見出し画像

小説『紫翡翠』 (5/5)

(ヘッダー画像の素材)
©sarakgraves via Canva.com


紫翡翠を強く手のひらの中で握りしめると、冷え冷えとした感触が体中に走った。李駿は小さく震える手で宝石を懐にしまった。

そして彼は立ち止まって、今一度どう身を処するべきか考え直した。望郷の念断ち難く、一度は何としてもすぐに唐に戻ろうと考えたが、途中の亀茲が吐蕃に制圧され、商人が死に際に薦めてもいたので、迷っているうちにいつしかバグダード行きの方へ心が傾いていた。結局、彼はやはり西域を旅することに決めた。このとき彼は、まだ、自分がこれより二度と唐土を踏むことがない運命にあることは、知る由もなかった。

疏勒までの道中で、李駿は再び不幸に見舞われた。空に風の荒々しい轟きが満ち、みるみるうちに砂漠に濛々と砂塵が舞い上がった。李駿と馬は、すぐに一寸先も見通せないほど物凄い砂塵嵐に呑まれてしまった。目をきつく閉じて顔を打つ砂粒を払いのけた。近くで空が竜のように吠えた。彼は強烈な横風に見舞われた。

「しまった、竜巻だ」
李駿は馬を疾走させて逃れようとしたが、砂に足をとられてうまく進めなかった。一陣の強風に煽られて馬が転び、李駿は地面に打ち倒され、そして気を失った。砂がどんどん彼の上に覆いかぶさってくる。次第に意識が薄れゆく中で李駿は死を覚悟した。底無しの暗黒に、彼は呑みこまれていった。

どれくらいの間意識を失っていたのかは分からない。しかし、目が覚めてみると、李駿は自分が薄暗い天幕の中に布団をかぶせて横たえられているのに気がついた。彼は目眩がした。それからじきに自分が助かったことを知った。

天幕に人が入ってきた。遊牧民の娘らしい女が、革袋に入った駱駝の乳を彼に飲むよう勧めてくれた。李駿が礼を言って、女をよく見てみると、なんと彼女は、西域赴任にあたって滞在した敦煌の高楼で踊っていた粟特人の娘ではないか。李駿は驚いて言った。

「君が…君が助けてくれたのか」

「まあ。以前どこかでお会いしましたかしら」娘は怪訝そうに尋ねる。

彼は二年前の敦煌でのことを彼女に話した。娘はようやく思い出した。そして娘が話すところによると、この遊牧民の小さな一団は部族内の争いで分裂して孤立した回鶻の一部族で、娘は一年前に砂嵐のせいで仲間とはぐれた後、彼らに助けられて、共に旅をしているのだという。

彼女は機を見てさらに西の、大食人に征された粟特人の都、康国(サマルカンド)へ行くつもりだった。回鶻は唐と親しかったので、李駿は安心した。彼は疏勒を越した後の、バグダードまでの行程のことをまだ考えておらず、康国がその中間の、やや北方にあると知っていたので、そこにも立ち寄ろうかと考えた。

夜になると彼女は再び踊りを披露してくれた。遊牧民のリュートの調べに乗って、娘は軽やかに舞った。焚火から飛ぶ火の粉が闇にばら蒔かれ、ふり乱した金色の髪に炎が映える。薄桃色の絹の袖が妖しく翻った。小気味よく跳ねる絹の上靴が砂を蹴る。遊牧民たちは車座になって眺め、拍手喝采して囃し立てている。娘は踊りながら、長い睫毛の下に明るく輝く緑色の瞳で李駿にいたずらっぽく流し目を送った。彼は、娘の可憐さと艶やかさにすっかり魅了され、しばしの間、時を忘れて娘を黙って見つめるばかりだった。

その晩、李駿は娘と共に康国へ向かうことを決意した。

         
              —おわり—
                (1994)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?