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小説 『紫翡翠』 (2/5)

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©sarakgraves via Canva.com

張焉はいたく喜び、宴の最後の余興だ、と言って両手を打ち鳴らし、ひと声叫んだ。するとそこに数人の楽士と美しい薄絹の服を纏った一人の踊り子らしい娘が入って来た。みな異国の装束である。高楼には月の光が眩しいくらいに降り注いでいた。その光でよく見ると、踊り子は彫りの深い顔立ちの金髪緑眼の娘であった。女は、粟特(ソグド)人の商人の娘だという。張焉が芸人たちに亀茲楽を所望すると、楽士たちが奏で始めた笛と鼓の楽曲に合わせて、娘が虎のようにしなやかに体を操り、金髪を宙に踊らせながら舞を舞った。軽妙な振り付けながらも観る者に優雅に映る、異国の不思議な舞。月影を背に華奢な体を包む袖が蝶のようにはためいている。長い睫のまばたきさえも月光は瑠璃碗のように透かして、李駿は舞う娘の姿に思わず心を奪われた。彼はいま、極楽に舞う天女を目の当たりにしているかのような気がしていた。

翌朝、張焉が見送りにやってきた。李駿は朝早くから起きていて、唐土を惜しむように眺めていた。出発の時刻になると、李駿は世話になった義兄に別れを告げ、馬を三頭、駱駝を二頭、そして五人の従者を連れて、後ろ髪をひかれるような思いで敦煌を出た。ほどなくして玉門関にさしかかる。門の辺りで李駿は、昨夜の胡人の芸人一座を見かけた。みな一頭の大きな駱駝の荷鞍の上に固まって座っている。あの踊り子も座っていた。誰もこちらには気がついた様子がない。笛を持った楽士が何か珍妙な曲を吹いている。他愛のない戯れ歌らしい。彼らもこれから何処か西方へ旅立つのだろうか。李駿はふと、また娘のことが気になった。

玉門関を通り抜け、慣れない旅に難渋しながらも、彼はまる一日の後に万里の長城の立つ北側の国境までたどり着き、烽火台のそばで一夜を明かすことにした。砂漠の向こうに土煙が立った。はるか西の地平線のほうでは、沈み行く夕陽をうけて明々とロプ・ノールの湖面が輝いている。その傍らには、漢代に滅びてタクラマカンの砂に埋没した伝説の都、楼蘭(クロライナ)が眠っているはずだった。天幕で寝るのが初めてのうえに砂漠越えを不安に思っていたので、李駿はなかなか寝付けなかった。タクラマカン砂漠から、夜通し不気味な風音が響いていた。それは砂漠に散った人々の亡霊の呻き声のように聞こえた。

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