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ついにゆく道とはかねてききしかど きのうけふとは思はざりしを

予想外の死

父方のじいじが昨年、亡くなった。
新型コロナの猛威で世間が少しづつ混乱し始めていた頃だった。
じいじは、新型コロナとは関係なく死んだ。

それから1年も経たないうちに、今度は母方のじいじが亡くなった。
じいじも、新型コロナとは関係なく死んだ。

いつだってそういう訃報は突然やってくる。
去年は元同僚が36歳の若さで突然逝去した。もっと振り返れば、親友だった同期は、30歳満たずして突然死んでしまった。

自分の年齢がまだ浅いせいもあり、私が「出会う死」は、いつだって突然が多い気がする。若い友人らの死とは違って、じいじたちの死は、もっと予測できる死だと思っていた。それにも関わらず今回も予想外だった。

今年の正月は新型コロナのため帰省を控えたので、じいじには会えなかったけど来年また会えると思っていた。でも、それは叶わない。
じいじの育てた苺も、もう二度と食べることができない。


無意識に目を背ける死

年々「入院した」「手術した」という事後報告が増えてきていて、そのたびに驚かされたが、毎回「退院した」という連絡とセットなので、体は年相応にガタがきているものの「退院した」という事実だけを切り取って、なぜか勝手に安心しきっていた気がする。

去年末にも「手術をした」「いたって元気」「退院した」という連絡をもらっていた。そしてそれから1週間も経たぬうちに突然今回の訃報である。
正直全く予想していなかった。

私はどうやら、いくら入院や手術を繰り返していても、退院すれば、もう完全に良くなったということのように捉えてしまっていたことに気付く。そして、どうやらそれは間違っていたようだ。

死が必ず訪れることは、自分なりにそれなり理解しているつもりだったのに、私は無意識のうちに目を背けていたのかもしれない。
どうしたらもっとじいじの死を予想できたのだろうか。


経験で築かれる死生観

詳しく聞いてみれば、もともと月曜日には再び入院する予定で、その前日の日曜日に家で亡くなり、最期を家で過ごしたかったということだったらしい。

「いつ逝ってもおかしくない」くらいにわかりやすく言ってもらわないと、その時の私には予想できなかった。それをそう直接的に伝えないのは母の優しさなのか、それとも言葉にするのがつらいかったからなのか、そんなことは歳をとれば自然とわかってくることなので敢えて言う必要もないから言わなかったのか、そのへんは全くわからない。

私と母は関係が悪いわけではない。会えば一緒に遊びにいったり、美味しいものを食べたりする。今も昔も同じ距離感で、あまり深い話はしない。酒が入った時に母に変なスイッチが入ってやや深めの話をすることもあるが、母は天然で会話が成立しないこともあり、真面目に話していても結局漫談のようになって終わってしまうことが多い。

母のよくわからない具合をわからないまま放置しているのは、そんな捉えどころのない母を良しとしている部分や、お互いにその距離感を好んでいることもあるし、私としては照れ臭いということが強いかもしれない。

単純にもう少しじいじと頻繁に会う機会を作っていれば気付けるようなことだったのかもしれない。前回会ったのは一昨年の正月でその時は畑仕事もやっていたし自分の中では少し以前よりは衰えているがいつも通りの元気なじいじだった気がしていた。

母は思ったより飄々としていて、覚悟が出来ていたような様子だった。
今回私がじいじの死を予期できなかったように、私は自分の母の死を覚悟のない状態で直面したらと思うと少々怖くなった。

とにかく今回の経験でまた死に対する認識が変わった。


アグレッシブなじいじ

じいじは苺農家でありながら民宿の経営もしていた。民宿に泊まって、苺狩りも出来るという目新しい民宿だった。当時こういった兼業農家の形は珍しく、俺が先駆けだったとじいじは自慢げに話していた。

じいじは確かに、ビジネスに前のめりでチャレンジャーだった。80歳を超えても農業をバリバリ現役で続けていたし、80歳を超えているのに私の職業分野の「IT」について度々質問をして理解しようとしていた。それは孫の私への興味というよりは、ホームページやWeb広告により自身の商売に繋がらないかというあくまで自分のビジネスに対する興味だった。そういった姿勢を80歳過ぎても見ることができて、私は心底驚いたし尊敬していた。


宴会という非日常

緊急事態宣言下ということや、参加者に高齢者が多いということを理由に、東京からの帰郷はリスクがあると判断し葬式の参加は辞退。

じいじの兄弟は女性が多くて、いつも集まると明るくおしゃべりがたえないので、きっと賑やかな葬式になるかもしれない。ひいばあちゃんの葬式の時も坊さんが読経中にも関わらず私語が多く、私は笑いを我慢するのが大変だった。

そんな親戚のおばさんたちが賑やかに笑うシーンを想像していたら、じいじが昔営んでいた民宿の宴会場で毎年正月に親戚が一堂に会し大宴会をやっていたことを思い出す。

じいじは皆が集まって、ワイワイしている姿を見るのが好きで、その宴会のたびに「俺はな、こうやってな、みんなが集まっているのを見るのが楽しいんだ」と同じ会のうちに2.3回は同じことを言っては、孫らが「じいさん、それもう3回目!」とツッコミをいれるのが定番になっていた。

私にとって年に一度の親戚の集いは、気を使う億劫なイベントではあったけど、今思えば美味しいもの食べて、ワイワイする非日常な体験は嫌いじゃなかった。あの体験があると親戚が集わない正月にはなんだか寂しさを感じる。今年は寂しい正月だった。

自分には子孫がいないし、親戚間の関係性は年々希薄化しているので、あのような分かりやすい大人数での大宴会は、今後無理やりやらない限りは、もう二度と体験できないことのような気がする。


死後の世界

もし死後の世界があり、じいじが天界のような場所に行けてるとしたら、焼酎をビールで割ったものを好んで飲むくらい酒好きのじいじのことなので、きっとたくさんの人を囲んで毎晩ワイワイと賑やかな大宴会をしているように思うし、そうあってほしい。


さようならじいじ。
安らかにお休みください。


ついにゆく 道とはかねて ききしかど きのうけふとは思はざりしを

この表題は誰かの作った和歌の引用です。
気に入った哀傷歌をまとめたノートもありますので、よろしかったらそちらのノートもどうぞ。


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