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廃城令が招いた高崎・前橋の対立(下)

なぜ群馬県の県庁所在地が高崎ではなく、前橋になった経緯については前回の記事で述べたとおりである。

前回は高崎に焦点を当てたので、今回は前橋に焦点を当てて県都・前橋の歴史を紐解いてみたい。

”関東の華”

今に続く前橋の発展も、高崎と同様に家康が関東に入ってきた頃から始まったと言って大きな間違いはないだろう。

酒井雅楽頭家時代

関ヶ原の戦いの後、当時はまだ厩橋城と言われていた前橋城に、川越城から家康の重臣である酒井重忠が3万3千石で封じられる。重忠が、厩橋城を任せられる際に、家康は「汝に関東の華をとらす」と言ったとされており、この故事から前橋が「関東の華」と称されることもあるそうだ(そんなこと聞いたことはないが)。

酒井氏は、主に左衛門尉家と雅楽頭家の2つの家系に分かれているが、厩橋城を任せられた重忠は後者・雅楽頭家である(徳川四天王の一人・酒井忠次は左衛門尉家)。酒井雅楽頭家は9代150年間にわたってこの地を治めた。厩橋城を整備し、厩橋を「前橋」と改めたのも、酒井雅楽頭家の治世の下である。

松平大和守家時代

1749年、酒井雅楽頭家は姫路へ転封し、入れ替わるかのように松平大和守家の松平朝矩が姫路から前橋城に入った。(松平家もいろいろな家系があり、大和守家もその一つと思ってもらえればいい。説明すると少し長くなりすぎる。)

ただ、朝矩は20年弱で川越城へ引っ越し、その後、松平大和守家は100年にわたって川越城主として過ごす。この間も前橋は松平大和守家の支配を受けていたのだが、城は取り壊されて、陣屋が置かれるのみであった。

その後、松平直克の時代になると、前橋城が再築され、再び松平大和守家は川越城から前橋城に戻ってくるが、時はすでに幕末の1867年で、1871年の廃藩置県により、松平大和守家による支配は終わる。再築前橋城で松平大和守家が過ごしたのはわずかに4年程度だった。

前橋藩・川越藩の歴代藩主

このように江戸時代の前橋を概観すると、酒井雅楽頭家と松平大和守家の2家による支配だったこと、川越とゆかりが深いことが分かる。
ただ、一つ奇妙なのは、松平大和守家時代に一度、前橋城を廃して、川越城へ移り、幕末に再び前橋城を立て直し、川越城から移ってきた動きだ。

なぜ、このような奇妙な動きをしたのか。実際に、前橋城の位置と遺構を見ながら、その背景事情を探っていこう。

利根川に守られ、壊された城

前橋城は、駅からやや遠い。
JR両毛線の前橋駅からだと徒歩20分程度かかる。今回私が使ったのは上毛電鉄の中央前橋駅で、広瀬川沿いにやや遠回りして歩いたのだが、こちらも30分歩いた。(水辺空間が整備されていたので、とても気持ちよく歩けたため、体感時間はそこまで長くない)

広瀬川

ただ、そこまでして歩いても、実は遺構らしい遺構はほとんどない。まず、地理院地図を見てみたいのだが、地図だけからこの地に城があったということは非常に分かりにくい。おおまかな場所を示すと、以下のとおりだ。

前橋城跡付近の地図(出典:国土地理院より筆者加工)

ただ、ここで注目してほしいのは城跡の西側だ。大きな川が流れていることが分かるかと思うが、こちらは日本で2番目に長い大河川・利根川だ。
前橋城は、この利根川が築いた段丘崖の上に建てられた、とても堅固な城であった。

ただ、利根川は前橋城に恩恵を与えるばかりではなかった。元来、暴れ川としても知られる利根川は、その勢いが強く、城が築かれた後も土地の浸食が進んでしまい、城は常に崩壊の危険と隣り合わせだった。

前橋城跡の北側にある群馬公園、左が利根川

一説によれば、酒井雅楽頭家も前橋城が崩壊しないように努めてきたが、ついに耐えきれなくなり、姫路にいた松平大和守家に目をつけ、国替えをすることで、自分たちは前橋城から姫路城へ逃れ、崩壊しかかった前橋城を松平大和守家に押し付けたという。

もちろん、大変なのは松平大和守家である。前橋城に入ってから20年弱は、城の維持に努めてきたが、こちらも耐え切れなくなり、ついに幕府に願い出て川越城に移らせてもらったという話らしい。

江戸幕府・最後の築城と生糸

今の感覚からすれば、別に松平大和守家も、このまま川越にいても良かったのではないかとは思う。
川越城は、全国でも4例しかない御殿建築が現存している城である。現存している川越城本丸御殿は、1846年に藩政の中枢機能を担っていた二の丸御殿が焼失したことを受けて、1848年に上棟した立派な御殿である。

現存する川越城本丸御殿(埼玉県川越市)

この川越城本丸御殿上棟からわずか15年後の1863年、松平直克は幕府に前橋城の再築を願い出ている。

なぜ、わざわざ前橋城の再築を願い出たのか。
背景にあったのは、当時の世情である。時はすでに幕末の混乱期であり、いざという時の江戸防衛の必要性が高くなり始めた時期だった。前橋城は、利根川を抑える要衝である。特に舟運が主な輸送手段であったこの時代において、その重要性は非常に高かった。幕府としても、このような軍事的理由で異例の城の再築を許可したようだ。
なお、幕府が築城を許可したのは、この前橋城が最後の例となった。

また、経済的な事情も前橋城再築の背景にあったと考えられる。
前橋の一帯は、赤城山の噴出物で形成された台地(扇状地)で、もともと稲作には不向きな土地柄である。その代わりに桑の栽培、桑を用いる養蚕が盛んであり、生糸の一大生産地であった。
1859年に日米修好通商条約をはじめとする安政の五か国条約により、横浜など3つの港が開かれると、生糸は重要な輸出産品となり、前橋はシルクマネー獲得により、大きな経済力を持つことになった。

この前橋の経済力を背景に前橋の住民は、松平大和守家が前橋に戻るよう求めていたようで、経済の面からも前橋城の再築が叶った側面はあるようだ。

前橋城の遺構

かくして、(そして、あくまで結果的にではあるのだが)明治維新が翌年に迫った1867年に再築前橋城が完成する。現在、見ることが出来る前橋城の遺構は、この時に作られたものになる。

まず、最も城跡らしいのが車橋門跡だ。

車橋門跡

石垣が立派だが、いささか門の幅としては狭いような気がするのは、正しい感覚で、昭和の区画整理事業により、今の幅にされてしまったそうだ。

二人並べばいっぱいになりそうな幅

さらに、この車橋門跡、非常に分かりにくい場所に立地している。近くには県庁前通りという広い通りがあるのだが、そこには面しておらず、日本経済新聞社前橋支局の建物の裏にひっそりとある。
知らなければ素通りすること間違いなしだ。

車橋門跡への入口、よく注意して歩かないと見落とす

もう少し目立つ場所にある前橋城の遺構としては、本丸土塁がある。

本丸土塁

これだけかと言われてしまうと、それまでだが、少なくともこちらは見落とすことはないだろう。何と言っても、群馬県庁の敷地内にあるからだ。

本丸土塁の遠景、後ろは群馬県庁舎
県庁裏手の駐車場、こちらのほうが分かりやすい

県庁としての前橋城

1867年に再築された前橋城だが、1868年には明治維新を迎え、1871年には廃藩置県となり、松平大和守家の居城としての役割は、わずか4年で終える。

ただ、新築したばかりの建物群であるので、利用しないのはもったいない。このような背景もあり当初、県庁を置いていた高崎城が陸軍に接収されてしまった第一次群馬県は、1872年から県庁を前橋に移し、前橋城を利用することにしたのだ。
この時点でも、前橋城は築5年の超築浅物件なので非常に有効な再利用であっただろう。

1873年、河瀬秀治が群馬県令に就任するが、入間県令と兼務する形となった。入間県は、現在の埼玉県西部を管轄する県で、県庁は川越に置かれ、入間県でも川越城本丸御殿を県庁舎として利用していた。
前橋城も川越城本丸御殿も松平大和守家が建てたわけで、明治の世になっても松平大和守家が築いた資産が官衙として利用されたという歴史は興味深い。

ちなみに、この2つの城(かつ県庁)は姿かたちもよく似ていた。
群馬県庁時代の前橋城本丸御殿の古写真が宮内庁に残されているのだが、車寄の部分は川越城本丸御殿とそっくりと言ってよい。

前橋城本丸御殿(出典:宮内庁書陵部)
川越城本丸御殿(再掲)

建物利用の共通点は面白いのだが、群馬県と入間県の県令を兼務させられている側にとっては、骨の折れる話だ。両県の業務のために、前橋と川越を往復する必要に迫られ、非常に大変な思いをさせられたようだ。

やむなく、両県庁の中間に位置する熊谷に事務所を置き、そこで両県の業務を処理するようにしたそうだが、それでも大変だったようで、政府は群馬県と入間県を統合し、熊谷県とした。
これでようやく河瀬は前橋・川越の往復生活から解放されたようだ。

1876年に、熊谷県が分割され、第二次群馬県が設置されると、楫取素彦県令の下、群馬県庁は再び前橋城に設置されることになった。

その後、前橋城本丸御殿は1928(昭和3)年まで群馬県庁として使用された。昭和の時代まで、城郭建築が県庁舎として利用されていたというのは驚きだ。ただ、新庁舎の建設に伴い、残念ながら前橋城本丸御殿は解体されてしまう。

その後の県庁と今に残る明治建築

群馬県庁・昭和庁舎

前橋城本丸御殿に代わって県庁となった建物は現存している。群馬県庁昭和庁舎だ。

群馬県庁昭和庁舎

本庁舎の機能は、平成になってから建てられた新庁舎にとってかわられているが、今なお行政庁舎として使用されている。

現本庁舎と旧本庁舎

昭和庁舎は内部見学ができる。何枚か載せておこう。

正直、庁舎建築としては隣県の栃木県庁・昭和館のほうが洗練されている気がするが、こちらも昭和初期の庁舎建築らしい雰囲気は楽しめる。

群馬会館

同時期の建築として、昭和庁舎と道路を挟んだ向かいに立つ群馬会館も見ものだ。

3代目・群馬県庁舎

現在の庁舎は、群馬県下で最も高い建物で、都道府県庁舎としては東京都庁に次いで2番目に高い。
この手の高層ビル県庁にはおなじみの展望台も付いている。

以上が昭和から平成にかけての県都・前橋ゆかりの建物たちだ。

臨江閣

ただ、ここまで来たのなら、もう少し足を伸ばして見ておくべき建築がある。県庁所在地を前橋に決めた楫取素彦が建設に携わった臨江閣だ。

臨江閣は、県庁の北隣にある前橋公園の一角にある。

臨江閣は本館・茶室・別館から成る施設の総称で、もとは楫取素彦が前橋に公会堂がないことを危惧して、初代前橋市長になる下村善太郎ら地元住民に呼びかけて建てたものだ。また、その後、前橋で催しが開かれる際の会場として別館が増築された。
最も目を引くのが、その別館である。

巨大な車寄
ここから入る
長い廊下
二階へ続く階段を上る
踊り場と擬宝珠付きの階段
二階は大広間が広がる(360名入れるらしい)
縁側からの景色が良い
県庁も見える

今度は本館と茶室を見てみる。

こちらが本館
本館の大広間を見た後だと感覚が狂うが、こちらも広い

こちらでは、臨江閣や前橋市に関する展示がされている。

臨江閣にある群馬県庁(前橋城本丸御殿)の模型
臨江閣の屋根の上にあった鯱
本館も二階に上がれる、階段は少し急
本館二階
本館二階から望む別館、渡り廊下でつながっている
庭から見る本館
本館の裏手にあるのが茶室
本館(左)と別館(右)
庭から見た別館
改めて見ても規格外の大きさ

県都・前橋の風格を感じる建物である。

こういった近代建築群は、高崎にはあまり残っていないので、この手のものを見るのなら前橋の方が面白いかもしれない。

今回、私は行かなかったが前橋市蚕糸記念館など生糸の街としての前橋を物語る建築もあるようなので、なかなか足を伸ばす街ではないかもしれないが行ってみると面白いかもしれない。

ぐんまちゃんと群馬県庁昭和庁舎

参考文献

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