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小説「チェリーブロッサム」第5話

 ある日の昼休みに、僕はいつもは行くことの無い社屋裏手の駐車場を通った。その傍らのベンチに座り、熱心に雑誌を読む一人の女性がいた。制服ではなくかわいらしい私服だったので、外部の人間か? と一瞬誰なのかわからなかったが、近づいてみるとすぐに誰だかわかった。僕とは別の部門の花形で腕を振るっている、華奢で小柄だけど仕事ぶりはエネルギッシュ、同僚や部下にも面倒見の良い、芹澤ゆり子だった。いつも小さくクスクスと笑う表情がかわいらしくて、その人柄から、誰からも愛される美しい存在だった。僕も彼女の存在は知っていたが、話す機会なんて一生あるわけないと思うくらいの高嶺の花だった。
 彼女はまだ27歳と職人としては若かったが、加工の技術の腕は社内でもトップクラスだった。つまりは、日本トップクラスの腕前ということになる。彼女は僕より二つ年上なだけで、すでに大勢の部下のいる役職についていて、加工の中枢である最終仕上げの部門で活躍をしていた。この部門のリーダーは、チームワークとバランスの良い人間性が求められていた。しかし、何より技術の高さと情熱が必要な部門だった。
 彼女は専門学校を卒業し、新卒でこの会社に入社したようだったが、すぐに頭角を現し、ありとあらゆる技術をスポンジのように吸収していった。人望もあってみんなからも慕われており、それでいて鼻につく所など何もなかった。え、そんな人いるの? 僕はすぐに得意技「自分と比べる」を放った。とても残念な気持ちになった……。

 視界の端でベンチに座る彼女を凝視すると、女性にしては珍しい雑誌を読んでいた。それは『ライデイングサウンズ』というバイクの雑誌だった。国内で唯一の二輪のレースを専門的に扱う雑誌だった。
 僕は根っからのバイク好きで、高校を出たころはミニバイクが走るサーキットで働きながら、暇さえあれば借りたマシンを思い切り走らせていた。走る度にマシンを壊し、いつも修理代に困っていた。金なんて要らない。という先輩ライダーがほとんどだったが、律儀な僕は一生懸命返そうとしていた。律儀だけが理由ではなく、僕はお金には対しては、得体のしれない恐怖心を持っていた。借りたままなんて、背筋がぞっとしたのだ。
 そこで走るミニバイクライダー達は、雑誌にも載るような達人の面々で、恐ろしい角度にマシンを倒し、恐ろしいスピードでコーナーを駆け抜けていた。僕は普段、テレビでバイクレースを見るのが、唯一と言っていいほどの趣味で、そのためにCS放送のいくつかのチャンネルを契約するほどだった。そしてサーキットで走ることは、何よりも夢中になれる「好きなこと」だった。
『ライディングサウンズ』は、僕が必ず毎月熱心に読んでいる雑誌で、必ず毎月、いや隔月、いやいや数ヶ月に一度、……年に1、2度ほど買う雑誌だった。
 しかし、買わない月は本屋で何時間でも立ち読みをし、何度も何度も誌面を往復しながら隅々まで読み込んだ。どんなページがあったのか、すべて言えるくらい夢中になって立ち読みをした。時にはめくり過ぎてページがふやけるほどの意気込みで熱心に読んだ。
 毎月のように書店で熱心に熟読していると、本屋の店員も「ほほう、良く勉強をする若者だ。バイクレースが好きなんて大した者だ!」と感心しているようだった。その証拠に、僕の後ろをモップで何往復も床を拭き、時には僕の足にモップを当てるくらい、僕の読む様子を観察していたからだ。「お、なんだ? この僕の読みっぷりに興味があるのか? もしやこの人もライディングサウンズのファンなのか⁈ 話しかけてみようかな」僕は馬鹿だった。どうしようもなく人の気持ちがわからない。どうしようもなく場の空気が読めなかった。
 僕は勉強熱心な若者、の意識のまま、ライディングサウンズを元の「ラリーWORLO」と「月刊バイク」の間に納めようとしたが、熱心に読みすぎたページの先が「ばさっ」と広がってしまい、元の鞘には収まらなかった。そこまでになって僕は初めて我に返り、事の重大さを認識した。「そうかあの店員さんは、この立ち読み野郎の僕にプレッシャーをかけていたのか」遅い、遅すぎる。僕は古典的に、左手を開きそこに握りしめた右手の腹で「パチン」と音が鳴るくらいに叩いた。書店を出てしばらくすると、後ろの方でモップを振り回した店員さんが何やら叫んでいた。空に大きく浮かんだ月は、僕が歩くと一緒に追いかけてきて、それを見た僕は「きゃー」と叫びながら小走りで家に帰った。走りながら僕は、次はどこの書店を訪れようかと考えを巡らせていた。

つづく

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