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「適当」について考える

そんなに働いて大丈夫?と思う人が身近にいる。
「なぜそこまでできるのか」と聞くと、
「適当にやっているから」「適当が大事」と教えてくれた。

「なぜそこまでできるのか」というのは、なぜ組織のためにそこまで身を削ることができるのかという意味だが、そこも「適当」なのか。

そもそも「適当」とはなんだろうか。
コトバンク(デジタル大辞泉)によると、

[名・形動](スル)
1 ある条件・目的・要求などに、うまくあてはまること。かなっていること。ふさわしいこと。また、そのさま。「工場の建設に適当な土地」「この仕事に適当する人材」
2 程度などが、ほどよいこと。また、そのさま。「調味料を適当に加える」「一日の適当な仕事量」
3 やり方などが、いいかげんであること。また、そのさま。悪い意味で用いられる。「客を適当にあしらう」「適当な返事でごまかす」

程よくやっているから、膨大な仕事量がこなせるのか。

まずこなせないと、”程よく” もなにもなく、行き詰まっている状態ではないかと思うが、行き詰まったら”程よく”助けを求めたり、聞けばいいのか。そうやって一つずつこなしていくのか。こんな当たり前のことが難しくて病むんだから、メンタルの観点ではどんな環境にいるかも重要なポイントになりそうだが。

”程よく”も人ぞれぞれであり、他の人と比較すると病みそうにもなるので、自分の”程よく”でよそさうと思いつつ、自分の”程よい”状態を知ることも必要だなと。抱え込んで自爆しないためにもだいじかなと。

あとは、こなせる状況にあるのであれば、こだわりが程よいのか。

「適当」は、こだわりすぎないとも言えるかと思えてきた。


まあ、はじめに戻るが、組織と本人の距離感はどうなっているのか興味があるので、再び聞いてみたいと思う。

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