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なればなる、ならねばならぬ、何事も?

毎日は金太郎あめのようにどこを切り取っても同じような表情で過ぎていく。そしてそれが普遍に続いていくような気がしてしまうものだけど、日用品が少なくなって、買い出しに行く道すがらなどに、あぁ今ここにある全てのものは少しずつ着実に「無くなる」方向へと向かっているんだなぁ、と当たり前のことにじんとする。

日用品は使ってるから無くなるのは当たり前なんだけど。物だけではなく、人や犬や建物や景色も、みんな永遠にここに存在しているような顔で座っているけれど、ベルトコンベアーの上に乗って少しずつ刷新される世界の隅へと向かってゆっくりと流れていっている。もちろん、私も。

そんなことを思ってじんわりとしつつ、でも、まぁ、終わりがあるのって、終わりがないよりいいよな、という気もする。無理矢理にではなくて、子どもの頃から私が一番恐れているのは、終わりのないこと。

さて、以前の記事に、自分の思惑とは裏腹に学科長になったという話をしたが、そうこうしているうちに学科長としての一年が終わり、そして、怖れていた通り、今年もまた学科長をすることになった。終わりのない学科長。ネバーエンディングチェアー。

ではなくて、正規の学科長の就任期限は5年。終わりはある(よね)。私の場合は、正規の学科長としての契約ではなく、一年ごとに更新されるので、終わりがないような気になるけれど。

それはそうと、学科長を一年務めてみて、以前からずっと思っていたけど、やっぱりこういうことだよねと体感したことがあった。

それは、人はその役職になるから、その役職になっていくのだということ。

親になるのと似ている。親になるから、親になっていく。最初から親の人間はいないわけで。

仕事もそう。その役職に就いて、その仕事をしているから、周りもそういう扱いをする、こちらもそういう態度になっていく。

勿論中には、その役職にふさわしいから選ばれてなる人もいるだろうけど、おそらく多くの場合、その役職に選ばれたから、その役職になっていく、という順番が正しいのかも。他に誰もいなかったから仕方なくという私のようなケースや、くじ引き、じゃんけんなど選ばれ方はなんであれ。

私自身に関して言えば、決してナチュラルに学科長然とした人間ではないが、学科長になってもキャラクターに変更なく、いつもの調子でやっている。それでも周囲の人間の私に対する接し方の変化は、ミルクを入れる前と後のコーヒーの味のように明白で、しばらく戸惑った。

ワンオブゼムから決定権を持つ人間になるとは、こういうこと。(実際は、何事も学科チーム全体で決定するので、私個人の意見で何かを決定することはないのだけど、外からはそれが見えない。)

元学科長で、私が学科長になると同時に副学長に昇進した同僚などは、以前の自信のない弱弱しい物腰はいつの間にやら姿を消し、堂々と、パワーを保有する人間特有の雰囲気を醸し始めていて、ほぉ、とコンパクトな進化の過程を目の当たりにするようだった。

なんだか姿勢までピンと伸びている。歩き方まで颯爽としておる。座り方まで自信に満ちている。

その同僚は白人男性なので、そもそもからしてナチュラルにパワーを保有するグループに属していて、色々な点でフリーパスを持つ特権と共にあるから、自然とその役職が板に付きやすいというアドバンテージはあるのだろう。

女性やマイノリティ(分野によって、どのグループがマイノリティになるかは異なるけれど)は、まずそもそもパワーを保有する役職に選ばれにくい。

この人なら適役では?という思考に上りにくいというところから始まり、その役職についている人々のイングループ(同属グループ)に対する無意識の優遇も相まって、アウトグループであるマイノリティは名前が上がりにくく、選ばれにくい。

選ばれなければ、パワーを保有する役職のイメージが板に付きにくいから、さらに新しい人材が育たないというループ。

女性やマイノリティの方々がどんどんパワーを保有する役職についていって、そういう役職然とした態度になって、そういう役職が自然に板に付いていくというのが、今の不平等を改善するには必要なんだな、と自分が学科長になってみてそう思った。もちろん、同時に女性やマイノリティがその役職で成功できるようにサポートするシステムも必要だ。更に言うと、マイノリティをその役職につけるという目的のためだけに、その役職に就きたくないマイノリティを利用することなしにこれをする必要がある。

中には、やっぱりその役職をこなせずにダメダメな人も出てくるかもしれない。けれど、白人男性の管理職にもダメダメ人材はゴロゴロと存在しているわけで、彼らが他より秀でているから管理職になっているというわけではないということも鑑みれば、せめて職場、地域の人口分布と比例した割合で、パワーを保有するマイノリティの人口も存在するといい。

個々の状況によって、割合はかっちりとはいかないにしても、採用の時点から、その点を意識して調整していかないと、いつまでも、イングループに対する優遇が止まらず、自分でも知らないうちに、「この人、俺と同じ大学出身!それになんとなく、印象いいな!」というぼんやりとした感覚で、既得権益温存ループが出来上がる。

私の大学の場合、同じような英語訛りがあって(またはなくて)、同じようなマナーを持って、同じような服装で、自分と同じような文化的背景を持つ白人男性・女性を雇い続けることになる。

それで、なぜか、マイノリティの中には有能な人材がいないから!とか言っちゃうから、いやいや、そうなんでしょうか?となるのです。

Rye Barcottの本で有名になった言葉:Talent is universal, but opportunity is not.

能力はどこにでも存在するが、(それを活かす)機会は誰にでも同様にあるわけではない。


機会をどう平等に分け与えるシステムを作るか。機会は、ゼロサムゲームではないので、それを他に与えたとしても今恩恵を得ている人が恐れることはなにもないはずなんだけど。