【掌編小説】「遠くの空の下で」
――君に伝えたメロディーが、今も何処かで響いていますように。
話し相手を探していた時に知り合った、オリハという人と時々、話すようになった。他愛もない話だった。仕事のことを少しと、日常のことと、趣味のこと。オリハと話すようになって一ヵ月くらいが過ぎた頃、ある時にオリハが言った。
「キーボードを買ったんだ」と。
「キーボード? パソコンの?」
「いや、楽器」
「え、楽器弾けるんだ」
「いや、弾けない。これから練習する」
「習ったこともないの?」
「ない」
「弾きたい曲はあるの?」
私の問い掛けに、オリハは有名なアニメの中で流れた曲名を私に告げた。その曲は私も好きな曲で、歌詞も好きだった。遠くの空の下にいる大好きな人を想って女の子が歌を歌う。そういう背景の曲だった。
「私もピアノ少し弾けるけど、この曲はちょっと左が難しいよね」
「左?」
「左手で弾く、伴奏の方」
「そうか、キーボードとかピアノって両手で弾くもんな。弾けるようになるかな」
「練習すれば弾けるようになるよ」
「良かったら、教えてよ」
「私が、この曲を?」
「そう」
オリハは私が思ってもいなかったことを言った。
「ピアノ、家にある?」
「あるよ、電子ピアノ。でも、この曲の楽譜、持ってないんだよね」
「趣味で作ってネットに無料公開している楽譜とかでないかな。でも俺、楽譜読めないけど」
「あるかもだけど……楽譜、全然読めない?」
「読めない」
私は思わず、うーん、と言ってしまった。
「最初は音をカタカナで振っても良いかも。ドレミとかを」
「振れるんかな。全く読めないんだよね。あ、でも少しは弾ける」
そう言ってオリハは適当な音をキーボードで出した後、その曲のさわりだけを弾いた。イヤホン越しにオリハの出した音を聴きながら、私は尋ねた。
「どうして少し弾けるの?」と。
「良く聴いていたら覚えた」
オリハは事もなげにそう言い、弾きたいと言っていた曲のさわりだけを繰り返し弾いていた。
「大体、合ってる。なんだろう、聴いて覚えられるタイプ?」
「どうだろ」
「鍵盤の位置とか分からなくない?」
「それは適当に弾いて行って、此処ら辺かなとか合わせて行ったら分かった」
「すごいな」
「でも、それで全部は無理だから、今、鍵盤付きの動画を観てる」
「その曲の?」
「そう。これで覚えるわ」
しばらくオリハはポンポンとキーボードで音を出しながら、メロディーのようなものを形作ろうとしていた。その間、私は無料公開されている楽譜をダウンロードし、タブレットでそれを表示しながら電子ピアノで弾いてみる準備をしていた。
「ララは弾ける? この曲」
「今、楽譜を見付けたから見てる。大体は弾けそう」
「すっご。ちょっと弾いてみてよ」
「初見でうまくは弾けないと思うけど」
「良いよ、弾いてみて」
私は椅子に座り直し、両手を鍵盤に置いた。
この曲は、右手のメロディーは比較的、簡単だった。それを支える左手の伴奏が少しだけ、難しい。長調の明るい曲だが、曲調がゆっくりのせいと歌詞のせいか、少しだけ切なく聴こえる。全体で三分間くらいのその曲を、私は所々を間違えながらも弾き切った。
「すっごいね。急に弾けるんだね」
「いや、間違ったし」
「いやいや、すごいよ」
「ありがとう」
そう答えながら、楽譜の読めないオリハにどうやって曲を教えたら良いだろうと私は考えていた。しかし、そんな私の考えを見透かしたかのようにオリハは言った。
「鍵盤付きの動画で少しずつ覚えて行くから、俺が音、分かんなかったら教えてよ」と。
「そうか、聴けば分かるから」
「そう」
「分かった、良いよ」
それから、オリハが少しだけメロディーを弾き、音が分からなさそうに迷っていたら私が正しい音を出して教えるということが繰り返された。それは私にとって苦痛ではなかった。私がピアノを好きだからだろうか。きっと、それもあるだろう。だが、それ以上に、私は少しだけオリハのことが好きだったのだ。その「好き」と言うにはあまりにも儚いささやかな自分自身の心情に、私は気が付いていなかった。気が付かないまま、オリハの「この曲を弾きたい」という熱に惹かれて、曲を教えていたのだ。
一時間くらいの後、オリハは「そろそろ寝るか」と言った。時刻は夜の十時になっていた。私達は其処で通話を終えて、また翌日の同じくらいの時間に話し、曲を弾いた。
オリハは、どんどん曲を弾けるようになって行った。左手の伴奏が少し難しいようであったが、動画で繰り返し音を確認したり、私が弾く音を聴いたりして、ゆっくりと伴奏も形になって行った。ペダルのないキーボードでの演奏で弾きづらさもあるはずと思うのに、そんなことは感じさせない程に、オリハの生み出す音はとても自由で、魅力的だった。私はいつもペダルで音を繋げて、ともすれば誤魔化す弾き方をしていたので、自分を恥じたくらいだ。
こうしてオリハと曲を弾くようになり、一週間が過ぎた。その日の夜、オリハは私に言った。
「曲が弾けるようになったから聴いてほしい」と。
私は驚きつつも返事をし、息を止めるようにしてオリハの演奏を聴いた。
オリハは、ほとんど間違うことなくその曲を最初から最後まで弾き切った。美しかった。ペダルもないのに、音は美しく、私の心に確かに届いた。私は、思わず拍手をしていた。
「すごいよ! 弾けるようになったんだ!」
「いや、ミスタッチあったけどね」
「いやいや、すごいよ! 全然、キーボード弾いたことないのに」
「まあ、頑張った」
私は感動していた。
「今度、友達に聴かせようかな」
「うんうん、きっとびっくりするよ」
「ありがとう、教えてくれて」
「いや、たいしたことしてないよ」
私は感動の引かない心で、そう言った。そして、同時に寂しさも感じていた。
「もう遠くに飛び立って行くんだねえ」
「いやいや、此処にいるよ」
「そっか」
「そうだよ」
私は楽曲を教え終わってしまったこと、役目を終えてしまったことを、この関係性の終わりだと思った。どちらからともなく、夜の二十一時くらいにメッセージを書き、通話をする。曲を弾く。オリハがこの曲を弾けるようになったのだから、もうこうして話すこともないのかもしれないと思った。
――予感だったのかもしれない。オリハと私は、いつまでも続かない。曲に終わりがあるように、私達の関係も遠からず、終わるのだと。私は冷静に、分かっていたのかもしれない。
他愛ない私からのメッセージに、オリハからの返信はなくなった。それをそのままにしていたある日、オリハから短いメッセージが届いた。ごめん。それだけがぽつんと書かれていた。私は、どっちも悪くないよと返し、オリハの連絡先を消した。
もう二度と、オリハと話すことはないのだろうけれど。こんなに良く晴れた青空を見ると、オリハに曲を教えていた短い一週間という期間を思い出す。思い出したくなくても、思い出してしまう。この青い空の下で、オリハは元気にしているだろうかと、考えてしまう。
オリハが最後に弾いてくれた、完成された曲の音を私は覚えている。私は、それを思い出す。オリハの影響で私も弾けるようになったその曲を、私は時々、弾いてみる。私は相変わらず、ペダルで音を繋げる弾き方をしているけれど。オリハはペダルがなくても、この曲を弾いていた。それを、思い出す。
遠い何処かの空の下で。オリハに伝えた私のメロディーが、響いていると良いなと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?