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負け犬の遠吠え 明治維新② ジェームズ・ビドルって誰や?

前回、世界情勢の荒波は日本にも影響を及ぼし始め、「異国船打払令」が出されたところまで書かせていただきました。
さて、その頃の清はモンゴルやチベットまでもを領土に含む広大な国家になっていました。
支那王朝の「皇帝」と、周辺国家の「王」との間で君臣関係を結ぶ事を「冊封体制」と呼びます。
この冊封体制において、周辺国家が敬意と忠誠を払い、貢物をやってくるのが「朝貢」です。
朝貢の際、清朝皇帝に対して臣下がとるべき作法の一つに「三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)」があります。
跪いて土下座し、頭を三回地面に打ち付けます。
これを三回繰り返すのです。

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ところで、当時の覇権国家であるイギリスは、「イギリス領インド」を形成し、更なるアジア進出を狙っていましたが、イギリスは清に対して貿易赤字を抱えていました。
紅茶を国民的飲料とするイギリスは、清から茶葉を輸入していましたが、イギリスから清に売りつけるものがなかったのです。
イギリスは清と交渉すべく謁見しますが、そこで「三跪九叩頭の礼」を要求され、これを拒否。
交渉は決裂しました。
清にあしらわれてしまったイギリスは、インドで栽培されたアヘンを清に売りつけました。
これに追随して他の列強国も清にアヘンを売り始め、清の町はアヘン中毒の廃人で溢れかえるようになります。

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清朝皇帝の勅命を受けた「林則徐」によってアヘンは取り締まられますが、これに対抗してイギリスは1840年、清との開戦を閣議決定しました。

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清に麻薬を売りつけるための戦争「アヘン戦争」が勃発したのです。

この戦争で、アジア最大の大国であった清は、イギリスに一方的に敗北します。

清は徐々に植民地化して行くことになりました。

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大国・清がイギリスに大敗し、蝕まれていく様を見た日本は列強に強硬な姿勢をとることができなくなり、1842年に「異国船打払令」は廃止されました。
ここで一旦話をアメリカへ移します。
アメリカ大陸の東部に13州の国として建国された「アメリカ合衆国」ですが、東には欧州、北はイギリス領カナダ、南は列強が介入を目論んでいたメキシコがあり、領土を広げるには西へ進むしかありませんでした。
インディアンを虐殺しながらアメリカは西へ西へと領土を広げて行き、太平洋進出を目論みました。
アメリカの最終目的地は支那です。
植民地争いで遅れをとっているアメリカは、莫大な市場を持つ支那利権に食い込むことが必須だったのです。
そして日本は支那への航路や捕鯨の補給拠点として重要でした。
1846年、二隻の軍艦を従えて日本にやって来たのはアメリカ海軍の士官、「ジェームズ・ビドル」でした。

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彼の目的は日本を開国させることです。
「武力行使しないように」と大統領の指示を受けていた彼は、通訳の手違いで武士からぶん殴られてブチ切れたりもしましたがなんとか怒りを沈め、船上で幕府の回答を待ちましたが、「オランダ以外との通商はしない」との返事を受け入れて帰国することになります。
ビドルの開国失敗をうけて、大金をはたいて日本のことを調べあげたアメリカ人がいます。
この人こそが「マシュー・カルブレイス・ペリー」です。
実は江戸幕府は、ビドルが来ることも、ペリーが来ることも事前に知っていました。
かねてよりオランダは日本の開国は避けられないことを見通しており、日本の開国を主導し、開国後の日本との関係の中でいかに自国の権益を維持するかを考えていたのです。
オランダ国王が日本へ派遣した「ドンケル・クルチウス」は優秀な人材で、アメリカ艦隊の情報、アメリカの目的など、かなり正確な情報を幕府へ伝え、アドバイスしていたのです。

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ところで、「フェートン号事件」や「ゴローニン事件」などで日本と接触する機会があったイギリスやロシアですが、両国とも日本と通商したがっていたのに、なぜ日本はアメリカに開国する事になったのでしょうか?
当時、オスマン帝国の弱体化に乗じてロシアが地中海への南下を目論んでおり、それを阻止しようとするイギリスやフランスとの間に火種が生じ、戦争へと発展していたのです。
ナイチンゲールの活躍で有名な「クリミア戦争」です。

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イギリスとロシアが欧州での戦争で忙しく、日本に強硬な姿勢で開国を迫る余裕がない中、新興国アメリカが日本へアプローチをかけたのであります。
ビドルの開国失敗は、なぜかあまり語られることがありません。
学校では「ペリーが突然やってきて、幕府はなす術もなく右往左往していた」なんて教えられてきませんでしたか?

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