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がそ(3)

葉の絵を描いた

「葉の実態そのものの境界を正確に沿うと不自然に見えるので、もっと自然に見える境界線を描いてください」

とのことだったので、
葉の”自然な”ラインの境界線を描くことに。

果たして葉や花のありのままの形を無視し、
滑らか過ぎる曲線/直線の境界線を描くことは
自然だと言えるのだろうか


いやこれはもちろん“絵として”の自然さ
を必要とされているのであり、
ホンモノを追うことが仕事ではないことは
分かっている(大体、適当に描いたイラストの葉を本物と言うのはおこがましい)

植物という自然界の生き物の中には、
人の目に不自然に映る姿もあるということだ

偽りの美しい曲線を保つことは、
不自然であるのではないか、
と思うのであるが
大事なところはそこではないらしい

どうにもこの矛盾を乗り越えられない

私が描いた葉にとっての自然とは
そのままであることなのに

正確な境界線を描き摘出し
別の空間へ移動すると不自然と言われ、
不自然だが美しい葉の形
(それは誰がどの部分を見ても葉の形ではあるから、マジョリティ的な葉っぱではあるが)
に摘出し移動すると、
うん、と一つ頷かれる。

しかしそのとき
私の中で確かな不自然が生まれている


果たして私は不自然な自然を生んだか
自然の中の不自然も自然では無いのか
自然の中の不自然をリデュースし自然にする事は、
それは不自然となるのではないのか

解放された空間に取り残された、
孤立した”自然”の中の”不自然”である部分は
“自然”であり”不自然”としても存在する。

その実体が自然/不自然として依然輝きを放ち
それが君にとって何者にも見えなくとも
“私たちは自然であり不自然でもある”
と証明している

つまり私の中に生まれた
どんな不自然な現象も自然なのであり、
どんな自然な現象も、不自然なのである。

運命なんて言わない

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