見出し画像

小説 『紫翡翠』 (1/5)

(ヘッダー画像の素材)
©sarakgraves via Canva.com

時代は唐朝の後期、徳宗の治世の頃に李駿という若い官僚がいた。字は大明。この男は生まれつきの秀才で、そのうえ勉学に刻苦精励した甲斐あって、齢わずか二十三にして科挙に合格した。聡明で謙虚な人柄のために人望あつく、前途有望な青年であったが、長安に奉職して七年後に、何か考える所があって中央での出世を志す事がなくなり、西域経営の一端を担う職を志願した。ほどなくして彼は西国において任にあたることとなり、当時の東トルキスタン(現新疆ウイグル自治区)の中央部にあって漢民族の支配する都、亀茲(クチャ)に置かれていた安西都護府に赴き、都護を補佐する中央派遣の高級官僚の一員として行政職務に就くよう辞令を受けた。

長らく親しんだ僚友たちと別れを惜しみつつ長安の都を発ってから、馬に乗って国を横断し、武威、張掖、酒泉を経由して後、李駿は砂漠に囲まれた辺境の要害の地、かの甘粛西部の城邑、敦煌に到着した。彼はここに数日ほど滞在して、砂漠の旅に備えて糧食、旅装を十分に整え、従者と馬に十分に休養をとらせた。いよいよ敦煌を発って大唐国を出る日の前夜に、李駿はここに赴任していた官僚で義兄の張焉の招きを受けて、遠くに断崖となって聳え立つ鳴沙山東麓の莫高窟千仏洞をのぞむ、柳に囲まれた高楼で酒を酌み交わしながら、ささやかな宴に興じていた。張焉は義弟に言った。

「李長子よ、西域はかつてとは違い、今や大唐の統治が有名無実なものとなりつつある。回鶻(ウイグル)たちの手を借りて、かろうじて支配を保っている有様だ。おまけに近頃では突厥(テュルク)ばかりでなく吐蕃(チベット)とかいう胡族までが砂漠を跋扈している。それに、天山よりも西のほうでは回教徒が辺りの国々を纂食しているとも聞いているぞ。べつだん左遷された訳でもあるまいというのに、どうしてわざわざすき好んで、そんな不穏なところまで赴こうというのだ」

「兄上。ご存じのとおり、かの安禄山の叛乱が収まって後も、中央では尚、人心は大いに乱れ、腐敗ばかりがはびこっております。ここでもし西域統治の箍がいっそう緩むようなことがあれば、遊牧民たちはこぞって東へ攻め寄せ、いずれ長安は彼らの手に落ちてしまうでしょう。世に遍く天子の御名を轟かせる大唐国が、その栄光の不滅ならんことを期すならば、むしろまず外患を断って然る後に内憂を正すべきだと考えました。さもなければ、かつての貞観の治のごとき栄光を大唐に再び取り戻すことは到底適いますまい」
李駿はうつむいて、思い詰めたような様子で顔をしかめた。

「そうか。お前は昔から律義な男だったからな。ならば気をつけて行くがよい。李長子よ、ひとつ教えておくが、砂漠に入ったら決して踏み慣らされた道を外れてはならん。たちまちのうちに迷い、灼熱の太陽と砂に焼かれ、渇いて死を待つばかりとなる。陽が沈んだら火を焚いて、厚手の毛皮の衣服を纏うことを忘れるな。そのまま寝ては凍え死ぬことになるぞ。竜巻や流砂にも気をつけろ。都に近づいたら、追いはぎの待ち伏せがないかどうかよく注意しろ。ともかくしっかりやれ。西域は全ての意味で俺たちの国と勝手が違うからな。無事を祈ってるぞ」

そう忠告すると、張焉は選別として一篇の詩と錦糸の細帯を義弟に贈った。李駿は義兄の好意に感激して、自らも敦煌の地を称えつつ惜別の詩を詠み、上等の墨と山水画を返礼に義兄に献じた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?