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『日日是好日』を哲学する

今、隙間時間で本『日日是好日(にちにちこれこうじつ)』を読んでいます。
まだ読みかけなのですが、気になった言葉をピックアップします。

「なぜでもいいから」

第一章に出てくる言葉です。茶道を習い始めたばかりの主人公には茶道の作法でわからないことだらけ。なぞの所作に「どうして」と問う主人公に対して先生は「とにかくこうするの」としか言ってくれない。

まだ読みかけなので、この趣旨は明らかではないがおそらくまえがきに書かれていた『この世には「すぐにわかるもの」と「すぐにはわからないもの」というのがある』という話につながるのかなと思う。

そして気付く。
最近の私は何かに付けて理由を探し続けていたなとー。

日本の教育現場では「なぜ」と疑問を持つことが良いこととされてきた。良い質問をすれば「それは良い質問ですね」などと褒められることもあった。

そういえば小さい頃、姉に勉強を教わっていた時、私には理解できなかったので「どうしてこうなるの?」と質問ばかりしていたら「とにかくこうなるんだよ。覚えろ。」とキレられたことがあった。生まれつきIQが高く物事を簡単に理解できる姉にとって私のなぜなぜ攻撃はじつに煩わしかったに違いない。この話は茶道のそれとは全く別の話だと思うが、この時の理不尽さは今でも覚えている。

話を戻そう。
すべての事柄に理由があるというのはとんだ勘違いかもしれない。この勘違いは時に不幸すら生み出す。理由を見出すのは、いつも見出す側の勝手な妄想や願望かもしれない。この世には理由がないこともあるのかもしれないとすると存在しない理由を求めて右往左往するのは愚の骨頂、時間の無駄。
自分は今、なぜなぜと有りもしない理由を求めて空回りしていないだろうか。そんなときは立ち止まろう。

この話を聞いて思い出したのは、とある猫の動画で出会った素敵な言葉。

Cats are intended to teach us that not everything in nature has a purpose.
猫は自然界のすべてに目的があるわけではないことを教えてくれる

Garrison Keillor

「世の中の事柄にすべて理由があるわけではない」というのは、わからないことに対する人間の脳への負荷を下げてくれるスタンスにはなすが、ただし、これはわからないことは切り捨てた方が良いという話ではない。


わからないことにどう向き合うか(追記

わからないことをわからないまま自分の頭の中に置いておくというのは脳に対してとてもストレスがかかる。だから大体の人は、わからないことはわからないもの不要なものと切り捨ててしまう。

わからないことをわからないなりにも脳にためておく訓練をすると、わからないことを脳にためることにストレスを感じずに貯められるようになり、それがある時急に繋がってわかるようになる時がある。

わかる話もわからない話もどちらも同じ気持ちで聞けるようになる。茶道はその強制的な訓練の場になっているのかもしれない。

わからないことは知らなくて良い、そうすると社会に出た途端に通じなくなる。社会にはわからないことだらけである。

人は、知っているというバイアスがかかるだけでその話を「知ったつもり」になって傾聴できなくなってしまう。

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