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小説「チェリーブロッサム」第1話

 デリー発成田行き、エアインディア307便に乗り込んだ僕は、座席の窓に身を寄せて、ガラス窓におでこの先をこつんとつけた。ガラスの冷たさがおでこに染みると、「あー。気持ちいっ」と言いながら、ぼーっと外の景色を眺めた。
 顔にはまだインドでの火照りが残っているようかのようだった。顔は真っ黒に日に焼け、いつしか剃ることを気にも止めなくなった髭は、無精の範囲を超えて僕のあごの周りで茂っていた。沢山の出会いと沢山の涙を流した一ヶ月のインドの旅。窓の外を見ていると、早送りでも見ているかのように旅の光景が次々と現れて、僕の後ろ髪を楽しそうに引っ張った。も、戻ろうかな。 
 この旅を境に、旅の前、そしてその後として、僕の人生の何もかもの価値観を変えてしまった。自分の中の真実の気持ちと繋がれないということが、どれほど人を傷つけて、どれほど自分を裏切るのか、それを嫌というほど知った。この旅で僕は、失くしてはいけないものを失くし、失くしてはいけないものを失くすことでしか得られないものを得て、自分が何者かを知り、自分の真実を知った。人は見えなかった真実の自分と繋がりながら大人になっていく。この旅は僕と僕の心をつなげた最愛の経験となった。僕はこれからの人生を、きっと「自分」として生きていかれるようなそんな気がして……ガツ! 「いってー……」と鈍く叫ぶと、両手でおでこを押さえながら足をばたばたとさせて、悶えた。ボーッとしすぎて窓に付けたおでこががくっとずれて、その窓の縁におでこを思い切りぶつけたのだった。隣の席に座っていた、大阪から来たというおばちゃん二人組が、嬉しそうな顔でニヤニヤと僕を見た。「じぶん、おでこぶつけたん? ほれ、あめちゃん……、ぎゃはははは」と、2人で大きな顔を揺らしながら大爆笑をしていた。僕が痛みを堪えながら苦笑いをしていると、「ポーン」とシートベルト着用のサイン音が鳴った。僕はおでこの痛みを気にしながらベルトを締めた。
 巨大な機体のボーイング747は、着陸態勢に入るために大きな翼を揺らしながら旋回し、徐々に高度を下げていった。
 僕は無事日本に帰って来た。

  *
 
 28歳の春も穏やかに過ぎ去りろうとしていた。桜の木にはまだ散りきらない花びらもちらほらと咲いていて、「春が終わる……」と感慨に浸っていた。僕は、自分の何かを変えたくてもがいており、そしてひとり、旅に出ようとしていた。
 僕は旅に出る為に新しくバッグを買った。登山にでも使うようなとても立派で鮮やかな青色のヘッドバッグの付いた、ノースフェイスの40Lのバックパック。それを背負った旅先での僕の風貌は、完全なバックパッカーとなる予定である。生地はとてもしっかりしていて、あちこちに沢山のプラスチックのバックルが付いていた。その細かい使い方や機能についてはよくわからなかったが、その使い方のよくわからないバックル達は、僕のやる気を静かに刺激した。そのバックルを意味も無くぱちんと止めては意味も無くかちっと外したりしていた。そのバッグを背負って鏡に映ると、僕は少しにやけた。
 僕はこのバッグを買う為に、初めて本格的なアウトドアショップに行った。「舐められたら終わりだ」と雰囲気に飲み込まれないように「僕、経験豊富な旅人です」という気配を無理矢理かもしだそうと、気持ちのペダルを踏みまくった。眼光を鋭めにし、それっぽく趣旨を説明をしているのに、所々で店員さんが笑いを堪えている。どうしてなのかまったくわからなくて少し不愉快だったが、それを払拭するようにさらにペダルを踏み込んだ。
「パクパックってさ、旅先で盗難に遭いやすいじゃないですかあ。僕なんかー、ずっーとパクパックで旅に出てますからあ」
 と僕は「パクパック」の二つ目の「パ」にイントネーションを置き、パクパック、パクパックと言いまくった。段々と店員さんの笑いを堪える様子が露骨になってきて、僕の表情はさらに不愉快さを増していった。そして店員さんがついに口を割った。
「あ、あのお、さっきからパクパック、パクパックってえ、クス、言ってますけどお、クスス、それもしかしてー、バックパックのお、ことじゃないですかあ? こんなの? くくくくく」
 と言って店員さんは涙を浮かべるほどに笑いを堪え、あきらかに僕をバカにするような表情を浮かべながら、本格的なバックパックを一つ手に取って僕に見せつけた。
「へ? は?」
 僕の顔の色がみるみると鮮烈な赤色に変わっていき、しまいにはバルタン星人でも倒せそうなほどの火を顔から噴いた。
「ぽ、ぽく、ぱくぱっくなんて言いまし、ました? はは、はは、えー、おか、おかしいなあ、ははは」
 僕の顔から噴かれた火によって、3人のバルタン星人(店員)はあっさりと笑い倒された。僕は「ぎゃあああ」と叫びながら走り出し、店内は「ぎゃははは」とう笑い声で溢れた。その笑い声を背中に浴びながら、僕は転がるように慌てて店を飛び出した。恥ずかしくていてもたってもいられなかったのだ。
「まったく、なんだよあいつ、嘘教えやがったな……」
 僕はアウトドアクラブに所属するという、高校生の姪っ子に用具のあれやこれやを教わっていた。「あいつおれが素人と思ってからかったな。くそ、仕返しにお年玉減額だ」僕は自分の器の小ささを、存分に姪っ子に思い知らせてやろう。そして「ぷんぷん」と言いながら仕方なく他のバルタン星人を当たった。

つづく

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