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負け犬の遠吠え 日露戦争3 神の杖

義和団事変において、居留外国人の保護の為に尽力した日本軍は、各国のように暴虐な行為を行わず、規律のとれた最も紳士的な軍隊として賞賛されました。

これによって日本という国家の国際的信用度は一気に上がることになります。

しかし義和団事変に乗じてロシアは満州を占領してしまい、兵を撤退させようとしませんでした。

明治維新以降、日本が懸念していた「ロシアの南下」が一気に現実味を帯びて来たのです。

世界の4分の1を支配していた覇権国家イギリスにとっても、国力第二位であるロシアの南下は、アジアでの植民地利権を守る為に警戒すべき事でした。

しかし実は、このロシアの動きには実は「裏」があったのです。

日清戦争が終結し、清が巨額の対日賠償請求を負った時、ロシアはいち早く借款供与を申し出て、さらに三国干渉で遼東半島を清に返してあげました。

この見返りにロシアと清の間で結ばれた秘密条約が「露清密約」です。

その内容は、

清、ロシア、朝鮮が日本と戦争になった場合には、相互援助する事、

戦争の時は、清の港をロシアに解放する事、

シベリア鉄道とウラディボストークを結ぶ「満州横断鉄道」を建設し、軍隊や軍事物質の輸送を認める事

というものでした。要するに、「いつでも満州を占領できる状態」が作り出されていたのです。

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そして、義和団事変の混乱に乗じてロシア軍は南下を開始、清国人2500名を虐殺して満州地方を占領したのです。

その時殺された清国人の遺体はアムール川に流され、まるでイカダのようだったと言われています。

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日本としては、ロシアの南下を防ぐ為に日清戦争を戦ったのに、結果的に朝鮮も清もロシアの影響力が増してしまうという皮肉な結果となっていました。

イギリスは南アフリカで起こった「ボーア戦争」に戦費を費やしており、東アジアでのロシアの南下に国力を注ぎ込むことはできず、この事態に対応できる状況ではありませんでした。

そこでイギリスは、「ロシアが脅威」という利害関係が共通する「日本」に目をつけ、1902年に「日英同盟」が締結されます。

日清戦争の勝利、義和団事変の活躍によって、日本は「極東の番犬」として見込まれたのでした。

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ちなみに「露清密約」では、「日本とロシアが戦争する時は清が支援する」と決められていましたが、「日英同盟」には「日本が2カ国以上と戦争するならイギリスも参戦する」と書かれていました。

これは日露戦争への清の参戦を防ぐための布石となったのです。

ところで、日清戦争で独立を果たしていた朝鮮でしたが、高宗がロシア公使館に逃げ込んだ「露館播遷」によって、朝鮮におけるロシアの影響力が増大した事は以前書かせていただいた通りです。

朝鮮国王、高宗は森林伐採権、鉱山採掘権などをロシアに売り渡しており、さらに日本を排除しようとロシアへ密書を送るなどの条約違反を犯していました。

日本は、自国が明治維新で近代化に成功したように、朝鮮にも変わって欲しかったようですが、明治維新がどれほど凄い出来事だったのか日本人自身でさえ自覚できていなかったのかも知れません。

明治維新の何が凄まじいかというと、「上層階級の人間たちが、階級社会の特権を、国の未来の為に捨てた」という事です。

「奇跡」とも呼ばれるこの改革を、当時の日本は朝鮮にも期待してしまったようですが、朝鮮の支配者層は身分階級によって生活を保証されており、それを捨てる事など望んでいませんでした。

朝鮮政府は日本主導による改革を受け入れる気などなかったのです。

とはいえ、朝鮮政府の圧政に苦しむ民衆の中からは、改革を望み、日本に賛同する者も出てきます。

彼らは「維新」をもじって「一進会」という政治結社を作り、日本と共に歩もうと行動しました。

そして彼らは後に日露戦争で27万人を動員して日本軍の物資運搬や鉄道工事を手伝うなどの活躍をしてくれたのです。

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彼らの存在は、後の「日韓併合」にも大きく関わってきます。

さて、日英同盟も結んだし朝鮮では一進会ができたし、これで安心安心・・・という訳では全然ありません。

日本は必死でロシアとの戦争回避を模索して交渉を続けます。

当時の両国の国家予算は、日本が2億9千万円、ロシアが20億円でした。

つまり、国力差が10倍なのです。

誰も日本が勝つとは思わないほどの絶望的な差なのです。

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なんとか南下を諦めさせようとする日本でしたが、ロシアの強硬姿勢を変えることはできず、1903年に行われた交渉の決裂によって日露開戦は決定的になりました。

朝鮮・満州での影響力を確固たるものにしたいロシアは、日本の要求を聞き入れなかったのです。

そして、交渉が行われている間にも、ロシアはシベリア鉄道を使ってどんどん戦力を極東に集めていました。

この迷いのないロシアの動きには、ドイツが裏で糸を引いていました。

フランスとロシアに挟まれた位置にあるドイツは、ロシアの目を東に向けさせる事こそが国防の要だったのです。

その為、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、ロシア皇帝ニコライ2世に対し、黄色人種国家の脅威を煽る「黄禍論」を唱え、ロシアの太平洋進出を促しました。

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そんな中、日本政府はついに日露開戦は避けられないと判断します。

1904年2月6日、外務大臣小村寿太郎によってロシア公使に国交断絶が言い渡されました。

同日、ロシアに駐留する日本人公使・栗野慎一郎もまた、ロシアのラムスドルフ外相に国交断絶を通達します。

当時の常識として、交渉決裂の後、「最後通牒」として期限を定めない国交断絶が行われた時、すでに「戦争状態」であると見なされました。

戦争をするときに「宣戦布告」など必要ないのです。

日露が国交断絶したことによって、ペテルブルグ日本公使館は引き上げとなりました。

公使館員達は列車に乗ってスウェーデンのストックホルムまで移動します。

駅に着くと、なぜかそこには大勢の軍人や紳士が集まっており、公使館員達は「何だろう?」と怪訝に思っていました。

そして、この人たちが自分達を歓迎する為に集まったのだという事を知り驚愕するのでした。

駅に来ていたスウェーデン国王・オスカル2世は、栗野公使と固い握手を交わし、日本の勝利を祈りました。

歴史上、スウェーデンは隣国ロシアの脅威に常にさらされて来ました。

スウェーデンの人々は、ロシアと戦う決意をした日本という極東の小国を、心から応援していたのです。

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ところで、ロシアと戦争するのはいいのですが、戦争には膨大な資金が必要です。

日本政府は戦争資金の工面を始めました。

4億5千万円が必要との見積もりを出した政府ですが、日本経済の現状ではどうして1億円分は外貨から「1000万ポンド」として調達せねばなりませんでした。

しかし国際世論は日本の敗北を確信しており、日本に金を貸すものはいませんでした。

日銀副総裁の「高橋是清」は渡米しますが、どこも公債を受け入れてはくれません。

そこで日英同盟を頼みにイギリスに渡り、諸銀行から500万ポンドをかき集めましたが、肝心のイギリスロスチャイルド銀行に融資を断られると、いよいよ窮地に追い込まれることになりました。

フランスは露仏同盟の為、日本に協力するはずがありません。

ドイツに至っては、ロシアを日本にけしかけていた張本人です。

イギリスに融資を断られるという事は、日本にとって致命的なダメージなのでした。

そんな状況において、500万ポンドの公債発行の仮契約までこぎつけた事を祝うため、ニューヨークの商社のロンドン支店長が晩餐会を開いてくれました。

高橋是清はこの席で、ニューヨークのクーン・ローブ商社の代表である「ジェイコブ・シフ」に出会います。

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クーン・ローブ社といえばとてつもなく大きな金融支配力を有した投資銀行です。

シフは高橋にいくつかの質問を投げかけました。

日本軍の士気はいかほどか?日本の産業はどうか?経済はどうなのか?

高橋是清はこれに対し、丁寧に応答しました。

そして翌朝、クーンローブ社が500万ポンドの融資を引き受けるという連絡が高橋に届いたのでした。

こうして1904年4月に日本はようやく戦時公債の発行にこぎつける事ができたのです。

後に高橋是清は、ジェイコブ・シフとの出会いを「偶然」と書いています。

しかしどうやら、この出会いは決して偶然ではなく、シフが計画的に高橋との接触を試みたようです。

ジェイコブ・シフはドイツ生まれの熱心なユダヤ教徒でした。

当時、ロシア帝国では「ポグロム」と呼ばれるユダヤ人弾圧が行われており、有名なナチスドイツによるユダヤ人虐殺よりも恐ろしい光景が繰り広げられていたのです。

彼にとって、日本を支援しロシアを倒す事が、同胞を救うための手段だったのです。

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シフは後にこう書き綴っています。

「ロシア帝国に対して立ち上がった日本は、神の杖である」

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