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負け犬の遠吠え 大東亜戦争48 ビルマの戦い⑦ 拉孟・騰越 阿修羅も目を背ける

1942年にビルマに侵攻した日本軍はビルマ・支那国境を超えて雲南省にまで到達していました。

第56師団坂口支隊は拉孟・騰越を占領、以後は怒江をはさんで日支両軍のにらみ合いが続いていました。

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連合国の東南アジア方面副最高司令官ジョセフ・スティルウェル中将は、アメリカ式に鍛え直した国民党軍「新編第一軍」を編成し、日本への反撃の機会を伺うのでした。

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拉孟は海抜2000mの山上にあり、四季の豊かな日本に似た気候だったそうです。

第56師団はここに強固な防衛陣地を築きますが、1943年以降は徐々に連合国の反攻の機運が高まり、度々攻撃を受けるようになりました。

ここを日本軍が占領している限り、陸路でのビルマ・ルートを再開する事ができないのです。

第56師団は反撃を行いながらも、100日分の弾薬・食糧を収集し、長期戦に備えました。

1300名の守備隊を指揮するのは、部下からの信頼の厚い金光少佐でした。

金光少佐は現場叩き上げで、その誠実さを以って現在の地位にのし上がってきた人物でした。
「厳格だが驕らず、部下を愛し、よく面倒をみた」と同期から評されるほどで
「隊長のためならいつでも死ねる」と口にする者もいたほどですが、49歳の金光少佐はいたって謙虚で「自分は全く至らない人間だよ」とはにかむのでした。

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1944年6月2日、ビルマ西部ではインパール作戦が破綻していた頃の時期になります。

アメリカ式の最新兵器を装備した支那国民党軍の精鋭、蒋介石直属の「直系栄誉第一師団」を中心とする大軍が拉孟を包囲しました。

その総戦力差は「45倍」という絶望的なものでした。

敵の一斉砲撃が始まると、その圧力は24時間緩むことはありません。

金光少佐を筆頭に、守備隊みんなで築き上げた防御陣地で耐え凌ぎました。

6月4日、敵軍の歩兵が押し寄せてくると、日本軍はこれに猛射を加えて反撃を開始しました。

激しい戦闘が繰り返され、守備隊は徐々に損耗していきますが、金光少佐は一度も撤退や増援を願いませんでした。

彼が友軍に要求したのはただ一つ「手榴弾」でした。

金光少佐の電信の一文です。

「片目、片足、片腕ある者は全て陣頭に立ちて戦いつつあり。手榴弾の不足を補うため、一部の者は夜陰に抜け出し、敵のしたいからこれを奪いきたれり。情景凄惨、阿修羅も目を背けるばかりなり。」

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度々、友軍機による手榴弾など弾薬の物資投下が行われたようですが、撃墜される機も多く、物資も半分ほどは敵に奪われていました。

7月に入ると国民党軍は火炎放射器やロケット砲も導入し、攻撃の手をさらに厳しくしてきましたが、日本軍はこれにも耐え凌ぎます。

7月中旬、第33軍参謀・辻政信が「断作戦」を発令、拉孟・騰越の救援が期待されましたが、ビルマ方面の日本軍には既にそんな余力はなく、結局はただの口約束に過ぎませんでした。

拉孟守備隊の兵力は500名を切っていました。

8月には次々と陣地が陥落、9月6日、最後の陣地を包囲されて金光少佐は迫撃砲弾を大腿部と腹部に受けて壮絶な最期を遂げました。

兵たちに寄り添い続けた慰安婦たちも、最後は兵の手によって処置され、9月7日、日本軍は伝令の木下昌己中尉を除いて全滅します。

木下中尉は、金光少佐の命によって、皆の死に様を伝えるために、兵たちが家族にあてた手紙を何通か持って拉孟を脱出していました。

木下中尉は途中、国民党軍と遭遇しますが、咄嗟に馬糞を食してみじめな姿をさらす事によって敵の戦意をそらしました。

敵に鼻で笑われながらも命広いした木下中尉は18日、第56師団にたどり着きました。

木下中尉の話を聞いた者は皆、その壮絶な戦いぶりに涙を禁じ得なかったと言います。

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結局、支那国民党軍は、1300名の拉孟守備隊の45倍の戦力を持ちながら、4000名もの戦死者を出しました。

これだけの戦力差でありながらも100日間持ちこたえた戦いは、世界史上に例がなく、日本軍と戦った李密少将は

「私は軍人としてこのような勇敢な相手と戦えて幸せだった。おそらく世界のどこにもこれだけ雄々しく、美しく散った軍隊はないだろう」

と語り、さらに蒋介石は

「日本の軍人精神は東洋民族の誇りである。模範とせよ」

と訓示しました。

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騰越は拉孟から北東60キロの地点にあります。

ここは高さ5m、幅2m、周囲4kmにもわたる城壁に囲まれた人口4万人の城郭都市で、周囲を高地に囲まれていました。

北に高良山、北東に飛鳳山、南方に来鳳山、西方に宝鳳山があり、これらの高地からは騰越の城内が丸見えになってしまうため、周囲の高地も含めて防衛をしなければなりませんでした。

少なく見積もっても7000名の兵力が必要とされましたが、実際の兵力は2000名しかいません。

騰越守備隊は、第56師団歩兵第148連隊であり、連隊長は倉重康美(くらしげやすよし)大佐です。

6月27日、5万の兵力と率いて支那国民党の雲南遠征軍が来鳳山へ攻撃を開始、29日には高良山の攻防戦も開始されました。

雲南遠征軍は完全に騰越を包囲、守備隊の退路は遮断されました。

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7月20日には騰越城への総攻撃が開始され、猛烈な砲撃が加えらます。

しかし守備隊は壮絶な白兵戦を繰り広げ、その度に敵を撃退していきました。

しかし敵機の爆撃などにより陣地は徐々に崩壊、戦線を縮小させていきながら日本軍は持久戦を展開します。

8月9日には雲南遠征軍は5000名の兵力で突撃を行いますが守備隊はこれを退けます。

この時点で騰越守備隊は820名を失っていました。

8月12日に雲南遠征軍は遂に城壁を登りきり、一角を占領しますが、日本軍は夜襲を行い再び撃退に成功します。

8月14日、19日と繰り返し総攻撃が行われますが、騰越守備隊はいずれも耐え凌ぎました。

しかし21日にもなると、騰越城内の三分の一は占拠され、守備隊の残存兵力も640名となりました。

雲南遠征軍の攻撃は日増しに激しくなっていき、9月5日に最後の総攻撃が行われます。

9月7日、守備隊はわずか70名となり追い詰められます。

そして13日、重傷者3名を除いて全員が敵陣地に突撃を行い、全員が戦死しました。

雲南遠征軍の戦死者は9000名を越えていました。

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拉孟・騰越の戦いの結果、国民党軍は怒江対岸に進出する事になりますが、ビルマの連合国軍と合流するのは1945年の事になります。

日本軍は「断作戦」を決行し、拉孟・騰越を失った後も龍陵などで会戦を行い、国民党軍の南下を防いでいたのです。

しかしそれも1945年の1月末に力尽きたのでした。


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