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アメリカンニューシネマとワンハリとポストモダンその他に対して知ってる限りのことをつらつら語る

まあ、さえヴォーの言わんとしてることも分からんでもないが、ジョージロイヒルの「明日に向かって撃て」なんかどっちかって言うとあんまり敵を殺さないことを信条とする『不殺系主人公』の元祖ですからね。「やさしい西部劇」って言われてたし。
イーストウッドやルチオフルチのボンクラ血みどろマカロニウェスタンを見てたから「西部劇なのにこんなに人を殺さないんだ!」ってびっくりしましたよ。

「スティング」もあんま暴力的じゃないしジョージロイヒルはどっちかというと「やさしさの時代」的な文脈で受け入れられてた思う。(「ライ麦畑で捕まえて」系譜の「ヒッピーって優しいんだよ!ラブ&ピースなんだよ!」という感じのノリ
他のアメリカンニューシネマはともかくジョージロイヒルをあからさまなセックス&暴力と見做すのはまず絶対的に違うだろう。あと「ガープの世界」とか「小さな巨人」とかはどうなるんだろうかと。
要するにさえヴォーは「女性は抑圧されてた!男はセックス&暴力の男根中心主義者ばかり!ポリコレ以前の映画は差別ばかり!家父長制打破!」という結論ありきで映画を見てるからアメリカンニューシネマもそういう風に見えてしまうんですよ。
そらアカデミシャンよりホワイトカンバスの中卒の方が色眼鏡なしに物事を見れるよな。

ここからが完全に(セルジオレオーネ映画以上に)長い蛇足になるけどタランティーノは「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」の中で「カッコーの巣の上」「明日に向かって撃て!」「ガープの世界」「ファイブ・イージー・ピーセス」「さらば冬のかもめ」のような「ヒッピーアメリカンニューシネマ非暴力ラブ&ピース史観」に対して異議を申し立ててるんですよね。「嘘つけお前らはマンソンファミリーみたいなのを作ってあのシャロン・テート(映画オタサーの姫)をブッ殺しただろ!」と。
(実際のシャロン・テートは映画オタクから大根棒読みZ級役者扱いされてて無茶苦茶バカにされてたしそれは当然の評価ではあった、だからタランティーノには『俺のミューズ』の汚名返上の意図もあったんでしょう。フォローの意味で「サイレンサー 第4弾 破壊部隊」を出したんでしょうけどディーン・マーティン(ジェリー・ルイスの元相方、アル中)主演の底抜けボンクラスパイ映画(ロジャームーア時代の007のもっと悪ノリがひどくなったようなプロトタイプ版)ではどう考えてもフォローしきれないですよ

もしさえヴォーが言うように「アメリカンニューシネマ=あからさまな暴力やセックス表現が主な特徴」ならば、タランティーノの「ワンハリ」の「アンチヒッピーアメリカンニューシネマ非暴力ラブ&ピース史観」のスタンスが訳わからんことになってしまうんですよ。

でもアメリカンニューシネマヒッピーでも「卒業」のマイク・ニコルズは「ジャッキー・ブラウン」のOPにも引用するくらい尊敬してるから、マイク・ニコルズの作風の形代みたいなマンソンガールにはあまり当たりがキツくない、ブラピも車の中で髪とか撫でちゃったりしてるし機嫌よく「サイモン&ガーファンクル」をカーラジオで流しちゃってる

まあアメリカンニューシネマ時代の役者はやらかしてる人が多くてmetooでやいのやいの言われてたので、そこがさえヴォーのカンに触ってんじゃないのかなとは思う。
あとタランティーノが「ワンハリ」の中で「お前らはマカロニウェスタンのような60年代スタジオシステムプログラムピクチャーの方が暴力的で、スタジオシステム外のヒッピーどもの作ったアメリカンニューシネマの方が非暴力的ラブ&ピースだと言うけど、いーや、ヒッピーの方が暴力的だね!!」という"逆転の構図"を提示してしまった影響も相当強いんじゃないかと。
「ワンハリ」以前はむしろ「アメリカンニューシネマ=非暴力ラブ&ピース&ドラッグ&ヒッピー」のイメージの方が強かったんじゃないだろうか🤔

まあ、さえヴォーは川本三郎先生にニ時間くらいお説教されればいい感じに洗脳されるんじゃないかな。

でもさえヴォーは「個々では確かに女性が活躍してたりヒッピー系やさしさ映画もあったかもしれないけど、全体的な傾向としては男性暴力中心主義的だった!!」と言って絶対に譲らんだろう。ま、案の定でしたね。
「ダーティメリー/クレイジーラリー」なんか味噌っ歯のスーザン・ジョージ(グレース・ケリーのような全部が整いきった美形ではない)を起用した画期的な映画ではあるんだが。

あとシャロンテート出演の「哀愁の花びら」は映画オタクからは「オカマ映画」とバカにされてたけど(脚本そのものは凡庸なメロドラマだし)レインボームーブメントからは妙に評価が高くて、タランティーノ的には「ワンハリ」にそこも組み込みたい意図はあったんではねえかとは思う。あと初っ端の船のシーンでロマンポランスキー監督の「水の中のナイフ」に対する揶揄があったのには笑った。

タランティーノって意外と配慮はしてるんですよね。「ワンハリ」も「60年代ボンクラプログラムピクチャーがラブ&ピースアメリカンニューシネマヒッピーをぶっ殺してやったぜ!!」って映画だけど、マイクニコルズの形代みたいなもんでもあるマンソンガールヒッピーは見逃して生かしてるし、「イングロリアスバスターズ」も「B級ボンクラ穴だらけガバガバ映画が(ナチスに象徴される)いけすかねえA級レニ・リーフェンシュタール系カイエデュシネマ系ゲージツ映画をぶっ殺してやったぜ!!」って映画だけど、クリストフ・ヴァルツは生かしてる。

クリストフ・ヴァルツはB級ボンクラ映画の穴だらけガバガバシナリオを指摘して再構築し直すまさに脚本家タランティーノのような役割ですし、「生きるべきか死ぬべきか」の影響を受けた実質裏回し担当キャラですから。
(要はB級ボンクラ映画とA級ゲージツ映画の"通訳役"にエルンスト・ルビッチとメル・ブルックスを象徴させてる。あと「死刑執行人もまた死す」のフリッツ・ラングも入ってる。
ヴァルツがイタリア語でボンクラ軍団に話しかけるシーンはおそらくメルブルックス版「生きるべきか死ぬべきか」(「メルブルックスの大脱走」)の吹き替えギャグの影響だろう。
恐らくA級ゲージツ映画好きからもB級ボンクラ映画好きからも評価の高い監督の作風をツーカー役、潤滑油役にしたい意図があるんだろう)

まあさえヴぉーてんてえとにわかせんせヱの論争は「野生の思考」と象牙の塔の問題でもあると思うのですね。

なんか俺が「イングロリアスバスターズ」のヴァルツみたいな役周りになっちゃったが。


そもそもさえヴォーてんてーは自著で米国では「腐女子」のことを「スラッシャー」と呼んでると紹介してました。そしてその上で「私は腐女子よりスラッシャーという言い方を評価する」と言ってましたね。
片一方で「切り裂く」という意味の言葉を肯定的に評価しておきながら、もう片一方で「切り刻む」という言葉を通報レベルの否定的な侮辱として捉えるのはあまりに一貫性がなさ過ぎ、ご都合過ぎではないでしょうか。

要するに腐女子というのは原作を切り裂いて(おかずとして都合がよさそうな部分を)ポストモダン的、批評的に再構築再解釈する営為なんでしょうけど、だったら年間読書人がさえヴォーの本やフェミニズムの本を切り刻んでポストモダン的に批評的に再解釈するのもセーフでしょう。

自分にとって都合のいい使えそうなシーンだけ"切り裂いて"ホモエロ腐同人を作ってる腐女子と、バズりそうで揚げ足取れそうなところだけ切り抜いて印象操作してる切り抜き動画とフェイクニュースって何が違うのかと思わなくもないが。


さえヴォーてんてーは「あなたは私が「お姫様になることが女性の権利向上と考えているフシがある」などと私が思ってもいないことを言って人格攻撃を行いました。」と仰ってますが、では腐女子も原作キャラが思ってもいないような同性愛感情を勝手に解釈附与して二次創作してますが、これはキャラへの人格(キャラ格?)攻撃にあたるのでしょうか?
(相手の思ってもないことをこうではないだろうかと憶測して表現することが人格攻撃なら、原作キャラが思ってもない同性愛感情を憶測して表現することも人格攻撃になってしまう)
非実在女性のわいせつ(とみなされた)表現は規制して、非実在男性が思ってもい同性愛感情を勝手に付帯解釈させられて勝手に好きでもない男と絡ませられる人格攻撃二次創作表現は規制しない根拠はなんなんでしょう。(解釈違い()ってやつでしょうか?)

栗松という非実在男性に対する人格攻撃的二次創作表現


まあ表に出る以上他人から勝手に"郵便的誤配","脱構築","再解釈","二次創作"されるのは仕方がない側面もありますが。

尾田せんせヱは太っ腹である、ナミを自由に解釈し妄想し好きに楽しむのがセーフならドフラミンゴ41歳を自由に解釈し妄想し好きに楽しむのもセーフなのである。
流石煮えてなんぼのおでんに候である。
尾田センセヱは多分「無法松の一生」をおでんでやりたかったんだと思うけど、おでんがあまりにも間抜けすぎた。
無法松は無学で粗野ではあるがあんな阿呆な案に騙されるほど間抜けではないのでそこを見習うべきだった。

勝手にヘテロ有名人男性をゲイ化した二次創作ナマモノ同人が許されるのなら、勝手にさえヴォーをプリンセス化した二次創作ナマモノ同人を作るのもセーフである。byドフラミンゴ41歳)(需要あるのかね)

というか庇護される存在と女性像に文句(プリンセスフォビア)があるのならばまず上野に言え。


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