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小説 『紫翡翠』 (3/5)

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©sarakgraves via Canva.com

夜が明けると李駿は伊吾(ハミ)を目指して国境を越え、莫賀延磧(ばくがえんせき)と呼ばれる砂漠にさしかかった。見上げれば澄み渡る紺碧の空。乾いた風が吹いていた。後ろを振り返れば、広大な大地に烽燧台が点々と連なるのが見える。かつて沙河と言われたこの砂漠には一切水も緑もなく、鳥獣一匹たりともいない。まこと死の砂漠であった。このような風景が南北八百余里も続くのであり、中国より西域北道を通過する者にとって最初の難所であった。北上の途中、砂漠の炎熱に苦しまされながらも、ようやくのことでここを抜け出して、彼は伊吾にたどり着いた。伊吾で水を革袋に足して休養をとってから、李駿はそこより西の高昌(トルファン)へ向かった。

高昌を発ち、高昌故城、焉耆(カラシャール)を過ぎて、ゆるやかな砂丘のところどころに駱駝草が生え、時に砂利灘に行き会う道を通ること数日後にして、ようやく李駿は任地の亀茲に到着した。亀茲の城門をくぐると、従者が前に立って道を空けさせ、別の従者が馬上の李駿に日傘をさしかける。李駿は悠然と城下を通って行った。彼は安西都護府で都護や都督らに迎えられ、一通りの引き継ぎを行った後に着任した。中央が彼のような有能な官僚を派遣してきたことは現地において喜ばれたが、昨今概して現地の事情と都合を顧みることの少ない長安への、都護府の役人たちの不満はそれでも一向に収まらなかった。

安史の乱の平定後、皇帝と中央政府は内政に多忙で、西域を顧みる余裕がないため、このごろ西域都護府は遊牧民たちの動きに対して常に受け身の姿勢であった。そこでタリム盆地に入り込んでくる突厥や吐蕃の勢力は次第に数を増していた。しかし唐の支配下にある西域各都邑の兵力は十分に増強されず、その他の中央からの支援もここのところ頭打ちで、所によっては往時よりも規模が狭められさえしていた。唐朝自体が既に衰退期にさしかかっていたのである。胡人は唐支配下の都邑を狙っていた。

李駿が亀茲の安西都護府に勤めて二年後、亀茲の都は吐蕃の襲撃を受けた。李駿はそのとき偶々、所用で城外に出ていた。都の閉門まであまり時間がないために、彼は馬を急がせていた。砂漠の彼方に都の姿が小さく現れた。太陽が大きく西に傾き、空が薄暗くなりゆく頃、あと十数里ほどで亀茲に着くという道の途中で、南側の烽台に火が上がったのが見えた。李駿が驚いて、馬足を緩めて辺りを見回すと、突如、遠く前方の右手に、密集した何百もの小さな火が暗い砂漠の中にぱっと現れた。それらの火は勢いよく北のほうへ駆けてきて、道を塞ごうとしていた。敵襲だ。都に入れなくなったことを即座に悟ると、李駿は手綱を精一杯引いて馬を止め、急いで今きた道を引き返した。すぐに緩やかな丘陵地帯にさしかかると、道を外れて丘の裏手に回り、馬とともに身を隠すと、息をひそめて都の様子を窺った。

やがて都の随所から火柱と煙の立つのが見え、彼は震えながらそれを見守っていた。道の向こうからたくさんの馬の足音が聞こえた。見るとそれは遊牧民ではなかった。都から脱出してきた隊商だと分かり、李駿はすぐに彼らの後を追って合流した。それは天竺(インド)人たちの隊商だった。話を聞くと、亀茲は吐蕃によって占領されたという。正面から襲ったのは囮の枝隊で、駐留兵たちがそれに気を取られている隙に本隊が都の背後から急襲したらしく、都護府はひとたまりもなく陥落したらしかった。その隊商は城内に蛮族たちが侵入した直後に、隙をついて抜け出したのだという。

李駿たちはその後、遊牧民の追撃を避けるために、幾つもの砂丘を越え、蘆の生える草地を越え、皆でひたすら西へ向かった。共に逃避行を続けているうちに、李駿は隊商の長と親しくなった。色黒で体の大きな長は彼に言った。

「この辺りから、西の都という都はみな、大食(アラブ)人どもが荒らし回っている。彼らは我々天竺人のごとき仏教徒には過酷な仕打ちをする。ひとまず天山を越えて北へ逃げることにしよう。タムガジュ(唐)の人よ、貴方は国を離れて西域を深く旅をしたことがないからまだ知らないだろうが、天山の山々は蓬莱山や須弥山にひけをとらぬくらい神々しく偉大な山々だ。その向こうには草原に囲まれた美しい国々がある。川や湖が沢山あるので水にも困らない」

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