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廃城令が招いた高崎・前橋の対立(中)

箕輪城から高崎城へ

東京駅から新幹線に乗ると、あっという間に高崎に着く。新潟方面や長野・北陸方面への玄関口でもあり、ほとんどの新幹線が停車する大きな駅だ。

高崎が今のような大きな街になるきっかけとなったのが、井伊直政の高崎城への移封である。1590年、それまで関東を支配していた小田原北条氏が滅ぼされ、代わって徳川家康が関東を支配することになった。
家康は家臣に関東各地の城を任せた。このうち徳川四天王の一人としても知られる井伊直政は当初、箕輪城(高崎市、高崎駅からは遠い)を任せられたが、1598年に高崎城に移された。これにより、城下町・高崎の発展がはじまる。

箕輪城(2017年撮影)

多くの人にとって高崎に城のイメージはないと思う。しかし、地図を見ると、確かに城があったことが分かる。
以下は現在の高崎駅周辺の地図だが、中央の「高松町」と書かれたあたりに水路があるのが分かると思う。

高崎駅周辺の地図(出典:国土地理院)

これが高崎城三の丸の水堀跡であり、西にある川(烏川、最終的に利根川と合流する)と合わせて、城の主要部を形成していた。

高崎城の縄張り(出典:陸軍築城部本部「日本城郭史資料 第5冊」、国立国会図書館デジタルコレクションより)

高崎城の接収

江戸時代、高崎城は高崎藩庁として長らく政治の中心であった。明治4年の廃藩置県によって高崎藩は廃止され、同年の第一次府県統合で(第一次)群馬県が成立したが、この時も県庁は高崎城二の丸に置かれ、引き続き政治の中心であり続けた。

しかし、交通の要衝である高崎の地は軍部の目に留まったことで、政治の中心としての地位を失うことになる。

群馬県庁が高崎城二の丸に開庁してから、わずか3か月ほどの明治5年1月、高崎城は兵部省(同年、2月に陸軍省・海軍省に分離、以降は陸軍省)が管轄することになり、高崎城は陸軍に接収される。
これに困惑したのは群馬県側である。県は、政府に対して高崎城を引き続き、県庁として利用できるように願い出るが、却下されてしまう。

なお、同時期に陸軍は全国の城・陣屋などを管轄するようになっていたので、このような対応になったのは決して高崎城に限った話ではない。
ただ、軍事上、あまり重要でないと判断された城は、県庁などの役所があったとしても、引き続き利用できた場合も多かった。

このような軍の重要度の判断の差が顕著に表れたのも群馬県庁であった。
高崎城を接収されてしまった県は、県庁舎を前橋城に置くことを試みる。この時点では、前橋城も軍部が管轄していたのだが、県が前橋城の利用を願い出ると、こちらはすんなりとOKされた。軍部として、高崎城の重要度は高く、前橋城の重要度は高いものではなかったのだろう。

かくして、明治6年に第一次群馬県が入間県と合併して熊谷県になるまで、前橋城が群馬県庁として利用された。

一方、陸軍省に接収された高崎城は、兵営として改造されてゆく。明治5年8月には、城内の門や櫓が払い下げられ、堀の埋め立ても進められた。

こちらは、明治6年頃の高崎分営の様子である。

明治6年頃の高崎分営(出典:高崎市史編さん委員会(2004)、pp112)

手前に兵士たちが並び、その少し奥には兵舎が立ち並んでいる。さらに、その奥にあるのが高崎城御三階櫓(事実上の天守)である。この写真が撮影された時点では、まだ破却されていないようだが、間もなくこちらも取り壊されてしまう。

明治6年1月には「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」、いわゆる廃城令と呼ばれる太政官達が発せられた。
この太政官達では、今まで陸軍省が管轄していた全国の城・陣屋のうち「存城」に指定されたものは引き続き陸軍省が管轄し、「廃城」に指定されたものは大蔵省管轄に改め、国有財産として管理・売却することとなった。
この中で高崎城は存城に指定されたため、引き続き陸軍省が管轄した。高崎城の軍用地化が決定的になったと言っても良いだろう。

高崎城は、東京鎮台の分営(高崎分営)に位置づけられ、明治6年4月に第八大隊の一部が入営して以降、様々な部隊が出入りを繰り返した。

第二次群馬県の設置

県政の話に戻ろう。
前述のとおり、明治6年に第一次群馬県と入間県(現在の埼玉県西部)が合併し、熊谷県が設置された。

埼玉県の変遷(出典:埼玉県HP)

熊谷県庁はその名のとおり、熊谷に置かれたのだが、広大な県域の事務は本庁だけでは賄いきれなかったのか、旧群馬県の事務を管轄するための支庁が高崎の宮元町(旧高崎藩撃剣所)に設置された。

ただ、熊谷県は短命に終わる。明治9年に熊谷県は廃止され、旧入間県域は埼玉県の管轄となり、上州には再び群馬県が設置された(第二次群馬県)。

第二次群馬県が設置される際の達には、県庁を高崎に置くことが定められていたため、同年9月1日には高崎の安国寺を仮庁舎として、再び群馬県庁が高崎に置かれた。
しかし、県庁として安国寺は手狭だったらしく、熊谷県時代の高崎支庁を分庁舎にしたほか、警察や公衆衛生、差し迫った地租改正の担当部署を高崎内の他の場所に分散させていた。各部署がバラバラと散ってしまったので、業務遂行上、相当の不都合が生じたようだ。

この時も、県としては高崎城に庁舎を置けるものなら置きたかったようだが、もうこの時点で高崎城は完全に軍基地になってしまっていたので、それは叶わなかった。

仮県庁の前橋移転

当時の群馬県令だった楫取素彦は、県庁舎の問題を解決するため、再び前橋城に県庁を置くことを画策する。

その背景にあったのは、第二次群馬県設置以前から続く前橋住民による県庁誘致運動だ。当時の前橋は生糸の生産拠点として栄えており、経済的な影響力も大きかった。
のちに初代前橋市長になる下村善太郎らは、県に対して県庁を前橋城に移転するよう働きかけ、さらに、移転や庁舎建設にかかる費用の相当分について献金を行う申し出をしていた。

当時、前橋城は教育利用を条件に払い下げられており、実際にその一部は学校として利用されていたが、残りの建物は持て余している状態だった。

楫取は、政府に対して前橋城を仮県庁として使用したい旨の伺いを出した。
その説明は「県庁を高崎に置くことになっているが、高崎城が陸軍に接収されてしまっており、安国寺も業務に差支えがある。新しく庁舎を建設することも考えられるが、地租改正という一大事業を前にして、庁舎建設のため新たな業務を作りたくない。幸い前橋城が空いているので当分の間、こちらを県庁舎として使いたい」ということだった。割と理には適っている。

この伺いは即日許可され、明治9年9月29日には前橋城での業務が開始された。同月1日の安国寺での業務開始から、1か月も経っていない驚異の速さでの移転であった。

高崎住民による県庁移転反対運動

ただ、面白くないのは高崎側である。
一応、建付けとしては仮庁舎として前橋に移転するということではあったが、それが既成事実化し、正式に前橋へ県庁が移ってしまうのではないかという危惧を抱くのは、当然と言えば当然である。

高崎の住民からは嘆願書が出されるなど、県庁移転反対の動きが活発になってきたため楫取は直接、住民に向けて説明を行った。その際、楫取は「今は地租改正で忙しいから、とりあえずの対応として前橋に県庁を置くだけであって、地租改正事業が終われば高崎に移す」と約束をした。
ただ、それでも高崎住民の疑念は払しょくできず、住民側からは「高崎に県庁が戻ってきたときの移転先をこの際、決めてほしい」との意見が出されたため後日、県は候補地の選定作業も行い移転先を提示した。
これにより、流石に住民側も安堵したのか運動はいったん収束した。

ただ、この問題はくすぶり続けた。

明治13年11月、相変わらず群馬県令の地位にあった楫取は、政府に対して県庁を前橋に正式に移転したい旨の伺いを出し、翌年2月に県庁移転を認める太政官布告が出された。
結局、楫取は高崎の住民との約束を反古にして、前橋へ名実ともに県庁を移転させてしまったのだ。

もちろん、この時点で前橋の県庁としての利便性がそれなりに高いことが分かったこと、今さら移転して変に出費をしたくないなどの事情があったのは察しが付く。だが、約束をしてしまっている手前の前橋移転決定は、なかなかの暴挙とも言えよう。

案の定、高崎の住民は黙っていなかった。時代は自由民権運動が盛んな頃であり、高崎も自由民権の風が強く吹いていた地域であった。県庁移転反対運動は自由民権運動とも絡み、激化していく。

最初は県に対する嘆願書や抗議書、質問書のやり取りであったが、県が「高崎に戻すと約束していない」「県庁設置場所は国の事項で県としてはあずかり知らぬ」とまともに対応せず、ついに高崎住民は示威運動に出る。

明治14年8月、高崎住民およそ数千人は徒歩で前橋に向かい、県庁に押し寄せ、住民総代は県令との面会を求めた。結局、楫取は面会せず、代わりに県職員が対応し「大挙して押し寄せるとは、どういうことだ。お前に総代の資格はない。」と論点をすり替えてしまった。
この問題は、なぜか総代として認めるか否かという話で裁判にまで発展したが、明治15年に高崎住民側の敗訴で幕を閉じた。

軍都・高崎へ

なお、明治14年8月の騒動の際に県は相当、対応に神経をとがらせていたようで、高崎の陸軍司令官に軍隊出動の可能性を照会し、出動依頼も検討していたようだ。
この時は軍が出動することはなかったが、高崎に駐屯していた部隊は、明治17年の秩父事件では実際に出動しており、事態の推移によっては軍隊出動の可能性は十分あっただろう。

このように、高崎住民と緊張関係すら持ちかねなかった高崎城の陸軍だが、その後の高崎の発展を考える上では欠かせない存在となっていく。

明治17年、高崎に置かれた部隊は歩兵第十五連隊に編成され、昭和15年のチチハル移駐まで、この十五連隊は高崎を衛戍地とした。

軍の基地があると、基地で働く人の雇用や基地への物品納入、兵士を相手にした商業の発展など様々な経済効果がもたらされる。高崎は、県都ではなかったが、軍都として発展していったのだ。

終戦直後の高崎城跡(出典:国土地理院)

現在の高崎城跡

昭和20年、終戦に伴って軍用地としての高崎城跡の歴史は終わった。軍用地としたために、城の遺構は三の丸の堀や土塁を残すのみである。
現在、櫓と門が建っているが、これらは払い下げられ、移築されていたものを今の位置に再度移築・復元したものであり、場所も元あった場所とは異なっている。

高崎城乾櫓と東門

このすぐ隣には、歩兵第十五連隊の石碑が建っている。
軍都・高崎の発展を支えてきた歩兵第十五連隊だが、今残る形跡はこの石碑などわずかしかない。

「歩兵第十五聯隊址」の碑

あえて、十五連隊の痕跡をもう一つ挙げるとするなら、国立病院機構高崎総合医療センターくらいだろう。

高崎総合医療センター

高崎総合医療センターの源流は、兵営内に設けられた病室(のちに高崎衛戍病院、高崎陸軍病院)であった。このような兵営内に置かれた軍病院は全国にあったが、敗戦に伴って所管が陸軍省から厚生省に移され、戦後は国立病院となった。高崎総合医療センターもその一つである。

この高崎総合医療センターも高崎城跡に建つなかなかの巨大建造物だが、戦後この地には他にも巨大な公共施設が多く建てられた。代表格が、高崎市役所である。

高崎市役所

高さ102.5mの超高層ビルは、群馬県内では2番目に高い建築物だ。なお、一番高いのは前橋にある群馬県庁舎だ。

高崎市役所は、高崎駅からも見える。県都になれなかった高崎の対抗心が表れているように感じるのは私だけではないだろう。

高崎駅から

参考文献

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