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「勝利より大切なものがある」 いわきFCで繋がった2人のストーリー

2011年3月。東日本大震災が発生してから約1週間後、湘南ベルマーレの練習に4人の高校生が参加していました。彼らはみな、実家が被災したJFAアカデミー福島の選手たち。その中に、今年からいわきFCで選手会長を務める平澤俊輔(写真左)の姿がありました。当時、湘南で強化部長を務めており、現在はいわきFC代表取締役の大倉智(写真右)は、こう語りかけました。
「今は苦しい状況だけどがんばろう。少しずつでも前に進んで行こう」

初めて二人が出会った瞬間でした。



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復興から成長へ

今季からJFL(日本サッカーリーグ)に新規参入するいわきFCは、私たちアンダーアーマーとは切っても切り離せないクラブです。

震災が起きた時、株式会社ドーム(アンダーアーマーの日本総代理店)社長の安田秀一(写真中央)と専務の今手義明(右から2人目)は、すぐに支援物資を積んだトラックで東北に向かいました。往復の燃料を計算してたどり着いた場所が福島県のいわき市。その後も継続的に被災地を支援していくため、アンダーアーマーはいわきに物流倉庫を建設することにしました。2015年にドームいわきベースが完成。地元の雇用創出へとつなげました。

さらに、同い年の安田と大倉が約25年ぶりに再会したことで、いわきFCの構想が進み始めます。2016年にはDIBのすぐ横にグラウンドが完成し、チームは本格的に動き出しました。

なぜ、アンダーアーマーはいわきFCというサッカーチームを作ったのでしょうか。何のために存在し、どこを目指しているのでしょうか。社長の大倉と、選手会長の平澤。二人のストーリーをご紹介することで、いわきFCのもっとも大切な部分を知っていただければと思います。


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日本のサッカー界に足りないもの

Jリーグ開幕を目前に控えた1991年。この年、早稲田大学を全日本大学サッカー選手権優勝に導いた大倉は、人生の岐路に立っていました。サッカーをやめて大企業へ就職する予定でしたが、少しずつ競技を続けたいという気持ちが芽生えてきていたのです。

大倉
Jリーグ、ほぼすべてのチームから勧誘され、これからサッカーが盛り上がっていく機運を感じました。でも、プロのイメージがまったくわかなくて。そんな時に、プロではなく企業の社員になってプレーするという選手の記事を読み、とても共感しました。働きながらサッカーをしたいという希望に理解を示してくれた、日立製作所(現柏レイソル)に入社することを決めました。海外経験があったので国際調達部という部署に配属され、英語を生かしながら仕事をしていました。

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その後、社員選手からプロ選手となった大倉は、柏レイソル、ジュビロ磐田、ブランメル仙台(現べカルタ仙台)とJリーグでキャリアを積んでいく中で、日本のプロスポーツのあり方に大きな疑問を抱くようになります。

大倉
柏にいた時、あるチームへレンタル移籍して、そのまま指導者になるように指示されたのです。しかも、複数クラブからあったオファーは私の元へ届くことなく、勝手に断られていた。自分の人生なのに、納得いくわけがありません。磐田からのレンタル移籍でプレーしていた仙台では、1年目が終了した時点で今まで会ったこともない人が突然現れて、大幅に減額された給料を提示されました。事実上のクビですが、自主都合退職にしようとする。こっちだってプロなんだから、もう必要ないと言われた方がよっぽど気持ちいいのに。
その後、アメリカでスポーツビジネスを学びたいという目的もあり、ジャクソンビルサイクロンズというチームでプレーしました。その時に感じたのが、みんなに平等にチャンスが与えられ、ダメだったら潔く夢破れていく競争の公平性です。対照的に、日本はあらゆることが忖度されて、公平さが生まれない。フロントと選手の立場にどっちが偉いとかはなくて、本来対等であるべきなんです。Jリーグができて、選手や指導者の質は少しずつ上がっていました。これから必要なのは、プロのフロント。そう確信して、本場の海外でスポーツビジネスを学ぶことを決意しました。


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Jリーガーを夢見て福島へ

大倉がプロサッカー選手としてのキャリアを歩み始めた1994年、平澤は茨城県日立市で生まれました。父の影響で、物心がついた頃にはサッカーボールを蹴っていたというサッカー少年。「より高いレベルでサッカーがしたい」と、小学校6年生の時に自らの意志で、福島県のJヴィレッジにあるJFAアカデミー福島のセレクションに応募します。結果は合格。親元を離れて、福島県広野町での寮生活が始まりました。

平澤
地元ではうまい方でしたが、日本全国から優秀な選手が集まるアカデミーでは、みんなに食らいついていくのがやっとでした。ここで頑張って、必ずJリーガーになるんだという気持ちで毎日を過ごしていました。

2011年3月11日、午後2時46分。高校1年生の平澤は学校の授業を終え、グラウンドで練習中。その瞬間はやってきました。

平澤
強烈な縦揺れの後にすぐさま横揺れが。地面ごと揺れている感じで、立っていられませんでした。地震の直後は情報を得る手段がなく、家族とも3日間連絡が取れませんでした。その後、原発が危ないという話になり、まずは広野町からいわきへ避難。3日後には、東京の国立スポーツ科学センター(JISS)まで逃げてきました。津波の映像を初めて見たのはその時です。

アカデミーの選手たちはいったん解散して、自宅で自主練習することになりました。しかし、茨城出身の平澤をはじめ、実家が被災した選手が4人いました。その時に寝泊まりする場所も含めて、彼らを3週間引き受けると手を挙げたのが、大倉が所属していた湘南ベルマーレだったのです。

平澤
初めてJリーグの選手たちと一緒にプレーできて感激しました。大倉さんがかけてくださった温かい言葉は、今でもはっきり覚えています。その後、チームは静岡で合流して、すぐにサッカーを再開できました。しかし、広野町の人たちはまだ生活もままならない状況で、亡くなった人もたくさんいます。そんな中で、自分たちだけ何事もなかったかのようにサッカーをしていていいのだろうかという複雑な気持ちでした。

明確なビジョンがチームを創る

時計の針を一度戻します。1998年にアメリカで現役生活を終えた大倉は、スペインに渡り、ヨハン・クライフ大学でスポーツマネジメントを学びます。帰国後はセレッソ大阪でチームスタッフとしてのキャリアをスタートさせ、2001年には32歳という異例の若さで強化本部長に就任しました。

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大倉
当時のセレッソにはいい選手が揃っていましたが、自分の力不足でチームをうまくまとめられず、成績がついてきませんでした。その時に思い出したのが、ドイツでバイエルン・ミュンヘンのGMウリ・へーネスさんから教わった「サッカーは負け方が大事」という言葉。当時は意味がわからなかったのですが、ようやくその言葉の本質が理解できました。
湘南に移って最初にやったことは、チームが存在する意味を言葉にして、紙に書き出すこと。お客さんが負けても楽しかったと思えるフットボールは何か。そのためには監督はどうあるべきか。選手を獲得する基準は。すべてを言語化していきました。
お金がなかったので、心技体のすべてが揃った選手は取れません。だから、スター選手も含めてほとんどの選手を契約満了にして、心と体が整った選手を獲得しました。チーム内外に大きな波紋を呼びましたが、掲げた言葉、信念に沿っていたので迷いはありませんでした。
勝負事なので、勝たないと意味はありません。しかし、そのためにガチガチに守ってカウンターを狙う、みたいなつまらないサッカーをやっては本末転倒です。スポーツって人間が創り出すものなので、自分を殺して哲学がなくなると途端におもしろくなくなります。試合で生き様を見せないといけないのです。

Jリーグの誘いを断り、いわきFCへ

2016年、早稲田大学の卒業を目前に控えた平澤もまた、二十数年前に大倉がそうであったように、自らの進路について悩んでいました。選択肢は二つ。一つはJ3のチームで、もう一つはいわきFCでした。当時のいわきFCが所属していたのは福島県の2部リーグ。J1から数えると、実質8部のカテゴリー。J3とJ8のオファーがあった中、悩んだ末に平澤は後者を選びました。

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平澤
いわきFCを選んだ理由は3つあります。
まず、自分自身にまだまだ力が足りないと感じていました。一から歴史が始まるいわきFCで一緒に成長していきたいと思いました。一見遠回りに見えるかもしれないけど、素晴らしい環境が整ったいわきFCでサッカーに集中し、努力すれば、絶対に目標にたどり着くことができるはず。大事なのはカテゴリーよりも自分の姿勢。
二つ目は、福島県でサッカーができるということです。
今でもホームゲームの際には、中学や高校の同級生、お世話になった寮母さんが試合にかけつけてくれます。自分を育ててくれた町や人に恩返しできるのがうれしいですし、大きなモチベーションになります。
三つ目が、いわきFCのビジョンに共感したからです。
いわきFCは試合の勝利やJリーグへの昇格を目的としていません。僕らが目指すのは、あくまで魂の息吹くフットボールをして、見に来てくれた人たちに何かを感じてもらうことです。それができなければ、試合に勝っても何の意味もありません。実は、早稲田でも同じことをずっと言われていました。だから、いわきFCの目指すサッカーがすっと腹落ちしたのです。


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いわきFCが目指すもの

いわきFCはなぜ存在し、何を目指すのか。二人の生き様を知っていただいた今、冒頭で提起した問いの答えはもう出ているのではないでしょうか。

いわきFCにはスポーツで社会価値を創造するというビジョンがあります。具体的に言えば、チームが復興のシンボルとなるだけでなく、スポーツの力で経済的な価値を最大限に引き出し、町を元気にしていくことです。そして、いわきFCには勝利よりも大切なものがあります。それは、試合を見た人に何を感じてもらえるかです。

昨年、いわきFCは無敗で地域チャンピオンズリーグを制し、JFL昇格を決めました。結果だけ見れば簡単に事を成し遂げたように思えますが、その裏には選手にもスタッフにも大きなプレッシャーがありました。しかし、いわきFCはその恐怖に打ち勝って、どん欲に攻め続ける自分たちのサッカーでそれをつかみ取りました。今季はJFLに初参入。舞台を東北から全国に移して、ピッチを躍動します。

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鍛え上げられたフィジカルを武器に、ノンストップで90分間ピッチを走り回り、ゴールに向かってアタックし続ける、いわきFCの魂の息吹くフットボール。
「いわきFCのサッカーは見ていてワクワクするよね」
「楽しかったから、友人を誘ってまた来よう」
勝っても負けてもそう思える試合を、いわきFCの選手たちは見せてくれるはずです。

だから、
いわき市、広野町、楢葉町、富岡町、川内村、大熊町、双葉町、浪江町、葛尾村にお住いのみなさま。それ以外の福島県の地域や全国にいらっしゃるいわきFCに興味を持ってくださっているみなさま。ぜひ一度、スタジアムに足を運び、いわきFCのサッカーを体験してみてください。真っ赤に染まったスタジアムが、何より選手たちを勇気付けます。選手たちは魂の息吹くフットボールで必ずそれに応えます。いわきFCはみなさんと共に、前へと進み続けます。

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