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負け犬の遠吠え 大東亜戦争50 ビルマの戦い⑧ビルマ陥落

インパール作戦で半分以上の戦力を失っていた日本軍に対し、イギリスはすぐさま追撃を行う予定だったのですが、大陸打通作戦の影響で米軍の航空部隊の配置換えが行われたため、一時的に航空支援が弱くなってしまい、イギリス軍の追撃戦はノロノロとしたものになってしまいました。
その隙にインパール作戦で敗れた日本の第15軍はイラワジ河まで後退、集結します。

第15軍はイラワジ河を防衛線としてイギリス軍を迎え撃ち、殲滅させる作戦をとりましたが、これは戦力的にも、無謀とも言える事でした。(イラワジ会戦)

12月下旬、イギリス軍の本格的な追撃が始まると、日本軍は防戦むなしく後退を余儀なくされ、1945年3月にはマンダレー、メイクテーラを失います。

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インパールからの追撃戦と並行して、イギリス軍はビルマ南西部にも侵攻を始めます。

しかしこの地域の日本軍はすでに撤退しており、1月3日にはアキャブが陥落します。

イギリス軍の矛先は、日本軍の海上補給路の要衝となっているラムリー島へむけられました。

1月21日、イギリス軍は7000名の兵力で上陸を開始します。

この島の日本軍守備隊はわずか1000名、イギリス軍はこれといった抵抗を受けることなく上陸に成功しました。

しかし日本軍は、イギリス軍が内陸部へ進行すべくクリークを渡河するタイミングを狙って反撃を開始、一時は敵軍を後退させるほどの戦果をあげましたが、徐々に日本軍は劣勢に立たされていきます。

2月9日、日本軍はラムリー島からの全軍撤退を決定しますが、脱出用の船艇は小舟数隻以外は撃沈されており、日本兵たちは2月18日夜半、泳いで島を脱出する事にします。

しかし途中で発見されて機銃掃射を浴びてしまし、泳ぎ切れたものはわずかに数十名で、残りの大部分は島へ引き返して山中に散り散りに逃げ落ちました。

川に浮かんでいた日本兵の死体には、大量のワニが群がっていたと言われています。

2月22日にイギリス軍はラムリー島での戦闘を集結させますが、逃げ延びた日本兵たちは現地住人の手厚い保護や支援を受け、3月には500名が島を渡って再び集結する事ができました。

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日本が侵攻してくるまでイギリスの植民地であったビルマは、日本指導のもと、バー・モウを大統領とする「ビルマ国」を建国しました。

「ビルマ国民軍」という国軍をも持ちましたが、それでも「紙の上での独立に過ぎない」と不満を持つ軍幹部も多く、密かに抗日組織を結成して連合国と連絡を取り合っていました。

ビルマ国民軍は、インド国民軍のように自ら戦線に立つことはなく、日本からビルマ国民軍への戦闘参加要請も行われませんでしたが、ビルマでの戦局が危うくなると、いよいよビルマ国民軍の投入が決定されます。

しかしこの時、ビルマ国民軍はすでに対日参戦を決定しており、3月27日、ビルマ国の国防相アウン=サンは全軍に反乱を命じました。

ビルマ国民軍1万1千名は、日本軍への全面攻撃を開始します。

彼らはビルマの独立を信じていました。

「イギリスがビルマの独立を認めるならば、ビルマ国民軍は日本と戦う」という密約を、イギリス軍司令官のルイス・マウントバッテン将軍と結んでいたのです。

しかしその約束は、日本が降伏した後反故にされ、ビルマは再びイギリスの植民地になります。

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イギリスの侵攻、ビルマ国民軍の反乱の挟み撃ちにされた日本軍は4月23日、ビルマ方面軍司令部を首都ラングーンからモールメンへ後退させました。

しかしこの後退は、司令官・木村兵太郎の独断で行われたものであり、部下たちには何も知らせない単なる「逃走・首都放棄」でした。

日本の傷病兵、在留邦人、バー・モウなどビルマ政府の代表や、チャンドラ・ボースなど外国の要人や民間人をも置き去りにする愚かな行為と言えます。

司令官を突如失った日本軍は大混乱に陥りますが、それでも陸路での脱出を強行、多大な犠牲者を出すことになりました。

無防備になったラングーンは5月2日に陥落、これにより退路を絶たれた日本の第28軍はシッタン川西岸に取り残されて孤立してしまいます。

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孤立した第28軍は、ペグー山系に立てこもり、戦力の終結をはかります。

7月下旬、雨季の到来によってイギリス軍の侵攻が困難になった隙に、日本軍はペグー山系を脱出してシッタン川を目指しました。

イギリス軍の攻撃にさらされながら、雨季の最盛期で増水したシッタン川の渡河に挑んだものの、衰弱していた者は次々と流され、多数の溺死者を出すことになります。

渡河に成功し、東岸の友軍に合流できた者は1万5千人と言われていますが、ペグー山系に終結していた日本軍は3万4千人いましたので、このシッタン作戦で日本軍は2万人近い兵を失ったことになります。

この作戦が終結した頃、日本軍は終戦を迎えるのでした。

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