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負け犬の遠吠え 大東亜戦争52 硫黄島の戦い②血で書いた日の丸

サイパンが陥落したことによって、米軍はB-29による日本本土爆撃が可能になったわけですが、航続距離が長すぎるために護衛戦闘機を随伴させる事ができず、度々大きな損害を出して米軍を悩ませていました。

日本軍はサイパンと東京の中間地点にある硫黄島を防空監視拠点としており、B-29を本土上空で迎撃する事ができたのです。

米軍は、「故障したB-29の退避場所」「護衛戦闘機の基地確保」「日本軍航空基地の殲滅」「日本軍の防空警戒システムの打破」などを目的として、硫黄島攻略を決定します。

この作戦は「デタッチメント作戦」と呼ばれ、この戦争において日本固有の領土への初めての侵攻となりました。

しかし米軍は4月に沖縄への大規模な侵攻を予定しており、硫黄島攻略に与えられた時間は二ヶ月間しかありません。

米軍上陸部隊の司令官、ホーランド・スミス海兵中将は、記者会見で「攻略は5日間で終わらせる」と豪語しました。

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1945年2月16日、硫黄島へ押し寄せた米軍の艦隊からの事前艦砲射撃が開始されました。

硫黄島に上陸する海兵隊からの「艦砲射撃は10日間必要だ」という意見は却下され、沖縄戦を控えていた米軍の事情などにより3日間に短縮されてしまいます。

しかし米軍は、日本軍機が硫黄島へ航空支援を行えないようにするために「ジャンボリー作戦」と呼ばれる日本本土空襲を行うなど、硫黄島攻略の用意は周到でした。

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2月17日、機雷などの障害物を取り除くために掃海艇が海岸に接近すると、摺鉢山陣地を守備していた海軍が栗林中将の命令に背いて砲撃を開始してしまいました。

このせいで米軍の激しい集中砲撃を招くことになってしまい、摺鉢山の主要な火砲は失われてしまいます。

摺鉢山は硫黄島最南端に位置する169mの高地であり、島を一望できる最重要拠点で、この山の陥落は日本軍の敗北を意味するのです。

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あまりにも激しい艦砲射撃によって摺鉢山の海側の火口壁が崩壊するほどで、米兵たちは「俺たち用の日本兵は残っているのか?」と会話しました。

2月19日、3日間に渡る艦砲射撃と爆撃で島が焼け野原になった後、午前9時に米軍の上陸部隊の第一波が上陸を開始します。

大した抵抗もなく上陸できた米軍は「日本兵は全滅したのか」とばかりに内陸部へ前進を開始しました。

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日本軍は地下坑道に身を潜め、激しい艦砲射撃を耐え抜いていました。

午前10時、日本軍は前進してきた米軍に一斉攻撃を仕掛けます。

柔らかい砂地に足を取られて移動もままならない米軍の第24、25海兵連隊は忽ちにして損耗率が25%に到達し、上陸した56両のM4中戦車のうち28両が撃破されました。

火山灰でできた砂浜では身を隠す塹壕を掘ることもできず、水陸両用車や上陸用船艇は高波に押し戻されて損壊しました。

それでも夕方までには3万名の海兵隊が上陸し、橋頭堡を築きますが、そこへも日本兵は少人数で夜襲をかけました。

結局、この日だけで海兵隊は戦死者501名、負傷者1755名という大損害を被ります。

しかし、この夜襲は日本軍にとっても非常に危険な攻撃で、帰ってこない日本兵も徐々に増えていきました。

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2月20日、米軍は摺鉢山のふもとにある千鳥飛行場の制圧に成功、摺鉢山と日本軍司令部との連絡路を断ち切りました。

米軍第28海兵連隊は摺鉢山へ向かいますが、その道中は「1mおきに戦闘が起こった」ほど激しい道のりとなります。

米軍は火炎放射器と手榴弾で日本軍の陣地を破壊しながら前進します。

火炎の届かない地下陣地には、発煙弾の煙の流れで出入り口を発見し、ブルドーザーで出口を塞いだ上で、削岩機で穴を開けて坑道の中にガソリンを流し込み、火を放って洞窟内の日本兵を焼き殺しました。

米兵たちのヘルメットにはこう書かれていました。「ネズミ駆除はお任せ!」

アメリカ本国では、硫黄島での苦戦が衝撃的に報じられ、マスコミは「毒ガスを使用すべきだ」と報じました。

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2月21日、日本本土を出撃した32機の神風特攻隊が硫黄島近海に停泊していた米国艦隊への突撃を行いました。

まずは先遣隊が錫箔(チャフ)をばらまいて敵のレーダーを錯乱させ、その混乱に乗じて後続機が護衛空母ビスマルク・シーを撃沈、正規空母サラトガを大破させました。

硫黄島の守備隊は、自分たちのために散ってくれた特攻隊の最期を、涙を流しながら見届けました。

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23日午前10時15分、米軍第5海兵師団はついに摺鉢山山頂に到達し、拾った鉄パイプに星条旗をくくりつけて掲揚します。

沖の艦船からは次々と汽笛が鳴り響き、海岸線の敵陣地からは勝鬨のような歓声や口笛が聞こえます。

摺鉢山が陥落したのです。

ホーランド・スミス中将はこの旗を記念品として保管することを希望し、回収しました。

そして12時15分に、先ほどのよりも2倍ほど大きい星条旗を「今まさに山頂へ到達し、戦闘の最中に危険を顧みずに国旗を掲げた」かのように演出して掲揚し、写真を撮ったのです。

この「後撮り写真」こそが後にピューリッツァ賞を受賞した有名な写真「硫黄島の星条旗」となります。

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しかし翌日の24日早朝、日本海軍の秋草鶴次一等兵曹によると、そこに掲げられていたのは星条旗ではなく日章旗だったそうです。

摺鉢山ではいまだに散発的な抵抗が続けられており、日本兵の誰かが夜間に旗をすり替えたのでした。

これを見た日本軍守備隊の士気は鼓舞されました。

米軍は山肌が削り飛ぶほど摺鉢山にロケット砲弾を集中的に浴びせ、再び星条旗を掲げました。

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25日早朝、誰もが目を疑いましたが、そこには再び日章旗がはためいていました。

秋草一等兵曹によると、その日章旗は先日のものよりは小さく、日の丸も茶色かったそうです。

おそらく血で書いた日の丸なのではないかと、秋草一等兵曹は拝む思いでこの日章旗を壕から眺めていたそうです。

2月26日、そこに日の丸の姿はなく、その後も奇跡が起こることはありませんでした。

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