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祖父が歩いた支那事変 〜蕪湖警備〜

 12月17日、祖父の部隊は「南京入城式」を見ることなく、隣の都市「蕪湖(ウーフー)」へと移動を開始します。

「敵の首都・南京もこれで陥落した。これで敵も降参するであろう。そのうちに蒋介石との間に講和談判が行われ、我々は懐かしの故国に帰れるのであろう・・・・」
という祖父の願いは虚しいものでした。

南京を出発するにあたって祖父は地図を確認しました。

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蕪湖は揚子江流域では大きな町のようで、一日の行程で着くだろうと想定しました。(南京〜蕪湖は福岡〜熊本くらいの距離)

しかし実際に歩いてみると遠いもので、歩き疲れて日も暮れかかった頃、突然、祖父の部隊の数倍もの敵軍が出現します。

いざ戦わんと思った時、「撃つな、撃つな」の声がかかります。

よく見ると、敵に戦意はなくゾロゾロと歩いてくるのです。

投降の意を表しているようでした。

完全武装の敵部隊を武装解除し、やれやれと安心します。

しかし祖父は思いました。
「この人達にとって此処は自分の国である。せっかく山地に隠れていたのになんでノコノコと出てくるのか不思議でしょうがない。教育を受けた直径軍のようだが、食料などの調達が難しかったのかも知れない」と。

「南京大虐殺」がもし真実であれば、この時すでに虐殺は進行しており、日本軍に投降すれば殺されることは容易にわかるはずであります。

しかし現実は、正規軍の大部隊が自らの意思で投降しているのです。

彼らの生活は「日本軍に捕まった方がマシ」と言えるほどだったのでしょうか。

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祖父たちはいよいよ蕪湖に到着します。

大隊本部は豪華な家を占領。

祖父の部隊もその近くの宿舎を占領しました。

蕪湖と南京との間にはトラックが盛んに行き来し、揚子江に行けば内地からの汽船も来ていました。

大隊本部の庭には、酒樽や甘味などの加給品が山と積み上げられ、三度の食事も内地米を美味しく食べられるようになりました。

平和がやってきたのではないかと思いたいような日常でしたが、やはりここは日本ではなく、敵国支那の国であります。

蕪湖の周囲には敵の大群が反撃の機会を伺っていたのです。

新聞には華々しく「南京陥落」「蕪湖占領」などと書き立てられますが、実際のところ、上海、南京、蕪湖という点を線で結んでいるだけの状態でありました。

蕪湖から八キロ歩いていくと「山口」と呼ばれるゴーストタウンがあって、ここを防衛戦とし、十日間交替で警備に出ることにしていました。

時として蕪湖の宿舎で安眠しているところを緊急出動の命令が出たりすることもあるほど、付近の敵の動きは活発になっていたのです。

そこで、一大掃討戦が展開され、祖父は連続二昼夜戦い続けました。

夢中で敵を倒しながら進み行き、相当な戦果をあげただろうと周囲をふと見回してみると、回り回って出発地点に戻ってきていたのでした。

そのような戦いがありつつも、内地からの便りも一週間ほどで届くようになっていました。

兵隊達の遊び場所もできました。

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共同浴場も開設され、歩哨の後は一風呂浴びるという楽しみもできました。

市場は賑わい、豚の片身が鮮やかに吊るしてあったり、祖父の好物の豆腐も求めることができるようになりました。

日本軍が駐留することで支那の町は平穏と活気を取り戻すことができたのです。

(もちろん南京でもそうであった事でしょう。)

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春めく頃になると、祖父には楽しみができていました。

慰問袋がとりもつ縁、とでも言いますか、祖父の親類の人が日本赤十字の従軍看護婦として
「病院船景山丸」に勤務していたので、同僚を紹介してくれたのです。

その看護婦さんは、自分も従軍の身でありながら、祖父に慰問袋として日用品やお菓子などを送ってくれていました。

やがて、看護婦姿の写真なども送ってくれるようになったのです。

しかしながら、祖父にとっては夢のような話です。

盛んに文通しつつも、未だ見ぬ幻の恋人でありました。

こうなると、早く平和を取り戻したい、そしてその日まで生き永らえねばならないと、祖父はしきりに考えるようになるのでした。

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祖父達の宿舎は大隊本部と道路で隔てられた場所に位置しており、ある時、本部の庭に酒樽が山のように積み上げられているのを覗き見ることができました。

懐かしい熊本の酒「西海」の四斗樽です。

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分隊長の実家は西海を取り扱っており、しきりに懐かしがられるので、早速「西海のこもかむり奪取計画」に取り組みました。

大隊本部の衛兵とも内通し、祖父は沖縄出身で酒好きのO城と、同年兵のHと一緒に、深夜に堂々と正門から入り、「おきつうございまっしゅ」と挨拶しながら西海を一本持ち去ったのでした。

しかし、せっかく盗み出したのに、翌日には各中隊に日本酒が配給されるというオチがつきました。

さらに、日本酒をくすねたと噂がたったのか、祖父の部隊には他の分隊からの来客が増え、しばらくは楽しめると思っていた酒はあっという間になくなってしまうのでした。

祖父は他にも、集積所に集められていたリンゴ箱をくすねたりといろいろヤンチャな事をしていたようです。

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そのような楽しい生活がある以外の日は、祖父たちは討伐戦を繰り返していました。

遠足にでも出掛ける気持ちで討伐に行くのですが、それでも一度出動すれば悲しいことに幾人かの戦傷死者が出ます。

「鬼神のごとき戦争上手」と呼ばれ、師団長から「頼むぞ」とウィスキーを賜るほどの猛将であったS場中尉は、対岸の敵に狙撃されてあっという間に戦死されてしまいました。

あるときの討伐で敵陣地に突入したとき、そこにあった文書には祖父達の隊長、K池中尉の名前が明記されており、賞金首にされている事がわかりました。

K池中尉もさすがにギョッとしておりました。

支那と日本軍の自由な商業活動は、支那軍の諜報活動を活発化させていたようで、部隊の情報などは詳しく調べられていたようです。

祖父は昭和13年の四月まで蕪湖に駐屯し、警備と掃討に明け暮れましたが、二十三日、住み慣れた蕪湖を後にして揚子江の対岸に渡ることになりました。

その別れの日、まるで戦地に向かう出征兵士のようだったそうです。

姑娘との別れが辛いと泣く戦友もいました。

残留部隊の人々や姑娘は並んで見送ってくれたそうです。

征くものと残るもの、どちらが苦労するかは神のみぞ知ることでありました。