と目論んでいましたが、予想以上の損害と時間がかかってしまい、現地の司令官が変更されるという事態まで起こっています。

日本軍上層部の無策さとは裏腹に、現地の将兵がいかに優秀であったかを物語っています。

画像8


この記事が参加している募集

習慣にしていること