絶対に責任は取りたくないザムライ
今日もツイッターランドで歴史修正の嵐が吹き荒れている。
いやいやいやいや
思わず全表現の自由戦士がずっこけながらツッコミを入れてしまう、見え見えの歴史修正である。
戸定梨香氏と交通安全啓発動画を巡る一連の流れについては、神崎氏が克明にその記録を時系列順に残しているため、そちらを参照してもらうのがわかりやすいだろう。
ざくっと時系列をまとめると、
2021年7月 ご当地VTuber・戸定梨香氏が松戸警察署等と協力して、交通安全啓発のためのPR動画を作成
↓
8月 フェミニスト議員連盟が「抗議ならびに公開質問状」を送付して、「当局の謝罪、ならびに動画の使用中止、削除」を求める
↓
9月 実際に動画削除→翌日、おぎの稔・青識亜論によるフェミ議連への質問状の署名開始
という流れである。
「いや、めっちゃ削除求めとるやないかーい」と某髭男爵風(カツサンドのほうではない)にツッコミを入れてしまいそうになるが……
いちおう最善の相で解釈するならば、「当局に削除を求めたのであって、戸定梨香さんサイドが私的に動画を流し続けることまでは止めてないよ」ぐらいの話になるだろうが、交通安全啓発動画という性質上、警察と無関係に流し続けるというのは実際的には難しいだろう。
にもかかわらず、「削除の責任はフェミニスト側にはない!」と無理筋な主張を通すべく、無駄な、もとい、情熱的な努力を続けているのである。
これは、なにも中氏だけの話ではない。当のフェミ議連でさえ、わざわざ記者会見を開いてまで、
あげく、ダメ押しとばかり、公式サイトにはこんなことを掲載している。
フェミニスト議員連盟の主張を要約すれば、こういうことだろう。
「私たちは削除を要求したし、当局に謝罪を求めたし、性犯罪を誘発する懸念があるコンテンツだとも言ったが、削除されたことに対する責任はない。」
なにを言っているかわからねーと思うが、私にもわからない。無責任とか卑劣とかそんなチャチなもんじゃ断じてねえ……もっと恐ろしいものの片鱗を(略
なぜこういう認知になるのだろうか。その理由の片鱗が、フェミ議連の中心人物である、増田氏のFacebookへの投稿に現れている。
信じがたいことだが……彼女の中では、議員という立場であってさえ、自分たちは「砂粒みたいに小さな存在」で、権力などなく、したがって責任も存在しない、という世界観なのだ。
この世界観は、フェミニズムという思想の宿痾のようなものであって、例えば上野千鶴子と柴田英里の討論の際にも、上野は表現物の炎上騒動を「市民的アクティビティ」と称揚しつつ、表現の自由を抑圧するような力はないと断じた。
これは、残念ながら、本邦のフェミニズム運動の戦略が、非常に悪い形で今、理論の整合性をゆがめているのだ、と言わざるを得ない。
社会を動かしているのは「金と権力を持ったオッサン」で、女性は虐げられている弱者であって、その女性の「生きづらさ」を丁寧に救い上げて、オッサンと戦うこと、それが長い間、本邦のフェミニズム運動の様式であり続けた。
それはある意味では正しいことだったかもしれない。歴史的には長きにわたり、女性は参政権すらなかったのだ。今でも、意思決定過程に参与している性別の比は、男性に圧倒的に偏っている。だから、「社会を変える責任は男性にあって、女性は不平不満を口にすれば、それが市民的アクティビティだ。結果責任は男性がとればいい。けっこう毛だらけ猫灰だらけ。どっとはらい」などという言辞がいまだに影響力を持ち続けている。
だが……
そうした「不平不満の声」が、ある種の権力性を帯びる可能性について、あまりにも無防備だった。
戸定梨香氏の交通安全啓発動画へ突き付けられた「削除要求」は、明らかに権力者である議員が、地元で活動している芸能事務所の社長とVTuberの表現行為を、権力を笠に着て潰す、そういう構図だった。
警察ガー 警察ガー とつべこべ言い訳を並べても、事実は変わらない。
あなたがた、フェミニスト議員連盟は、表現を潰した。一人の市民、一人の女性から、表現の機会を奪った。
これがすべてだ。
結果を受け入れるべきだろう。
もし、自分のやったことに自信があるのであれば、「悪い表現を潰した、社会がよくなった、これは私たちの成果だ」と胸を張ればいい。本来、要求通りに社会が変わったのだから、勝利宣言をして、誇ってもいいはずだろう。
だが、それをせずに、「潰した」という歴史の方を改ざんしようとする。これはなぜか。
私も少なからずフェミニズムについての本は読んだし、マルクスやエンゲルスの左派の権力理論と呼ばれる思想は人並み以上には渉猟してきた。
そのうえで、一つ言えることがある。それは、フェミニズムが「帝王学」不在の思想体系だ、ということだ。
帝王学。それは物理学とか経済学といったものと違って、体系だった学問として存在するわけではない。いわば、権力を握った者に必要とされる所作、思想、ふるまいを学ぶ営為のことだ。
そこには、例えば、男性が権力を握り続ける社会、家父長制の問題点については実に雄弁に語られている。女性が権力を握る必要性や、そのための戦略についても書かれている。
だが、「権力を握ったあと」のことについては、驚くほど、なにも書かれていないのである。
権力批判はあるが、自分たちが権力を握ったあとのことは何も考えない。
「悪い男性とオッサンと家父長制と資本家を倒しました。女性と弱者が手に手を取り、連帯して幸せに暮らしました。めでたしめでたし」
これで物語は終わりなのである。女性だけの街が欲しいなあと言いつつ、できた後のことはなにも語らない人々のように。
権力を握るとは、誰かを救ったり与えるだけの麗しいものではない。誰かを救うためには、誰かを見捨てなければならないし、誰かに与えるためには、誰かから奪わなければならない。
帝王学とは、権力によって犠牲になった人々の犠牲を真正面から引き受け、自己の責任として背負い込む所作だ。
リベラルやフェミニストが馬鹿にしてやまない、自民党の「オッサン」たちは、少なくともその帝王学の実践者でありつづけてきた。少なくとも彼らは、愚かな弁明は数多くあれど、権力者という地位を「砂粒のように小さな存在」などと言って自らの権力の座を辱めることはしない。
故・安倍晋三氏だってそうだ。毀誉褒貶の激しい政治家ではあるが、職業政治家の家に生まれ、幼いころから権力者たるの覚悟を叩き込まれただろう。
権力者としての「覚悟」のほどは、残念ながら、砂粒議員ことフェミ議連の諸先生方は、「オッサン」議員に比べてはるかに劣っているように見える。
フェミニストは、女性に権力を、地位をと口にし続けてきたが、いざそれが与えられるやいなや、呆然自失となり、自己の権力がもたらした結果からは目をそらし続けることしかできなくなってしまった。
だから、潰された表現物や表現者という「犠牲」を突き付けられると、周章狼狽して、「表現を自分たちが潰した」という歴史を修正することでしか、対応できなくなってしまうのだ。
これは、戸定梨香氏の案件で終わることではない。
今も、フェミニストの起こした炎上騒ぎで、Switch『マッサージフリークス』が発売延期となったが、さっそく、「フェミニストのせいじゃない」という歴史修正百裂拳が敢行されているのである。
そして、お決まりの必殺「一人一派アァァァァ!」が炸裂する。
一人一派なら一人一派でいい。だが、それなら、曖昧にすることなく、「表現をなくすことを求めるのは誤りだ」と言えばいい。現状では、単に自分たちの言論がもたらした結果責任を避けるための文句でしかなくなっている。
自分たちが表現物を「女性差別」と攻撃したのだから、表現物が潰れたとしても、「差別表現がなくなった、これは良いことだ」と胸を張ればいい話である。上野の言うように、「けっこう毛だらけ、猫灰だらけ」と断じればいいのだ。
だが、それをするやいなや、途端に、権力を振るった側に自分たちは立たなければならない。
憎悪をされて当然のことをやりながら、憎悪を受け止めたくない。
自分たちが口々に叫んできた権力への憎悪と不平不満を、今度は自分たちが受ける側に回ること――つまりは、それが権力を担うということなのだが――その覚悟を持つ気はないし、責任を取る気もない。
だから、やれることはただ一つ。
今日も全身全霊をかけて! 歴史修正に励むのである!
「責任は取りたくないでござる!!」
「絶対に責任は取りたくないでござる!!」
炎上大好き侍のみなさんは、今日も、責任は取りたくない侍として華麗な転身を果たし続けるのであった……。
最後に一言。
「責任から逃げるなアアアアアアアアアアアア!!」
以上
青識亜論