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祖父が歩いた支那事変 〜南京へ〜

金山という町の中央には綺麗な流れのクリークがあり、所々に通潤橋のような橋がかかっていて、まるで南画を見ているような思いだったと祖父は回想しています。

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敵が逃走する際に火を放ったのか、あるいは友軍が「焼くな、犯すな」の戒を破って火を放ったのか祖父にはわかりませんでしたが、町のいたるところに火の手が上がっていました。

日本軍の悪行として「三光作戦」がよく用いられます。

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これは、「日本軍は焼き尽くし、殺しつくし、奪い尽くした」という支那側の主張です。

しかし祖父のいた第六師団には「焼くな、犯すな」の厳しい戒律が存在していました。

さらに支那国民党軍は、「堅壁清野(清野作戦)」という方針をとっていました。

これは自軍が敗走する際、日本軍が物資などを利用できないように村々を焼き尽くすというものです。

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支那人が自ら村々に火を放っていたのに、それを「三光作戦」と称して日本軍の所業に仕立てているのです。

祖父が見た火の手は、おそらく支那軍の手によるものだと考えられます。

祖父の部隊は金山の郊外で「大休止」となりました。

大きな民家で休もうとすると、この家にはなんと多くの姑娘(クーニャン・若い娘)が隠れていたのでした。

A木曹長は慌てて
「皆聞け、絶対に姑娘に手を出してはならんぞ!!」
と指示しました。

しかし祖父は、後で泣き崩れていた数人の姑娘を目にしたため、友軍の誰かの手によって若い蕾が散らされたのではないかと考えてしまうのでした。

さて、祖父達は度々現れる敵団を撃破しながら進軍しましたが、それも十二月に入るとまるで駆け足のような行軍となりました。

他の師団の部隊を道路上でどんどん追い越して行くのです。

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祖父の部隊の通過を、道路脇によけて待っていてくれる部隊もあったほどで、皆一様に「第六師団か、なるほど」とうなづいているのでした。

精鋭たる第六師団、一歩でも早く南京城に辿り着かねばならなかったのです。

行軍速度が速いため、補給は間に合わず、大休止となれば先を争って民家から食料を調達せねばなりません。

まず探し出すのはメリケン粉です。これを団子にして、塩と豚肉を入れて沸かした湯にぶち込めば最高の料理になるのでした。

十二月の南京は寒く、祖父が民家の外で膝を抱くように眠っていたら、同年兵のO城君が愛馬の鞍を外し、鞍下毛布を持ってきてくれたので、二人並んで毛布を被って横になりました。

そして朝起きてみると、毛布の上は霜で真っ白になっていたのでした。

祖父達、第三大隊は、南京攻略の時は予備隊とされ、祖父達が寝ている間も第一大隊、第二大隊は激戦を繰り広げていました。

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十二月十二日、南京城中華門に通じる道で、大型戦車と共に待機していたら、「万歳万歳」の声が聞こえてきました。

中華門を占領したのです。

首都南京の城は、これまで見てきたものよりも城壁が高く、威容があったそうです。

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話を聞けば、工兵が爆破した城壁をT越曹長がよじ登り、群がる敵を切り倒し、射撃を加え、たまらんと逃げ出した敵兵を追うように城壁から飛び降りたそうです。

勇将の下、弱卒なし。

曹長の部下達も次々に飛び降りて奮戦し、内側から中華門を開いたとの事でした。

「南京が 12、12と 落ちて行く」
誰が作ったか不明の句が流行りました。

昭和12年、12月12日のことでした。

祖父は南京城中華門を突破した後の事をこう書いています。

「我々は直ちに城内の掃討にかかったが、今や敵兵の姿はなく、南京市の内にはたくさんの市民が残っていた。」

さっきまで戦っていた敵が急に消えるはずがないのです。

逃げ場もなく、国民党軍は軍服を脱ぎ捨て、市民になりすましたとしか考えられません。

俗に言う「南京大虐殺」は、ご存知の通り日本軍が南京に入城してからの2ヶ月間で30万人の市民が虐殺されたとする事件です。

今では「それはおかしいだろ」という声もよく聞かれるようになりましたが、祖父がこの本を書いたのは昭和55年、南京大虐殺という虚構が日本中に浸透しており、「南京にいた」というだけで白い目で見られた時代です。

「日本軍が支那人に対して虐殺行為を行なった!」というプロパガンダが展開されたのは、南京大虐殺が初めてではありません。

1894年、日清戦争の時、アメリカの従軍記者クリールマンによって「日本軍は旅順で冷酷にほとんどの無抵抗の住民を虐殺した。非武装の住民は言い表すことのできないほど切り刻まれていた」と報じられ、国際的に大問題になった事があります。

いわゆる「旅順虐殺問題」です。

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しかしクリールマンは米西戦争を煽った張本人と言われるほど過激な「ブッ飛ばし記事」を書くことで悪名が高い記者で、多くの国際学者や公使などが、クリールマンの記事を否定した事で騒動は終結しました。

日清戦争の時、清軍は日本兵を捕まえると過度に残虐な殺し方をしていました。

目や鼻、手足がない遺体が多く、首は切り取られて家屋の軒先にぶら下げられました。

さらには、腹が割かれ内臓の代わりに石が詰められていた遺体もあったのです。

そのような残虐行為をする清兵は、いざ戦局が悪化したら軍服を脱ぎ捨て、旅順の市街地に潜伏し、ゲリラ戦を展開したのです。

日本軍はしっかりと掃討戦を行わねば清兵の手にかかり、自分の命が危ない、それどころか遺体損壊を加えられることをよく理解していました。

そのため、日本軍の掃討戦が行き過ぎた可能性はあるのですが、そうしなければ日本兵は自分の命を守れなかったのです。

日清戦争において、日本は「支那軍と戦うということ」をしっかり後世に残しておくべきでした。

「支那軍の残虐性」「便衣兵」についての対策、海外への日本の正当性の主張をもう少し講じることができていれば、南京虐殺という虚構も作れなかったのかも知れません。

旅順虐殺も、いわゆる南京大虐殺もカラクリは同じなのです。

どちらも支那が便衣戦術をとった事が原因なのです。

確かに、掃討戦の巻き添えを食らった非戦闘員がいたかも知れませんし、便衣兵と間違われて殺された市民もいたも知れません。

しかし私はそれを「虐殺」とは断じて呼びません。

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さて、祖父は南京市内に数日駐留しました。

市内を巡回していると学校の校庭に馬が繋がれていました。

捕まえて軍馬にしたいところでしたが、鞍がありません。

そこで誰かが、中華門の門外には軍馬が数頭いたそうだぞと祖父に教えました。

祖父は早速探しに出かけますが、分隊長が「銃を持っていけ」と注意しました。

日本軍は南京城を落としましたが、城外は未だ危険地帯なのです。

城外に出ると、ここにはやはり激戦の跡が残っていました。

土民の食糧と化したか、馬はすでにいなくなっていましたが、鞍がいくつも残っていました。

目的は達したのでいざ帰ろうとすると、何やら城壁下のトーチカで人の気配がします。

そーっとのぞいてみると、拳銃を構えたツンコピン(支那兵)がいたので咄嗟に身を交わしました。

しかしこのツンコピンは負傷しており、すでに拳銃を撃つ力もなかったのです。

かねてよりピストルが欲しいと思っていた祖父はこの拳銃を分捕りましたが、これは「モーゼル銃」であったため重くてかないません。

部隊に帰って分隊長に差し上げたものの、分隊長も一度握っただけで捨ててしまいました。

モーゼル銃とはドイツ製の銃です。

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南京安全区国際委員会会長のドイツ人ジョン・ラーべは「南京大虐殺」の肯定派であり、著書「南京の真実」において、「婦女暴行を働こうとしていた日本軍がモーゼル銃を持っていた」と書いていました。

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しかしモーゼル銃は日本軍の正規装備品ではなく、国民革命軍の武器です。

祖父も分隊長も捨ててしまったモーゼル銃を使いたがる日本兵がどれだけいるのでしょうか?

ジョン・ラーベが見た「婦女暴行を働こうとした兵士」の存在は、「モーゼル銃を持っていた」というだけで一気に日本兵なのか国民革命軍なのかがわかりにくくなるのです。

また、ジョン・ラーべは支那とドイツの通商を仲介し美味しい思いをしてきた人間であり、支那とドイツの仲を切り裂く日本はジョン・ラーべにとっては邪魔な存在であり、決して政治的に中立な人物ではないことを申し上げておきます。

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