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小説『紫翡翠』 (4/5)

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©sarakgraves via Canva.com



しかしタリム盆地の西端、姑墨(アクス)の都の近郊で、李駿たちは追いはぎ共に襲われた。道中に小さなオアシスを見つけて李駿が水を汲みに行っている間、隊商の長を除く全員が彼らの刃にかけられていた。しかし天竺人たちも必死で抵抗していたので、追いはぎの方も次々と倒され、あと二人を残すのみであった。

戻って来て事の次第を悟った李駿は、怒りに身を任せて、背後から追いはぎの一人を水の入った革袋で殴り倒した。そして足元に落ちていた胡弓と矢を拾うと、傷ついて地面に膝をついていた隊長と、彼に切りつけようとしていたもう一人の賊との間に素早く割って入り、このならず者に向かって弓矢を構え、牽制した。

賊は目を血走らせながら李駿を睨みつけ、剣を構えながらにじり寄ってくる。李駿は矢の鏃を彼の心臓に向けぴたりと狙いを定めた。そして隙をみせるまいと毅然と睨み返すと、突然、賊は身を翻して逃げ去って行った。後にはただ、砂の上に踏み散らされた足跡が残るばかりであった。

ほっとする間もなく、李駿は隊長を介抱しようと寄っていった。隊長は地面に崩れ落ち、腹から血を流しながらうずくまっていた。彼はもはや虫の息であった。

「ひどい傷だ。主人よ、しっかりして下さい。いま薬をあげます」

「李駿殿、私はもう駄目だ。どうか私に構わないで先をお行きなさい。そうだ、これを持って行くといい。道中いろいろと親切にして下さったお礼だ」

苦痛に呻きながら商人は懐から紫色の宝石を取り出して、李駿に渡して言った。

「これは…」
李駿が戸惑って尋ねた。

「私はじつは、天竺北方のさる王家の末裔だったのだが、故国が回教徒どもに蹂躙され、やむなく国を逃げ去って、身寄りなき放浪の商人となり、砂漠を臣下と共に隊商となってさまよっていたのだ。これは家宝の翡翠の宝石だ。先祖代々王宮に匿されてきた大日如来の虹色の厨子の中から持ち去ったものだ」
かすれ声で長が言う。

「これは、一体なんということでしょう。しかし主人よ、翡翠とは胡人の瞳のように深い翠色の宝石だと見知っておりますが、これはまるで、暁の空のように深く澄んだ紫色ではありませんか。私は未だかつて、このような見事な色の宝石を見たことがありません」

「天竺より東方四千里、唐の国より遥か南海の奥地にて産する優れた翡翠の中でも、これは稀代の名玉で、名を紫翡翠(しひすい)という。古来の言い伝えによれば、神話の時代よりこの世にあって、比類なき霊力を宿し、世界に跨がる大帝国を以てしても贖えぬほどの価値を有しているという。これに較べれば、かの于田(コータン)の玉とても、ただの砂利と大差無いというほどのものだ。依ってこれを砕き、粉に挽いた後、正しい処方に基づいて調合を行うならば、これより不老長寿の霊薬を得ることができる。家宝だったので、私には出来なかったが」

「しかし、そのような宝は、私ごときのような卑しい一小吏の手に余ります。一体私はこれを持って、これからどうしたらよいのでしょう」

「李駿殿。ここから西方のはるか彼方に、唐に勝るとも劣らぬ栄華を極めている都がある。黒衣大食(アッバース朝)の国の都で、名をバグダードという。国の人間たちに太上老君のごとく崇められ、偉大なカリフと称えられているハルーン・アッラシードが、そこを治めている。カリフにこれを献上するなら、かの国の優れた錬丹術をもって不老不死の丸薬を得ることも夢では無かろう。道程は遠いが、是非行ってみると良い。きっとこれも何かの巡り合わせだ。行って永遠の命を手に入れられよ」

そう言い残すと天竺人の商人は息絶えた。李駿は泣く泣く隊商の皆の骸を埋葬すると、疏勒(カシュガル)の都を目指して西へと歩きだした。

彼は商人から渡された紫翡翠を白い太陽の光に翳してみた。それは深い紫色の底に黒い渦を巻いているように見えた。その深みの美しさに魂が吸い込まれそうになるような気がして、李駿は思わず紫翡翠から目を背けた。

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