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本当の「その人らしさ」とはなんだろうか。そもそも、唯一無二の「その人らしさ」なんてものは存在するのだろうか。|『ある男』 / 監督・石川慶

鑑賞日:2023/03/19
劇場:TOHOシネマズ日本橋


出自、名前、国籍、職業、経歴、役割、ルックス、といった"ラベル"。


その人間が持っているラベルに付随する情報や性質によって、その人間のことを素早く理解する。そういった人間のある種の防衛本能が、その人自身の本質とは関係なく、他者から見た「その人らしさ」を形成する。そして、その人の言動行動がそのラベルに当て込まれ、「やっぱり、あの人はああいう人だから」と都合よく断定されていく。

本当の「その人らしさ」とはなんだろうか。そもそも、唯一無二の「その人らしさ」なんてものは存在するのだろうか。「その人らしさ」は接する人の数だけ存在する。それでいいのかもしれない。相手によって多少なりとも接し方は変わるし、その人に対する受け取り方は受け手によって変わって当然だ。本人サイドもその相手サイドもラベルに捉われ、翻弄され過ぎてしまっているのが現代社会かもしれない。

りえと大祐と悠人の3人で散歩をして、りえが蹴った石を車にぶつけて、慌てて走り去るシーンは、彼女がそれまで無意識に演じていた役割(ラベル)や重圧から解放されたような清々しさを感じた。

シーンごとに、その時々の立ち位置や役割に合わせて"顔"を変える演技が求められた俳優陣が、自分をコントロールしてその時々の“顔”を作っているという感ではなく、シチュエーションによって自然と“その顔”が引き出されていると感じる本作の演技が凄まじかった。


本が先か、映画が先か。


原作は数年前に購入していたものの未読のままで、映画の公開を機に原作を読むか、先に映画を観るか、思案した。以前、『マチネの終わりに』の原作を読んだ後に映画を観て「あれだけの文学的名作を実写に落とし込む、映画の尺に落とし込むには無理がある」と思われされた経験があったから逡巡した。しかし、石川慶監督と実力派俳優陣の映画ということで、この映画こそはピュアな状態で楽しみたいという思いから、映画を先に観ることにした。

例えば、窪田正孝の演技。自分が本を読んで想像するXはきっと、もっと同一性が高い人物になっていたかもしれない。あんな風にそれぞれの場面で「もはや他人」にすら感じる表情や姿勢や目つきをした人物像は想像すらできなかっただろう。まさに映画でしか出来なかった体験と言える。妻夫木聡も安藤さくらも圧巻だった。いい役者といい監督が組めば、こんなものが観られるんだと感動すら覚えた。

それにしても、石川慶監督の凄みを感じた作品だった。場面の展開数とシーン数が多いのに、ツギハギ感がなかったり。大事なシーンにおいても、受け取り方を断定させないような余白のつくり方してこない良さ。わざとらしさやわかりやすさ、作り手側の意図を感じさせないからこそ、心揺さぶられた。一方で、面会室のシーンでは現実離れした演出が施されるなど作家性を大きく感じた。

いい映画を作るで終わらず、その映画との出会いをいかに作っていくか


唯一悔やまれることがあるとすると、宣伝。こんなにも優れたメジャー作品が、(日本アカデミー賞を取るまでは)コアな映画ファン以外に知られないまま上映を終えていってしまうのは残念でならない。この作品を単なる「豪華キャストのミステリー作品」ぽく打ち出してしまうのはもったいない。もっと多くの人が自分ごとに感じられる普遍性を持つ作品だけに、その普遍性を主題とすべきだった。

https://www.youtube.com/watch?v=4bBruEnNk8k



日本映画界には様々な問題があるが、"宣伝"の質と手法が変わらない限りは、数少ない良作も報われることなく上映期間を終えてしまう。そうすると、良作であっても投資対効果が無いという判断となり、ますます良作が作られづらい環境となってしまい、わかりやすく集客が見込める映画への投資集中が加速してしまう。日本映画の数ある課題の中でも最も重大なのは、実は宣伝なのかもしれない。


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