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平等の春

何やかんやと過ごしているうちにすっかり春になってしまった。

コロナという単語を聞くようになって一年が経って、今年も各所で桜の開花宣言がなされた。近所の桜も徐々に咲き始めて、いまだに咲いていない蕾達は見に来た人々に「早く咲けよ」と言わんばかりの視線を送られている。

ここ数年、僕はものすごく桜の花が好きになった。
理由はどうしてなのか、と少し考えているがちょっと言語化が難しい。

あの日、別れを惜しみながら見た花が桜だったからなのか。
新生活のワクワクを思い出させるからなのか。
綺麗だからか。

ただ、ベタに「桜が好き」な自分は日本人としてちょっと恥ずかしくもある。そこには、いまだに大人になれていない自分もいるのかもしれない。他とは違っていたい、どこかセンスのある自分でいたい、という若干厨二病的なエッセンスがまだ僕の中にはある。

毎年、春が来るたびに僕らはひとつ歳をとっている。もちろん、生物的な自分としては誕生日から数えられるが、社会的存在としての自分は春に進化している。僕も大学3年を目前にして、就活のことを明確に意識し始めて、ちょっと自分の中の進歩を感じている反面、いまだに次の恋愛へ踏み出せないでいる自分には停滞を感じている。

あと何回春が来て、桜を見たら「大人」になれるのかと考えることが増えた。
少し前に『シン・エヴァンゲリオン』を見た。いつまでも変わらない14歳の少年少女を主人公とした物語。それを取り巻く周りの大人たち。彼らは、年齢に関係なく対立したり、助け合ったり、支え合ったり、憎みあったり。

そこには、子供っぽい子供や、大人っぽい大人たちがいることは間違いないが、子供には時折嫌に大人びた瞬間があり、「このまま大人になってしまったのか」と呆れるほど子供な大人もいた。

僕らはあと何回春が来れば「大人」になれるだろうか。

春が来ればひとつ大人に近づける、という考えは子供かもしれない。
何回春が来ても進めていない自分に嫌気がさすような気もする。

でもやまない雨はないように、春は必ずやってくる。

幼い僕にも、大人びたあの娘にも。
満開で花開くあいつにも、未だ開かない蕾にも。

平等に、残酷に春は来てしまう。

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