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廃城令が招いた高崎・前橋の対立(上)

高崎・前橋の対立関係

同じ県内でライバル関係にある都市同士というのが全国にある。

長野県の長野市と松本市などは有名な例だし、青森県の弘前市と八戸市なども歴史的な津軽と南部の対立が今なお住民感情として残っているようだ。現在は合併して同じさいたま市になっているが大宮と浦和の関係なども同様だろう。このような例は、レベル感の差はあれど全国各地にあり枚挙にいとまがない。

群馬県の高崎市と前橋市も有名なライバル関係の一つだろう。

高崎市と前橋市は互いに隣接しており、前橋駅から高崎駅は15分程度で行ける距離だ。
人口は高崎市のほうがやや多く37.3万人で県内で最も多い(前橋市は33.2万人で県内2位)。

また、高崎は古くから交通の要衝として栄えてきた。高崎は江戸と京を結ぶ中山道の宿場町であっただけでなく、長岡(現在の新潟県)へ抜ける三国街道との分岐点でもあった。
現在でも、長野方面へ抜ける上信越道、新潟県へ抜ける関越道が通るほか、高崎駅に北陸・上越新幹線が通るなど交通の要衝としての地位は変わらない。 

前橋市と高崎市の位置(出典:「パワポでデザイン」より一部加工)

正直、規模や経済の面で見れば高崎のほうが優位だろう。しかし、高崎が一人相撲を取れない理由がある。行政機能だ。

前橋市は群馬県の県庁所在地であり、その他にも国の出先機関や地方裁判所、日銀支店が所在するなど群馬県内における政治・行政の中枢機能を有している。

言うなれば、「経済の高崎・政治の前橋」という様相だ。

だが、少し考えると不思議な気がする。これだけ交通の便が良く、経済的にも発展している高崎に県庁を置いた方が、なにかと都合が良かったのではないか。
実際、東京駅から高崎駅までなら1時間弱で到着できる。これが前橋駅まで行くとなると、乗り換え時間を含めてプラス20~30分はかかる。

そして、実際に群馬県が設置された当初、県庁は高崎に置かれるはずだった。

群馬県の成立過程と県庁の位置

現在に続く群馬県の成立過程はやや複雑だ。

群馬県の変遷(出典:群馬県史編さん委員会(1991)より筆者作成)

明治4(1871)年に行われた廃藩置県により、現在の群馬県域には主に9つの県が置かれていた。同年、これらの県の統合が行われ(第一次府県統合)、山田・新田・邑楽の東毛三郡を除いて現在の群馬県域とほぼ同じ「第一次群馬県」が成立する。第一次群馬県成立当初、県庁を高崎城内に置いていたが、約8か月ほどで前橋城内に移転される。

しかも、明治6年には河瀬秀治が入間県令と兼務する形で群馬県令に任命され、両県庁のある前橋と川越を往復する事態になり、やむなく熊谷に事務局が置かれて事務対応を行う始末だった。
最終的には、同年に第一次群馬県と入間県が統合され、熊谷に県庁を置く熊谷県が発足する。

いったん、名前が消えた群馬県であるが、明治9年に熊谷県が分割され、第二次群馬県が発足する。この際に、栃木県に含まれていた東毛三郡も群馬県に編入され、現在の群馬県域と同じになった。
さて、この熊谷県分割に際して右大臣・岩倉具視は以下のような達しを出している。

其県庁上野国高崎ヘ移シ、群馬県ト改称被仰出候条、此旨相達候事

群馬県史編さん委員会(1991)『群馬県史 通史編7』, pp.111

第一次群馬県と同様に、県庁は高崎へ置くようにとのことだった。
実際、仮庁舎として高崎の安国寺という寺に県庁本庁が置かれたものの、そのわずか20日後に当時群馬県令だった楫取素彦は県庁を前橋城内に移転する伺書を内務卿・大久保利通に提出し、即日許可されている。

繰り返される高崎から前橋への県庁移転

つまり、群馬県が設置されるたびに“いったん”高崎に県庁が置かれるものの、その都度、前橋に県庁が移転されているのだ。
なぜ、このようなことになっているのか。説明の仕方は、いろいろとあり得るが、キーになるのが「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」いわゆる「廃城令」である。
誤解を恐れずに言えば、廃城令のせいで「高崎に県庁を置きたくても置けなかった」というのが前橋に県庁が置かれた経緯である。

どういうことなのか。実際に現地を歩いてきたので、それを踏まえてご紹介したい。

参考文献

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