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小説「チェリーブロッサム」第2話

……思い知らせてやろう。そして「ぷんぷん」と言いながら仕方なく他のバルタン星人を当たった。【前回まで】

 そんな経緯で火を噴いてまでして買ったノースフェイスのパクパ……、いやバックパックを目の前に、僕はこのバッグで旅に出るんだ。という胸の高鳴りを煽るように、バッグのトップの口をめいっぱいに広げ、そっと顔を突っ込んだ。そして遠慮がちにゆっくりと大きく息を吸い込んだ。
 僕が計画したのは、生まれて初めての海外への1人旅。そして行き先は、律儀で心配性の僕からは想像もつかない「悠久の国インド」だった。しかもツアーを選ばず、一ヶ月間行きたい所に自由に行く、バックパッカーとしての「旅」だった。
 行く先々でガイドさんを雇うことにはなるけれど、それでも飛行機すら乗ったことのない僕に取っては、ごろごろごろごろと縦横無尽に転がれるほどの広大な大風呂敷だった。 「おい、今おれ1ヶ月って言ったか? おまえ夢でも見てるのか? 初めての飛行機に初めての海外。大丈夫か? いいのか? 」と何度も何度も自分自身に自問自答した。なにより「インド」という国に意味なく惹かれる自分がいた。きっと何かある。きっと何かが起こるはずだ。このうきうきとする気持ちは、僕を前に進めようとしていた。
 僕はバッグに突っ込んだ頭をそうっと抜き出すと同時に、熱い想いが込み上げてきた。
「なめんなよ」
 と僕は熱さも極まり、誰にも言ったことのないような一言を、椅子に座り込んでこちらを見つめる猫に向かって興奮気味に言った。
 猫は少しの間こちらを見ていたが、面倒くさそうに「にゃぁ」と小さく鳴き、また体を丸めるようにごろんと眠った。
 真新しいバッグから漂ってきたものは、工業製品にありがちなケミカルな匂いだったが、これから始まる旅の妄想を高らかに振るわせた。並べた荷物を順番に詰め込んでいき、そして最後の二つの荷物を取両手で持ち上げた。表紙も外れて擦り切れたハルキの文庫本と、新品のニコンの一眼レフデジタルカメラだった。

                            
「ガチャンッ」
 ニコンを買う為に僕はこつこつと貯めた豚の貯金箱を壊した。貯金と言えば小さい頃から豚だった。欲しいものがある時は必ずこの豚を用意した。流れ出る小銭の中からお札は財布に詰め込み、使えそうな硬貨は銀行でお札にしてもらった。その足で僕は有楽町にあるヨドバシカメラの一眼レフカメラコーナの前に向かった。
「デジタルカメラがほしいんですけど」
 そう聞くと、メガネの奥の目を死なせていた店員が、突如熱い炎を纏った。どうやら店員さんのやる気に火を付けてしまったようだ。猛烈な勢いで専門用語をまくしたてながら僕ににじり寄ってくる。しかし一体この人が何を言っているのか素人の僕には全く分からなかったが、しかしとにかくニコンらしい。キャノンではなく。「カメラはニコンだ! このニコンのオートフォーカスは恐るべきスピードで対象物を捉え、このニコンのレンズは阿鼻叫喚の表情の隅々までも撮り逃さない!」云々と荒々しく説明してくれた。さらに興奮しながら話す店員さんの鼻息が見る見るうちに荒くなり、さらに激しく吹き鳴らしながら僕の顔面にじりじりと近づいてきた。僕は尻込みしながらも逃げ切れず、その鼻息が次第に上昇気流を描き僕の前髪をふわっとなびかせた。少しイラっとした。そんな鼻息をあしらいながらも、僕は聞き逃さないように必死に耳を傾けながら店員さんを凝視した。するとニコンニコンと連発してくる店員さんの言葉が、だんだんとゲシュタルトに崩壊していき、頭の中でぐつぐつと煮込まれるジャガイモと人参とこんにゃくの「煮込み」に変わっていった。
「うまそうだ」
 僕は目的を忘れかけた。隙を見せてしまった僕は、店員さんに良いように丸め込まれ、とても買うつもりも無いような金額のカメラを買っていた。支払を終えると僕は、「ひょえー」と声に出し、「やっちゃったかな……」と頭を抱えそうになったのだが、エスカレーターで降りて行くうちに、次第にそれは嬉しさと不安が入り交じる複雑な気持ちになっていった。今まで大した贅沢もしてこなかったし、これは一世一代の旅だ! もうこれは良いだろう! するとじわじわと嬉しい気持ちが湧いてきて、店を出る頃には僕の顔はにんまりとしていたが、しばらくの間、頭の中では煮込みがぐつぐつと踊っていた。
 
                            
 箱から出した新品のニコンをまじまじと見つめていると、旅への気持ちがさらに熱くなってきて、そんな熱さは僕を狂わせた。新品のニコンを、バックパックに勢い良く放り込んでしまった。「わっ! なんで勢い良く放り込むんだよ……もう」と自分に対して憤ったところでもう遅く、放り込んだ瞬間カメラは何かに当たり「ゴトリ」と嫌な音をさせた。世界ランキングでも上位に入るだろうという心配性の僕が、なぜここまで高価な煮込み、いや高価なニコンのカメラをいとも簡単に荷物あふれるバックパックに放り込んでしまったのか理解に苦しんだ。おそらく極度に興奮していたのだろう。大抵の僕は興奮して失敗する。
 僕はカメラが壊れたのではないかとショックで膝をガクガクとさせ、漫画のように「あわわわ」と声にならないような声を発した。その様子を見た猫が、今度は「にゃぁあ」と少し語尾を上げながら長めに鳴いた。 
 カメラをもう一度取り出し、シャッターボタンに指をかけてポーズをとった。
「カシャリッ」
 と声を出した。そして、
「きまった」
 と続けて言った。
 故障の確認をすることもなく、一瞬でポーズの確認へと思考はシフトしていた。「ん?」我に返り目的を思い出す。僕はいつでも慌てふためいて目的を変えてしまう。慌てると頭が真っ白になってしまう。
 気を取り直してカメラを両手で大事に持ちあげ、上から下から左右から覗き込んだ。そしてまたカメラのベルトを丁寧に畳み、今度は慎重にバッグの一番上にふわりと置いた。
「壊れてませんように」声を出して無責任に祈った。電源を入れて確認するということは、僕の頭の中には存在しなかった。まさかこのことが原因であんなことになってしまうなんて、この時の僕には想像すらつかなかった。というわけではなかった。何もトラブルは起きないのである。カメラは旅で大活躍をする。

つづく

イラストレーターと塗装店勤務と二足のわらじ+気ままな執筆をしております。サポート頂けたものは全て大事に制作へと注ぎます!