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米津玄師の歌詞に食らいまくった話〈がらくた〉

 表題の通りです。

 2024年8月21日に新たにリリースされた米津玄師さんのアルバム『LOST CORNER』の歌詞に大いに食らわせられました。

 特に〈がらくた〉にやられました。すでに何十回も聴いております。

 今回は〈がらくた〉で個人的に食らった箇所を、個人的見解とともに追っていきます。

あとは、米津玄師さんの音楽観の変化にも最後に言及できればと思います。

30人いれば

30人いれば一人はいるマイノリティ

がらくた

 まずはこちらですね。彼にしては「マイノリティ」という表現はかなり直接的な言い回しだと思ったのが第一印象です。

 彼は"はぐれものであること"を歌い続けてきたと勝手に解釈しておりますが、ここまでダイレクトに伝えるのは珍しいと思います。

 「30人」は学校のクラスを想定しているようです。今回の文章を書くにあたり参照した、彼へのインタビューで語られていました。

30人というのは、学校のクラスってそれくらいだよなという思いもあって。「何万人に1人」とか「何十人に1人」とかって誰しも一度は聞いたことがある表現だと思うんですけど、子供の頃「どこにいても、何をしていても自分がその1人なんじゃないか」と思っていたことを覚えているんです。…

音楽ナタリー
米津玄師 4年間の旅の先 たどりついた失くし物の在処

 「○○人に1人」とよく聞くものの、いまいち実態を伴っていなかった「マイノリティ」という存在が、「学校のクラスにいる1人」と言われると途端に感触が生々しくなる。なぜなら、我々の記憶にあるクラスの人間は、往々にしてみんな顔と人となりを知り合っている仲だから。
 何でもない顔をして過ごしていながら、もしかしたら、人には言えないことで悩んでいたのかもしれない。あるいは、自分がその1人だったのかもしれない。

僕で二人

30人いれば一人はいるマイノリティ
いつもあなたがその一人
僕で二人

がらくた

 ここですね。たまらねぇ。
 "あなた"だけじゃないんですよ、と。"僕"もいて、1人じゃない、と。たまらねぇ。
 なんて包容力。しかし、傷の舐め合いではない。ただただそこにいるだけ。ただし突き放しもしない、この距離感。
 距離感の大切さを米津さんはよく把握しており、「自虐」の危険性についてインタビューでこのように語っていました。

自虐って、3パターンくらいある気がするんですよ。

──その3パターンというのは?

1つ目は、周りに自分よりすごい人たちがいて、それにただただ萎縮するという。「あなたに比べて私なんてもう全然大したことないですよ、ゲヘヘ」みたいな、自分をより低く見せるという自虐。もう1つは、目線を合わせるというか、逆の立場で、対面にいる人間が萎縮していたり怖がったりしている場合に「大丈夫大丈夫、俺も大したことないから」みたいな自虐。この2つがけっこう危ないというか、相手を不快な目にあわせる危険性が大きい気がするんですよね。

前掲

 相手の価値を下げかねない自虐は、勝手に相手のことを傷つけてしまう。確かに、自虐は自分か他人のどちらかの弱みを利用して発生している。    
 自虐はなりふり構わず使っていいものではない。そこで、彼は3つ目の自虐に辿りつくわけです。

──自虐によって何かの価値を下げてしまう。

そうそう。だからこの2つが危険なんだけど、最後にあと1つ、“容認”というのがある気がするんです。「結局、自分ってこんなもんだよな、わはは」っていう感じというか。これはニュアンスの問題だとは思うんですけど、自分自身で受け入れたうえで、ある種のユーモアを交えて発する自虐というのがある。もちろん自虐ではあるから、完膚なきまでに無害なのかと言われたらそうではないと思うんですけど。

前掲

「完膚なき無害ではない」という言及ができるのも彼らしくてとても良いと思います。
 なんというか、2人ともが「これでいいよね」と同じ水準で笑える自虐が"容認"なんだと思います。でも、これはスタンス次第では傷の舐め合いでもあるので、米津さんが仰る通り危険性をはらんでいる。

どこにもなかったね/2人はがらくた

 歌詞の順序は前後しますが、サビの最後の歌詞にこの"容認"が掛かってくると思います。

どこかで失くしたものを探しにいこう
どこにもなくっても
どこにもなかったねと 笑う二人はがらくた

がらくた

これもいい歌詞ですね。なくてもいいんですよ、失くしたものが。2人が笑っていればいいんですよ。探したけどなかったよね、わはは。
 ここで出てくる「がらくた」こそ"容認"の表れです。「私たちってがらくただよね」。自分たちがそう呼ぶからこそ許される、ユニークな関係性。

 2番目のサビを確認してみましょう。

あなたは僕を照らした月の明かりだ
笑わせるもんか

がらくた

2人を笑っていいのは2人だけなんですね。本当にダメだったとしても、すなわち誰でも馬鹿にしていいわけではない。共通項を持つ人だからこそユーモアに落とすことができる。
 「月の明かり」もサラッとしていますが注目ポイントかと思います。自ら光り輝いている恒星ではなくても、身に受けた光を返して存在を証明する月。そして、その光の存在に気づく"僕"。

壊れていても構わないから

 ようやくサビです。

例えばあなたがずっと壊れていても
二度と戻りはしなくても
構わないから 僕のそばで生きていてよ

がらくた

 うおぉ。なんて歌詞だよ。とんでもない。
これは"愛"ですよ。"愛"。
 これは食らわされましたね。この歌詞を起点にしてこのnoteを書き始めたぐらいですよ。

 廃品回収車の「壊れていてもかまいません」というアナウンス音声から着想を得て考えられた歌詞のようです。
 社会は正常であることを要求している。というか、正常なもの以外は使えないと見做している。モノもヒトもです。その割には、よく壊れますよね。しかも、壊れてしまったら100%元通りにはならない。心もです。かならず傷跡は残る。
 なんて厄介な世界だ。いつか壊れてしまわないかと怯えながら生きていかなければならない。
 そんな恐怖を抱えた人(或いは、もうその恐怖を経験してしまった人)を「それでもいい」と伝えているのがこの歌詞です。

終わりに——確かに感じる、音楽観の変化

 相変わらずとてつもない曲をリリースしてくれました。歌詞に注目しただけでもこんな分量になってしまった(もっと見れるポイントもありますが)。
 〈がらくた〉を始めとして、『LOST CORNER』の曲を聴いていて、米津さんの心境、というかマインドの変化を感じ取ることができました。
 どう変わったか、これは感覚の問題かもしれませんが、これまでより"他者"の色が強まり、それでいてカラッとした心地の良さを纏うようになった。そんな気がします。
 なんというか、『YANKEE』、『BOOTLEG』、『STRAY SHEEP』あたりで強く感じた「やさぐれ感」が減ったんです。自分がどう感じるか、どんなことに不満があるのか、何を救いたいのか。過去の作品では、自分を軸として半ば退廃的なオーラを放っていたと感じます(それもいいんですけどね。もちろん全曲がそうだというわけでもありませんし)。
 この変化はどのようにして起こったのでしょう。まぁ、人間なので、心境の変化なんて常日頃から起こり続けるわけではありますが。
 インタビューを追っていくと、30才という節目を迎えたことが彼の分岐点だったことが分かります。

30代になったことをやっぱり節目と感じていて、30、40、50と10のくらいの数が変わる度に、これからも同じような経験をするんだろうなって思うんですけど――人生ゲームのステージが変わる瞬間というか、幼少期、青年期、大学生、大人みたいな、ステージが変わっていく瞬間に司会者みたいな人が現れて、「あなたの今までの人生こうでした」と言われ、ステータスがそこに表示されて、「こういう風にあなたの人生は仕上がっております、はい引き続きこの先をどうぞ」みたいなことを告げられたような感覚になったんです。で、そうするとどうしてもそれと向き合わざるを得ないっていうか。30代になった瞬間に折れちゃったりする人がいるのも、そういうことだと思うんですけど、自分が大人になっていくにつれて育っていった部分と、同時にどうにもならなかった部分が、明確に見えてくるじゃないですか。

——すごくわかります。

育った部分はまだいいけれども、そのダメだった部分はどうするんだと。「もう30になってダメだったらダメじゃね?」って、それは自然と思っちゃいますよね。諦めてそれなりに騙し騙しやっていくというか、開き直ってやっていくしかないんだと、そういう腹のくくり方をするようになった気がするんですよね。

米津玄師は「真面目すぎた」――30代で気づく自分の“ダメさ”には諦めか、開き直りか、騙し騙しか【ロングインタビューvol.2】

 30才が近づいてきた私にとっては、ハッとさせられる言葉です。上記引用の後ろ後半にエッセンスが詰まっていると思います。文脈上、前段の話もないと何が何やらなので、1ブロックで引用しています。
 仕方ない。こんなにやって30才にもなって、変われない部分は必ずある。それならばコンプレックスに思わず「まぁ仕方ねぇか」と腹を括った方がよっぽどカラッとしている。

 『君たちはどう生きるか』の主題歌となった〈地球儀〉の制作もまた、彼の中で大きな出来事だったようです。

「地球儀」を作り終えたことが区切りになったという話を先にしましたが、子どもの頃から敬愛していた宮﨑駿監督の映画の主題歌を作れるなんて思ってもいなかったし、それが自分の人生で実現した――上出来すぎるほど上出来な人生だと思えたし、おそらくそれ以上に光栄なことは自分の人生には起こらないだろうなって。じゃあ今後ミュージシャンとしてどういう人生を送っていこうかと考えたときに、もう一度赤ちゃんに戻ってみることを思ったんですよね。普段やることや生活を変えるわけではないけれども、原点回帰のようなマインドで過ごしていくのが大事なんじゃないかなって。そういうことを考えたかもしれないです。

米津玄師は音楽家として生まれ直す――「俺の人生なんなんだ」が昇華された新曲「毎日」は新モードの姿か【ロングインタビューvol.1】

"全クリ"しちゃった後の燃え尽き感とも言うべきか、一旦ゼロ地点に立ち戻ってしまったわけですね。全クリのレベルが尋常じゃなく高いのはさておき、そこでやる気を無くすのではなく向き合い方を変えてみた。原点回帰といいつつも、守破離の「離」であると思います。
 音楽、というか創作全般は自身のエネルギーを基軸にして生成をするものだから、基本的には感情が乗って当然。そこに僅かに共感性を入れることで人々に届く。
 先に挙げた彼の今までのアルバムで感じた退廃的で孤独な感情もまた多くの人の支持を集めたが、その感情すらも愛でるフェーズに入った彼の音と言葉はこれからもっと推進力を持っていくと思います。

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